68: その名を知らず5





 エルダがフィルラーンの塔へ滞在するようになってから十日程経った頃、ライナスは再び塔へ現れた。
 ユリアに借りた白いドレスを身に着けているエルダの姿を見て、開口一番に彼が言った台詞は「お前、白は似合わんな」だった。
 別にエルダ自身、このように可憐かつ無垢な色の衣装が己に似合っていると思ってはいなかったが、しかしそうはっきりと否定の言葉をを口にされるのも腹立たしいものである。エルダは些か不貞腐れた気分になった。
「仕方が無いだろう、ここに連れてこられた時に着替えなど用意していなかったのだ。だからユリア様が貸して下さっているだけのこと、似合うとか似合わないとかいう問題ではない」
「そうか、そう言えばそうだったな。では今度赤い服を買ってきてやる。お前は赤が似合うからな」
 言いながらライナスは己の顎を擦った。そこまで気が回らなかったなと呑気に呟く。

「それは兎も角……お前に聞きたい事がある。ユリア様が戦場へ同行するなどという話をジェド殿が口にしていたのだが、それは本当の事なのか?」
 ライナスは何故か驚いたように目を見開いた。
「ああ……まあ、本当の事だが……。彼女は今やフィードニアの戦女神なのだ。少なくとも、そう信じ込んでいる兵士達が多くいるな」
「戦女神……! 戦とは一番縁遠い筈のフィルラーンが戦女神とは……」
 それでユリア様自らが戦場へ同行する羽目になっているのか。例え護衛が付いたとしても、戦場へ赴くなど彼女にとって、どれだけ恐ろしい事なのだろうか。恐らく剣など持った事も無いに違いない少女の、その心中を思うと不憫でならなかった。
 自分が傍に付いていてあげられたら―――。ライナスには遠く及ばないにしても、その辺の兵士達が相手であれば、己の剣は決して皆に引けを取る事は無いとエルダは自負してした。そして他の兵士達と違い、女である自分は、他のどの兵士達よりも彼女の直ぐ傍に寄り添い、彼女を護衛する事が出来るのだ。
 そう思い、エルダの胸がどくんと高鳴った。
 もしそのような事が実現出来たならば、自分が女でありながら兵士となり、血を吐く思いで訓練に耐えて来た事や、己の心を殺し、やりたくもない暗殺部隊での仕事をこなしてきた事、そしてそれらを経て今ここに居るに至った己の、存在意義が見出せるような気がしたのだ。
 だが頭に過ぎったその考えを打ち消すように、エルダは慌てて頭を振った。馬鹿馬鹿しい。そんな事が可能な筈がないのだ。
 エルダがユリアに付いて戦場へ行くとなると、それはフィードニア国王軍に入軍するか、ダーナのようにフィルラーンの世話役にならねばならない。
 エルダのように何の身分も実績もない、更には他国の暗殺部隊へ所属していたような人間が、国王軍へなど入軍出来る筈も無く、ましてやフィルラーンの世話役になるなど天地がひっくり返ったとしても叶わぬ事だ。
 ――――それに、もし万が一にでもそのどちらかが可能になる事があったとして、しかしエルダ自身こそが命を狙われている身なのである。守るどころが、逆にユリアを自分の戦いの巻き添えにしかねないではないか。
 そんな自分が、どうやって彼女を守るというのか。
 浅はかな考えを一瞬でも持ってしまった己に、エルダは苦笑せざるを得なかった。

「…………お前、ジェド殿と会ったのか……」
 やや眉をひそませて、ライナスは言った。
「え? ……ああ、そうだ。三日前にこの塔へ来られたのだ」
 考え事をしていたエルダにとっては、幾分か唐突な話題に感じられたが、そもそもジェド殿の名を口にしたのは自分だったのだと思い至る。
「中々変わった方だな、フィードニアの総指揮官殿は」
 彼がフィードニアの英雄だと気づく前のエルダの無礼よりも、気付いた後に礼をとった事に何故か機嫌を損ねたようだった。エルダはジェドの事を、よく解らない男だったなと思い返す。
「しかしどうやら人をからかう癖があるらしい、あれは止めて頂いた方がいいな。フィードニアの英雄としてはどうかと思うぞ」
「ジェド殿が――――お前をからかったのか……?」
 目を軽く見開いた後、今度はライナスが不機嫌そうな顔になった。自分の上官を『変わった男』などと評されるのは、流石にこの飄々とした男でも、良い気持ちのするものでは無いのだろう。
「いや……悪い意味で言っている訳ではないぞ。もしも己の上官であったら、面白い方だと……」
「あの人が他人をからかうなど、考えられん。……お前、どうやらジェド殿に気に入られたらしいな……。獣は獣同士気が合うという事か」
 顎を擦りながら、真剣な顔で無礼な事を呟くこの男を、エルダは殴り倒したくなった。前々から思っていたが、人を獣に例えるとは、一体それはどういう言い草なのだ。
「もういい、お前は兵舎へ帰れ」
 精一杯冷たい目をして見せ、手を振り追い払う仕草をするエルダに、ライナスは唐突に顔を近づける。

「お前―――――ジェド殿に惚れるなよ」
「―――――――――は?」
 予想外の言葉にぽかんとするエルダに、ライナスは苦々しい顔をする。
「お前、強い男が好きだろう? あの人の強さを知ったら、お前が惹かれん筈がない」
「何を……馬鹿な事を」
 ひょっとするとこいつ、嫉妬しているのか。
 思わずまじまじとライナスの顔を見詰めると、彼は決まりが悪そうに顔をそむけた。
 いつも自信たっぷりな顔をしているこの男の、こんな情けない顔を見たのは初めてだ。エルダは少し―――いや、かなり、楽しくなった。
「ふうん。そう言われるとその強さを見てみたくなるな。お前のように腕が立つ男が他にも居るとは、フィードニアは面白い国だ。出来る事なら一度手合わせをお願いしたいものだ」
「それは、止めておいた方がいいな」
 ライナスは苦笑した。
「ジェド殿は『俺のように腕が立つ』訳ではない。俺など相手にならぬほど腕が立つのだ。そうだな、丁度俺とお前の差と同じくらいに、俺とあの人の腕の差はある」
「何を言う、そんな馬鹿な」
 冗談かと思い笑ったが、ライナスは笑わず肩を竦める。冗談では無いという事か――――。
「そんな馬鹿な……それ程の強さを持つ男など、人外の強さではないか。到底考えられない」
「だから言っただろう、ジェド殿に惚れるなよと。あの人の強さは軍神のごとくだ」
 ライナスはエルダの腕を掴むと、腰に手を回した。
「ジェド殿は俺だって惹かれてやまん男だ。お前が惚れない保証など、無い」
「馬鹿な事を……」
 それ程の強さなど、最早想像の域を超えている。神に惚れる程の不遜さなど、持ち合わせてはいないというのに。
 その言葉はライナスにより塞がれたが、しかしそれを言ってやるつもりも無かった。
「おい、何を笑っている」
「いや…お前でも焦る事があるのだなと思って」
「当たり前だ、俺はジェド殿と違って凡人なんだ。惚れた女を手に入れようと思えば必死にもなる。ああ、くそ。お前をここに連れてきたのは失敗だったか……しかし、ここ以上に安全な所も他に無いしな…」
 不貞腐れるようにライナスは眉間に皺を寄せた。
 ああ、そうだ。こんな風に珍しく必死さを見せるライナスを、もう少し見ていたかったのだ。
 








 戦場へお供して、ユリア様をお守りしたい――――。
 それは到底叶わぬ事だと解ってはいたが、それでもその気持ちはエルダの心の中から消える事は無かった。
 しかしそう願うのは自分だけで、彼女は既にこの私などに守ってもらいたくは無いかもしれないと、エルダは思った。
 エルダがユリアに対し失言をしてから、彼女は数日の間部屋に籠ったまま、一歩も外へ出て来ようとはしなかった。
 自分は彼女に対し、過ぎた発言をしてしまったのだ。彼女はエルダの素性も何もかもを一切聞かずにこの塔へ受け入れてくれたと言うのに、己は彼女の心に土足で上がりこむ真似をしてしまった。
 ユリア様を今部屋に籠らせているのは、間違いなく己のこの不用意な発言の為なのだ。ああ、もしもあの発言を撤回出来る手段があるのだとしたら、どんなことだってするというのに。
 そうやって悶々とした日々を送っていたエルダの部屋へ、再びユリアが訪れたは、彼女が部屋へ籠ってから五日後の事だった。

「―――あなたに、頼みたい事があるのです」
 ユリアはエルダの入れた紅茶を一口飲むと、そう切り出した。
 少女の顔色はまだ優れないままで、そして目は赤く濁ってはいたが、ユリアの顔を見る事が出来、エルダは心からほっとした。
 今日は世話役のダーナを連れて来てはおらず、一人である。
「何でございましょうか。私に出来る事なら、何なりと」
 エルダは一も二も無く頷いた。
「あなたは元々軍人だったそうですね……。私に、剣の扱い方を教えて貰いたいのです」
「――――――え?」
 エルダは目を見開いた。このフィルラーンの少女が剣を? 何かの冗談だとしか思えない。
「私は故あってフィードニア国王軍と共に、戦場へ同行しています。前の戦いでは危険な目にも会いました。その時は…自軍の兵に助けて貰いましたが……戦場では唯でさえ足手纏いな身、せめて自分の身を守るくらいの事が出来ればと」
「そんな……」
 多少剣を習ったところで、この少女が屈強な兵士たちを相手に戦えるとは思えない。ましてやフィルラーンがその剣で相手を傷付ける訳にはいかないのだ。自分の身を守り、尚且つ相手も傷付けずに戦うなど、エルダにとってでさえ至難の業である。彼女には全くと言っていい程、無理な話だと思えた。
 私が彼女の剣になれれば――――。
 思わず口に出しそうになった言葉を、エルダは呑み込む。それもまた、無理な話であるのだ。
「何故貴女が戦場へなど、行かねばならぬのでしょうか。戦女神などというものを、フィルラーンの貴女に求めねば戦えないのであれば、フィードニアの軍人が情けないのです」
 知らず、口調に怒りが籠った。ああそうだ、なぜこの少女がそのようなものを背負わねばならぬのだ? フィードニアの男共は、なんと不甲斐ないのであろうか。
「いいえ、違うのですよ、エルダ。――――フィードニアは『戦女神』などという存在に頼らなくても、十分に戦えるのです。そう、ジェドという英雄を柱にして……」
 ユリアは紅茶を再び口にすると、小さく息を吸い込んだ。
「けれど―――私はこのフィードニアから、その『英雄』という柱を取り除きたいのです」

 ユリアのその言葉に、エルダは息を呑み込んだ。
「それは、どういう事なのですか……?」
 困惑したエルダの問いに、少女は憂いた表情になった。
「この国はジェドという英雄を得て、大きくなりました。彼が居るからこそフィードニアは強国であり、兵士達は己の国の強さを疑わず戦って行けるのです。そう、ジェドは正にこの国を支える柱……。 ――――けれどもし、その柱が突然無くなったら? もしもジェドがこの国に反旗を翻したら―――この国はどうなると思いますか?」
「それは……」
 それでなくとも連合国との戦いが激化している今、主力を失ったこの国は、あっさりと滅びの道を辿るだろう。
 軍神のごとく、とジェドを評したライナスの言葉を思い出した。
 そうなのだ、たった一人の存在が、この国の明暗を左右するのだ。
「ただ一人の英雄の存在が無くとも戦える、強い軍をフィードニアに作る……。それは私の願いなのです。だから、『戦女神』というその神の影は、私自身が自ら被った影なのです。そう、全てはこの国の、行く先の為……」
 そう語ったユリアは、ふと自嘲の笑みを浮かべた。


「――――ジェドを愛しているかと、聞いたな」
 唐突にユリアの口調が変わった。
「い……いえ、それは……! 申し訳ございません、そのようなご事情があるとは知らず、勝手な憶測を申しました」
 その場に跪こうと椅子から立ち上がるエルダを、ユリアは手で制した。
「いいのだ、そうではない…」
 そして手にしていたティーカップを皿の上に置くと、ふふ、と楽しくもなさそうに笑った。
「私はこの数日の間、ずっと考えていた……。クリユスやロラン達が、私の想いに賛同し、力を貸してくれている。私もずっと、己の心にそれを大義名分として掲げてきた。――――けれど結局、それはただの大義名分でしかなく、私の本意では無いのだ」
「ただの…それはどういう……?」
 やっとユリアや彼女を取り巻くこの国の事情が分かってきたと思えていた所に、けれど彼女自らがそれを否定する。エルダはただ困惑するしかなかった。
 次の言葉を求めようとするエルダの問いに、ユリアは視線を遠くへ泳がせた。そう、遠い昔を思い出そうとするかのように。

「……この話は、今まで誰にも話した事は無い。ダーナにもクリユスにも、私の醜い心を知られたくなくて話せなかった。けれどエルダ、私の事をあまりよく知らない、また私もお前の事をよく知らない。そんな距離感に居るお前になら、話せるかもしれない……。いや、聞いて欲しいのだ。―――私の、罪を」
「ユリア……様」
「―――ジェドを愛しているかと、お前は私に聞いた」
 ユリアは再びエルダに視線を戻す。


「―――――そうだ、私はジェドを愛している。私が五歳の時、リョカの町で出会ってから、ずっと」


 そして、ユリアは自身の昔話を語り始めた。











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