80: 囚われの桃姫2





 行きに二十日余りかけて行軍した道を、エルダは夜も眠らず五日で駆けた。
 再びここへ戻ってくる事になるとは思っていなかった、『デュ・リュラ』という名の娼館に、エルダはこっそりと潜り込む。
 二階の奥から三番目の部屋がマリーの部屋である。扉に耳を当て中の様子を窺ったが、話声のようなものは何も聞こえない。短剣を構えながら、エルダはそっとその部屋の扉を開けた。
 中はやはり静まり返っていた。朝日が部屋を薄明るく照らし、外から鳥のさえずりが聞こえるのみだ。誰もいないのかと訝しみながらも、警戒は解かずに一歩部屋の中へと足を踏み入れた。
 部屋の奥にやや大きめの窓があり、その脇に赤茶色の縦長なチェストがある。真ん中辺りにベットが置かれ、手前に小さな丸いテーブルと椅子がある。エルダが最後にこの部屋へ入った時と、何も変わった様子は見られなかった。
 矢で射抜かれたあの桃色のドレスが、自分を捕まえる為の罠だという事は分かっている。誰もいないのなら、どこかへ来いと指示したものがこの部屋にある筈だった。
 誰もいないその部屋を見渡し、瞬間、息が止まりそうになった。
 ベットの奥から隠れ損ねたように、ちらりと白い物が見える。白い―――少女の細い足だった。
「マ、リー……」
 彼女の名を呼ぶエルダの声は掠れたものになった。
(そんな、まさか―――――)
 恐怖で胸が早鐘を打った。何かの間違いであって欲しい。そう願いながら横たわる少女の元へ駆け寄ったエルダは、祈りも空しく絶望を知る事となる。
 その足は、間違いなくマリーのものだった。

 少女は口に布を詰められ、頭の上で両手を縛られていた。服は破かれ肌が露になり、その剥きだしになった白い肌には、痛ましい程に無数の傷が付けられている。しかしその割に致命傷は腹部の深い傷一つのみで、あとはそれには至らぬ浅い傷ばかりだ。
 犯され、嬲るように傷付けられた。そうとしか思えなかった。
 ――――何故。
 エルダはその言葉を反芻する。
 ――――何故、彼女がこんな目に会わなくてはいけないのだ。
 自分を呼び出す為に人質としただけなのだから、それに応じ戻ってくればマリーの命は助かるかもしれないと、そう思っていた。そう思えていた己の甘さに吐き気がする。
「マリー」
 布を口から外し、両腕を縛る紐を短剣で切ると、彼女の上半身を抱え起こした。頬に触れてみると、青褪めたその顔はまだ温かかい。
「マリー?」
 もしやと思い喉に手を当ててみると、脈が触れるのを指先に感じた。まだ、生きている。
「マリー、私だ。お前に会いに帰って来たぞ」
 その声に答えるように、ぴくりと彼女の体が動き、閉じていた目がゆっくり開く。
「……エ……ルダ?」
 少し厚めのその唇がエルダの名を呼び、そしてゆっくりと笑みの形を作った。
「ま…また……会えた……ね」
 このような目に会い、どれ程恐怖だっただろうかと思うのに、その笑みは穏やかだった。心配かけまいと笑うのだ。彼女はそういう人だった。
「マリー、私のせいで、こんな……」
「ふふ……ライナ…様は、どう、したの……?」
 マリーの手がエルダの顔に伸びる。エルダはその手を握り締めた。
「ライナスと駆け落ちした訳でも、姫でも無いと言っている」
 ふふ、と再びマリーは笑う。
「…そ…うだ、ね。あたしを…たすけに、来て…くれたんだから……お姫さ…じゃなく…て。王子様だ、ね……」
「……私が王子か。それなら、お前がお姫様だな」
 妄想癖は変わらないなとエルダが苦笑すると、マリーは「あ」と呟き目を見開いた。
「エルダ……笑っ…た」
 嬉しそうにマリーは目を細める。
「もっと…笑って。…エルダは………笑顔の方が……素敵だ……も…の……」
 マリーの目から生気が失われていく。消えようとする命に、エルダは恐怖した。
「駄目だ…死ぬな、マリー。お前が死んでしまったら、私はまた一人だ」
 二度と会う事は無い友だとしても、生きてくれてさえいれば良かった。月日が経ち、ふとマリーは今どこかで幸せに生きているのだろうかと、そう夢想するだけで心強くいられる気がした。
「……ルダ、あたし、本当はあんたが何者だって…構わなかった……。く…暗闇の中で、前を向いてるあんたが、眩しかった……あんたみたいに、なりたいって、思………。と…友達に…なりたかったんだ……」
「マリー、私だって、お前の明るさに救われていた。お前のようになりたかった」
 握りしめていたマリーの手に、力が籠った。残された命を燃やし尽くそうとするように、強い光が目に宿る。
「ねえ、泣かないで、エルダ……。いつも、笑って…いて……」
 手本を見せるかのように、ゆるやかに微笑む彼女は、まるで聖女そのもののように思えた。

「……マリー?」
 エルダの頬に伸びていたマリーの手が、力を失いぱたりと床へ落ちた。
 目から生の光が消えている。
「マリー……マリー…!」
 死を受け入れる事が出来ず、エルダは彼女の体を強く揺さぶった。まだ呼び戻す事が出来るのではないかと、必死で彼女に訴えかける。
 だが何度彼女の名を呼んでも、肩を揺さぶっても、もうマリーの体はぴくりとも動かない。
「どうして……」
 お前が死ななくてはいけないんだ。
 ふと見ると、マリーのもう片方の手が何かをぎゅっと握りしめている事に気付いた。
 開かせると、はらりと一本の茶色い紐が床に落ちる。
 何だろう、と思い。そしてはっと息を呑む。以前エルダが髪を結んでいた紐だ。マリーのリボンと交換した、だが元々何の価値も無いただの撚紐よりひもである。
 ―――こんなものを、本当に大切に持っていてくれたのか。
『あたしでも幸せになれるかな』
 別れの時、そう呟いたマリーを思い出す。彼女ならきっといつか幸せに暮らす事が出来ると信じていた。それを、私が壊したのだ。
 だというのに、死の瞬間に私に微笑みをくれるのか。私に笑えと言ってくれるのか。
 ―――――何で、こんな事に……!
 憎しみが体中の臓腑を燃やすようだった。
 許さない、彼女をこんな目に会わせた者を、許さない……!

 エルダは己の荷の中から赤いリボンを取り出し、それで髪を括った。以前マリーに貰ったリボンである。
そして剣を掴み外へ出ると、辺りへ向かって大声で叫んだ。
「出て来い、そこに居るんだろう…!」
 その声に答えるように、頭上からくく、と笑い声が聞こえた。
 振り返ると、屋根の上にエルダと同じ位の年頃だと思われる、若い男が立っていた。トルバ暗殺部隊の長ベクトが何故か居を構えていた、フィードニア東地区にある家屋へと、以前エルダを連れて行った男だ。
「お前が、マリーをあんな目に合わせたんだな」
 エルダは手にした剣をぎっと握りしめる。そうしなければ、怒りでその場に立っていることすら出来ない気がした。
「俺が? いいや、違うな」
 男は飄々と言う。
「確かにあの女を殺したのは俺だが、あんな目に会わせたのはお前だよ」
「なんだ、と」
「お前が戦場であのドレスを見つけた時に、即刻ここへ駆け戻っていれば、あの女はまだ一つの傷も負ってはいなかった。だけどお前、戻ってくることを躊躇っただろう? その迷った時間だけ、―――お前があの女を見捨てていた時間だけ、俺が遊んでやったのさ。だからほら、お前のせいだろ」
 男は目を細め、にいっと笑う。愉悦を含んだその笑みに、エルダはぞっとした。
「ふざけるな、制裁ならばこの私に与えればいいではないか。何故関係の無いマリーにあのような惨いことを……!」
 エルダはひらりと塀の上に飛び乗ると、衣服に仕込んである数本の小剣を、屋根の上の男に向かい立て続けに放った。
 だが男は顔に笑みを張り付けたまま、難なくその飛剣をかわす。
「くく……制裁ねえ。お前、案外自信家だな。自分が部隊でそれ程重要な人物だと思っているのか。フィードニア側に付いても、我等の内情をあいつらに話せる事など何も無いくせに」
「それは……」
 図星だった。トルバの暗殺部隊に所属してはいても、エルダはただ厳しい訓練を受けさせられ、ただ命じられるだけだった。内部の事など何も知らないのだ。そう、今目の前にいる男の名さえも。
「なら……何故、マリーを使って私を呼び出した。部隊を抜け出したところで制裁を与える価値も無い人間に、何の用があるんだ……!」
「簡単だ。お前に働いて貰うのはこれからなのさ。効果的な死、それがお前に与えられた唯一の仕事という訳だ」
 唯一の。
 頭を殴られたような衝撃が、エルダを襲った。
『それがお前に与えられた唯一の仕事』
 どういう事だ、それは。
「ふ…ふざけた事を、そう簡単にこの私が殺されてやると思うのか……!」
 エルダは長剣を鞘から引き抜き、屋根へ跳躍したまま剣を振り下ろす。男は武器を手にしていない。それ程なめられているのかと思うと、頭に血が上った。
 これでも暗殺部隊での訓練を、血が滲む思いで耐えたのだ。只の小娘と侮っているなら、それでもいい。マリーの受けた苦しみの、何分の一でもいいからあの男に味わわせてやる。
 男は剣をするりと避けたが、それも想定していた。そのままの勢いを止めず剣を薙ぎ払うと、後ろへ飛びそれを避ける男の、着地点になる個所へ再び小剣を投げつけた。
「おっと…!」
 男は慌てて空中で身体を捻り、それも避ける。
 だが息つく暇など与えない、更にエルダは次の小剣を投げ、自身も長剣と共に飛びかかる。
「へえ、少しは楽しませてくれるじゃないか」
 全ての攻撃をかわし、男は身軽に屋根の頂点に立った。
「いいね、そうやって必死に無駄な抵抗されると、ぞくぞくしちゃうよ」
 至極愉快そうに男は笑う。
「貴様、その笑いを、止めろ……!」
 エルダは再び長剣を振りかざし、男に飛びかかる。
「……けどこれ以上こんな所で遊んでて、目立つ訳にもいかないからなあ。残念だが、ここまでだ」
 斬りつけた先に、男はいなかった。
 代わりに首の後ろに衝撃を受け、目の前が闇に呑みこまれる。
「マ……マリー……」
 たった一撃でさえも、あの男に与えてやることが出来なかった。
 悔しさや不甲斐なさ、悲しみや行き場の無い怒り。それらを胸の内に抱えながら、エルダは意識を手放した。




 男はエルダを肩に担ぐ。
 そしてその場から立ち去ろうとした所へ、声が掛けられた。
「―――待て、その娘をこちらへ返してもらおうか」
 見下ろすと、フィードニアの兵士数人が建物の下に集まって来ていた。声を発したのは一人の老兵―――バルドゥルである。
 
 バルドゥルの位置からは、肩に担がれたエルダの身体が邪魔をして、男の顔は見えなかった。
「おっと、まだ顔を見られるわけにはいかないんだ」
 男はそうつぶやくと、家の向こう側へとするりと消えた。
「追え、逃がすな……!」
 共に連れて来た数人の部下にバルドゥルは命じ、自身も馬を駆けさせる。
 ここから街の外へ出るには南門が近いが、その辺りは人目に付きやすい。恐らく逃げたのは東だろうと予測を付けた。
 だが東でも、恐らく門は通らない。不審者ならばそう簡単には通れぬし、味方を装う内通者ならば、顔が割れる危険は犯さないだろう。どこか、門以外でも外へ脱出しやすい箇所がある筈だった。それがどこかは分からぬが、バルドゥルは兎にも角にも、東へ駆けた。
 東の街壁周辺に着くと、予想した通り先程の不審な男の姿を発見した。
 だが既に遅かった。男はロープを街壁の上のくいに引っ掛けると、片手が塞がっているというのに、もう片方の手で器用に壁を登っていく。
 そしてちらりとこちらを見ると、嘲笑うように―――少なくとも、バルドゥルにはそう見えた―――壁の向こう側へ姿を消した。
「門へ回れ、急げ……!」
 一同は急いで街壁の向こう側に回ったが、既に男の姿は無い。逃げ道も馬も周到に用意していたのだろう、逃げ道は読み当てたというのに、それでも逃がした。煙のような男だった。
「くそ……逃がしたか。仕方がない、港の船は封鎖し国境の検問も強化させろ。―――恐らく、それも抜けるとは思うが」
 バルドゥルは部下の一人に男を探し出し後を追うよう命じ、他の部下には先にボルテンにいる本軍へ戻るよう指示する。
「敵を取り逃がし、あの娘も攫われたとクリユス殿に報告しろ。―――俺は、あの方(・・・)に報告してから戻る」
「は…!」
 バルドゥルの言葉に頷くと、部下達はそれぞれに散らばって行った。
 ふと一陣の風が通り過ぎ、葉が空を舞い転げて行く。それをバルドゥルは黙って見詰めていた。











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