69: ユリア1





 私がジェドに初めて出会ったのは、私が五歳の時に、フィルラーンの修行の地であるラーネスへ向かう途中に立ち寄った、リョカという小さな村でだった。

 リョカ村は当時のフィードニアの国境付近にあり、私はその村を最後にフィードニアを離れる筈だったが、丁度その直前に隣国の戦況が悪化し、叔父と母と共に暫くそこへ留まる事になったのだった。
 仕事で長く家を空ける事が出来なかったらしい父とは、既に故郷を旅立つ時に別れを告げていた。代わりに叔父が私をラーネスへ連れて行ってくれる事になったが、ラーネスまでの行程を付き添える親族は一人のみ。母と共に居られるのは、その国境までだった。
 いや、例え許されていたとしても、病弱だった母が付き添えたのはそこまでだっただろう。リョカへ来るまでの旅でさえ母の体には負担が大きく、リョカの地では殆どの時を床に伏して過ごしていたのだ。
 けれど母に寄り添い滞在する事が出来たその数カ月は、私にとって掛け替えの無いものだった。いっそ隣国の戦いが、ずっと続いてくれればいいのにと願っていた。それはフィルラーンにとってはあるまじき願いかもしれないが、たった五歳であった少女が両親から離され、誰も知る人の居ない土地へと出向かなければならないのだ。それも無理からぬ事であろうと、どうか許してほしい。
 そして私にはもう一つ、その土地から離れがたいと思う理由があった。そう、私はその地で一人の少年と出会ったのだ。

 後で思えば、リョカ村の人々にとって私という存在は、ある意味厄介なものだったのだろう。
 唯の田舎の小さな村でしか無いリョカ村に、この先フィルラーンとなる国の宝が滞在する事になったのだ。何か粗相をしでかしでもしたら、国からどんなお咎めを受ける事か分からない。かといってどれ程手厚くその少女を持て成した所で、その長期の滞在がリョカ村に何か恩恵を授ける訳でもないのだ。
 しかも隣の町ではナシスというフィルラーンを輩出し、その恩恵を受け裕福になって行く様をつぶさに見ていた所だったのである。数か月とはいえ同じ気苦労を負いながら、得るものは何もない。恐らく早く出て行って貰いたい存在であったに違いない。
 だが私はというと、人の背後にぼんやりと黒い影が見えると口にしてしまった為に、生まれ育った故郷から離れなければならなくなっただけの、ただの少女だった。フィルラーンというものの自覚など何もなく、そんな村人の気苦労など察する事が出来なかった。
 つまり私という幼い少女は、滞在する屋敷に大人しくじっとしている子供では無かったのだ。

 母が起きている僅かな時は、べったりとベットの脇に張り付いていたが、母が寝てしまうと私は外へ遊びに出た。
 その村には子供もそれなりにおり、私は一緒に遊んで貰おうと皆に声を掛けたが、けれど村の子供達には余所余所しい態度を取られるか、あからさまに逃げられるかのどちらかで、遊んでくれる者は誰もいなかった。
 今となれば、恐らく彼らは私と遊ばないようにと大人達に言い含められていたのだろう。フィルラーンなどと一緒に遊ばせて、万が一怪我でもさせたらと危惧するのは、当然といえば当然のことである。
 だが当時の私には、何故皆が自分と遊んでくれないのかが解らず、悲しい思いをしたものだった。
 とはいえ、そこで村の中を歩き回ることを止めたわけでは無かった。誰にも遊んで貰えないなら、一人で遊べばいいのだ。
 私は蝶を追いかけてみたり、母に持って帰る花を摘んだりして時を過ごした。

 そしてあの日は、確か野兎の巣を探していたのだ。
 いつものように母へ贈る為の花を摘んでいた時に、ふと野兎の姿を見つけ、兎が走って行った方向へ私は駆けた。
 辿りついた場所は村の東の外れで、家も畑も無く、ただ大きな木と岩と川、あとは野原が広がっているだけという場所だった。
 他に人はいない。私は秘密の遊び場を見つけた気分になり、一人わくわくとした。
 けれど自分以外にここには誰もいないと思ったのは、勘違いだったと直ぐに分かった。初めは岩陰がその姿を隠していた為分からなかったが、一本の大きな木に近づいていった私は、その木の下で黙々と剣を振る一人の少年を見つけたのだ。
 何て綺麗なのだろうと、私は思った。
 少年は彼の身の丈にしては大き過ぎる剣を、けれどまるで紙切れでも扱っているかのように軽々と操っていた。
 その動きはとても綺麗で、例えるなら神聖な舞を見ているかのようであり、その姿に私は強く惹きつけられた。

「――――――何だ、お前は? 見世物じゃないぞ、どこかへ行け」
 少年は剣を振るのを止めると、眉根を寄せたまま私を見下ろした。
 気づかれていたとは思わなかったので、急に話しかけられどきりとしたが、その黒い瞳が自分をしっかりと捉えている事に嬉しくなった。この村の他の子供達には、目さえまともに合わせて貰えなかったのだ。
「わたし、ユリア。十日くらい前にここに来たの。ねえ、もっと見ていちゃだめ?」
「見世物じゃないと言っているだろう」
 少年は不愉快そうな顔になる。
「だってだってすごくきれいだったんだもの。おねがい、もう一度だけ」
 私はせがんでみたが、少年は聞き入れてはくれなかった。剣を鞘へ収めると、私に背を向けさっさと歩いて行ってしまった。
 けれど私は諦めきれず、次の日も、またその次の日も。何日でもその場所に通いつめたのだった。
 その少年はいつもそこに居た。私が行くと剣舞を止めてしまい、相手にしてはくれなかったが、それでもその場所に現れなくなるという事は無かったので、全く拒絶されている訳では無いのだと、私は幼心で勝手に判断していた。いつか友達になってくれるかもしれないと、期待していたのだ。
 そしてその機会は十日程通い詰めた頃に現れた。

 あの日、いつものように岩陰の隙間からジェドの剣舞を見ていた私のすぐ傍に、少年の剣が突き刺さったのだった。
 ほんの少し剣が飛んだ方向がずれていれば、私は大怪我をする所である。少年の顔は酷く青褪めていた。
 もしかするとジェドは、ああして剣術を鍛えている時に、誤って周囲の人間を傷付ける事を恐れていたのかもしれない。他に誰も来ないあの場所で、いつもひっそりと一人でいたのはその為なのかも知れない。今のあの男からは想像し難いが、あの頃のジェドはそういう心優しい少年だった。
 少年は私に向かって酷く怒鳴ったが、私は驚きの余り尻餅をついたまま身を固まらせていた為、彼が何を怒鳴ったのかは覚えていない。恐らく「だから来るなといったんだ」とか、そんな事だろう。
 家に帰った私はその夜熱を出した。寝込んだのは二日だが、翌日も屋敷から出してもらえず、再びあの木の下へ行ったのは四日後のことである。
 少年は私の顔を見ると、何故か驚いた表情になったのだった。
「なんで来たんだ」と少年は言った。あまり覚えていなかったが、そういえば熱を出す前に少年に怒られたのだということを思い出し、私は慌てて弁解した。怪我をした訳ではなく、熱を出していたから来れなかっただけなのだということと、もう少し離れて見ているから、邪魔をしないからまたここに来させて欲しいという事を。
 少年が剣を扱っている時に傍に近づく事は、危険なのだという事は身を持って分かったが、それでもどうしても彼に会いに来たかった。どうしても友達になりたかったのだ。

 私のその必死の言葉を聞いているのかいないのか、少年は顔を顰めた。そして、呟く。
「――――もう、来ないかと思ったんだ」
 息を吐くようにそう言うと、突然少年の目から涙が零れた。
「お兄ちゃん? どうしたの、おなかが痛いの?」
 そう幼い私は少年の顔を覗き込んだが、恐らくあの三日間、ジェドは自分が手を滑らせた為に私に怪我をさせたのではないかと、そう酷く心配したのではないかと、今にしてみると思う。
 だがあの時の私は、どうして目の前のこの少年が突然泣き出したのか分からず、ただおろおろとするだけだった。そしてそんな私を、少年は不思議そうに見下ろしたのだ。
「……俺を心配しているのか? 他人の心配をするなんて、おかしなガキだな」
「ガキじゃないよ、ユリアだよ」
 私はぷう、と頬を膨らませた。
「………ユリア」
 ゆっくり咀嚼するように、少年は言った。初めて少年に名を呼んで貰い、私は嬉しくて堪らなかった。
「ねえ、お兄ちゃんの名前は?」
 ジェドだと、少年は名乗った。私はその名を輪唱するように口にする。

 その時ぎこちなく笑ったジェドの顔を、私は今でもはっきりと覚えている。











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