79: 囚われの桃姫1 ――――何故、マリーのドレスがこんな所にあるのだろう。 エルダは木に突き刺さった矢を引き抜くと、桃色のドレスを握りしめた。 戦場に有ってはならないものを目の前にして、エルダの思考は上手く働いてはくれなかった。 血は付いていない。矢に射抜かれている部分以外に、破れている所もない。微かに漂うこの香水の香りは、確かにマリーが付けていたものと同じものだ。 よく見ると裾のほつれを直した箇所がある。 「ここの店主はケチだからね、ちょっと破れたからって新しいドレスを買ってなんかくれないのさ。だからこうやって自分で縫ってるんだよ」 そう言いながらドレスを器用に繕っているマリーの姿を思い出す。 ああそうだ。やはりこれは間違いなくマリーの服。それが、何故ここに? 目の前が真っ暗になった。 そんなこと、簡単ではないか。この私を呼び出しているのだ、トルバの暗殺部隊が。マリーは間違いなく彼らに捕らわれている。私が行かねば、恐らく彼女の命は無い。 考えるより先に馬に飛び乗っていた。直ぐにフィードニアへ戻ろうと、馬を走らせようとしたその時、後ろからエルダを呼ぶ声が聞こえた。 「エルダ、何をしている?」 凛と響くその声は、ユリアのものだった。 「あ―――ユリア、様」 目が覚めた思いで、エルダは慌てて馬を止めた。 今の自分はユリア様にお仕えする身なのだ、彼女の護衛として戦場へ同行しているというのに、己の都合で勝手な行動など取っていい筈が無いではないか。 「いえ、なんでも。怪しい人影を見たような気がしたのですが、私の勘違いだったようです」 「そうか。ならエルダ、お前も救護所を手伝ってくれないか。私が手当てをしようとすると、皆恐縮してしまって中々進まないんだ」 「はい、勿論です」 とっさにエルダはドレスを己の背に隠す。 マリー。私の唯一の友。 ――――己の為に命の危機に晒されている友を、お前は見捨てるのか。 エルダの頭に中に、もう一人の己の声が響いた。 ――――ユリア様の傍を離れるわけにはいかぬなど、只の言い訳に過ぎない。本当はここで離反し、お前自身が折角得た主を失う事になるのが、嫌なだけではないか。 (いいや、違う……! 私だって直ぐにマリーを助けに行きたいんだ。私に優しくしてくれたマリー。今駆けつければ助けられるかもしれないというのに……!) だが己は軍人なのだ。主よりも己の事情を優先させることなど、あってはならないのだ。 エルダは己にそう強く言い聞かせると、馬を木に繋ぎユリアの後を追い救護所に入った。 見ると、怪我の手当てをしようというのに、跪き頭を深く下げたまま動かない兵士を前に、困った顔をするユリアが居る。フィルラーンに傷の手当をさせるなど、恐れ多いのだろう。その気持ちは良く分かった。 「ユリア様、私が代わりましょう」 済まないな、とユリアは場所をエルダに譲る。跪く兵士の顔を上げさせると、エルダは傷の手当を始めた。 マリー。 兵士が流す血が、彼女が流す血のように思え、手が震えた。 マリー、済まない。私はお前を見捨てようとしている。この私を憎んでくれていい、許してくれなどとは、口が裂けても言えるものでは無いのだから。 「どうした、エルダ。顔色が悪いぞ」 別の兵士の手当てを始めていたと思っていたユリアが、いつの間にか再びエルダの横に立ち、そしてじっとエルダの顔を覗き込んでいた。 「いえ、何でもありません」 動揺を顔に出し、主に心配を掛けてしまうとはなんと不甲斐無いことか。これだからライナスに暗殺者としては二流だなどと言われるのだ。 エルダは努めて平静を装ったが、すでに遅かったようだった。ユリアはエルダを見詰めたまま、険しい表情になる。 「何でもないという顔では無かったぞ。―――さっき私から隠した物は何だ、見せてみろ」 慌てて背に隠したのを、見られていたようだった。その時から様子がおかしいという事にも気づかれていたのだろう、拒否を許さぬ物言いに逆らうことが出来ず、エルダは己の荷の中からマリーのドレスを取り出した。 「お前のものでは無いな」 ユリアはエルダの衣服のサイズより明らかに小さなそのドレスを眺め、そして穿たれた穴に手を触れる。 「―――何があった」 今更誤魔化せるわけも無い、この衣服が友人のものだという事をエルダは素直に話した。 「けれどユリア様、何故これがここにあるのかは、私には分かりません。恐らくこちらの動揺を誘っているのでしょう、気にする事はありません」 「だが気になっているのだろう? お前はその友人の無事を確かめに行きたいと思っている、違うか?」 「私は貴女の護衛としてここに来ているのです、それ以外に私の成すべき事などありません。第一、これは貴女から私という護衛を引き離そうとする罠かもしれません。だとしたら余計貴女の傍から離れるわけにはいかないのです」 「私は大丈夫だ」 ゆっくりと子供を諭そうとするように、ユリアは言う。 「先程第五騎馬中隊の兵士が戦況を伝えてくれた。ボルテンの王都制圧は間近だそうだ、ならば後陣を守る兵士にも余裕が出てくるだろう。お前は一度ここで抜け、リュオードへの侵攻が始まるまでに戻ってくればいい」 「いえ、そのような勝手な行動を取る訳には…」 「五月蠅い、つべこべ言うな……!」 ぴしゃりと怒鳴るユリアに、思わずエルダはぽかんと口を開けた。エルダにしてみれば美しく儚い印象の方が強かった彼女の、初めて見る新たな一面だった。 「その衣装の持ち主の安否について、既に私が気になっているのだ。これは命令だ、エルダ。行って彼女の無事を確かめて来い」 凛とした声が、エルダに命ずる。己の主で無くとも、どこか従わずにはいられない声だった。 「ユリア様……ありがとうございます」 エルダは深々と頭を下げる。一生に一度、出会った主がこの方で良かったと、彼女は改めて思った。 「リュオード侵攻までには、必ず貴女の元へ戻ります」 「ああ、必ず戻って来い」 ユリアはエルダの手を取ると、にこりと微笑んだ。そしてもう一度「必ずだぞ」と呟く。 「は……!」 再び頭を下げると、エルダはそのまま天幕を出て、馬に飛び乗る。 もう一切の迷いは無かった。ただ一刻でも早くマリーの元へ。それだけを思い、馬を駆けさせた。 「クリユス殿」 戦場で剣を振るう 「あの娘が戦場から離脱し、単騎フィードニア方面へ向かっているようです」 「何だと」 クリユスは敵を薙ぎ払った後、一旦後方へ下がる。 あのエルダという女性には、公言通りに監視を付けていた。 彼女自身はユリアに危害を及ぼす人間では無いと判断した為、エルダを彼女の護衛とする事にしたのだが、それでもトルバの暗殺部隊に所属していたという事実がどこか引っかかっていたのだ。 暗殺部隊というものは、機密の多い闇の部隊である。そのような所から果たしてそう簡単に逃げ出せるものなのか。暗殺という所業があまり板についているとも思えない彼女を、副総指揮官暗殺などという大役を任ずるものなのか。 手練の者でもライナス暗殺は難しいと判断し、ベットの中でならば油断もするだろうと彼女を寄越したと考えるのが妥当かもしれないが、どうも腑に落ちないのである。クリユスには、トルバに何らかの思惑があって彼女を泳がせているように思えてならなかった。 しかしそれならそれで、こちらも彼女を泳がせてみて、相手の出方を様子見してみようかと思ったのだ。ただの杞憂ならば良し、もしこの危惧が当たっていたとしても、その「何か」がユリアを害するもので無いことだけは確信していた。 初めにボルテンがユリアのいる陣営に矛先を向けた時こそは驚いたものの、今ではあの再三の攻撃は、こちらを撹乱する為だけのパフォーマンスに過ぎないとクリユスは判断していた。 一つはフィードニア内部に裏切り者がいるのだとこちらに知らしめる為。お陰で軍内に疑心暗鬼が広がり、連携が上手く取れていない状況に追い込まれている。 もう一つはフィードニアの唯でさえ少ない兵数を、後陣を突く事によりそちらへ分散させる為だ。 故に連合国は本気でユリアの居る後陣を攻めている訳では無い、フィルラーンに手を掛けるという禁忌を犯す理由など、現在の連合国に有りはしないのだ。 「追え、バルドゥル。彼女の行く先には、トルバの暗殺部隊が必ず絡んでくる。上手くすればフィードニアに入り込んだ鼠を捕らえる事が出来るかもしれん」 「は……!」 ロランに目配せをし、バルドゥルは戦線から離脱した。 トルバの闇が動き始めたか――――。 内通者に暗殺部隊。連合国を相手にする事でさえやっかりだというのに、いつまでも得体が知れぬものを相手にしてはいられなかった。 何としても表に引っ張り出し、排除してみせる。 決意と共に再び剣を引き抜いた時、前方から歓声が沸き起こった。 ボルテン軍を突破したフィードニアが、王都の城門を破ったのだ。 王城が陥落するのは、最早時間の問題であった。 |
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