55: 黒猫と桃





「デュ・リュラ」という名の娼館の、エルダが仮の住まいにしている一室の戸を、誰かが叩いた。
 返答を返すと、開いた扉から一人の女が顔を覗かせる。
「食事の支度が出来たよ、厨房に下りて来いってさ」
「ああ、そう。……分かった、私は後で行く」
 ここの女達と馴れ合うつもりなど毛頭無く、エルダはいつも皆より遅くに食事を取るようにしていた。その為スープはいつも冷め切ってはいたが、彼女にとって食事というものはただ単に栄養を取る手段に過ぎなかったので、特に構うところでも無かった。
 娼館にいる他の女達も既にそんなエルダの態度に慣れたのか、はたまた元々他人に干渉などしない性質たちなのか、彼女に声を掛ける以上の事はせず、後は放っておいてくれていた。
 だというのに、今日声を掛けに来たこの女は、何故か用件を伝えた後も部屋から出て行こうとしなかった。
「…………何か私に用なのか?」
 何か物言いたげな様子でじっとこちらを見つめてくる女に、エルダは仕方が無く声を掛ける。用事があるならさっさと済ませて欲しかったのだ。
「あの……」
 女は少し躊躇ためらったあと、廊下に誰もいないのを確認し、エルダの部屋の中へ入り扉を閉めた。そしてエルダの傍に近寄ってくると、少し頬を紅潮させながら、にこりと笑った。

 女の名は、確かマリーと言った。
 淡い茶色の髪はふわふわと波打ち、目尻の下がった大きな瞳の左下には、小さな黒子がある。唇はやや厚く、笑うとその横にはえくぼが出来た。一見にはやや幼い印象を受けるのに、どこか色香も感じる。
 エルダは何となく、頬を紅潮させるマリーのその様を、甘い芳香を放つ桃のようだと思った。
「―――で、一体何の用なんだ?」
 なかなか用件を話そうとしないマリーに苛立ち促すと、彼女は意を決したように顔をエルダに近づけた。
 そして小声で、だがはっきりと口にする。
「――――エルダは、どこかの国のお姫様なのでしょう?」
「――――は……?」
 あまりに予想外だったその言葉に、エルダは一瞬呆気にとられた。何の冗談だと思ったが、マリーの顔は至って真剣そのものだった。
「そんな訳無いだろう、馬鹿馬鹿しい事を言うな」
「隠さなくてもいいのよ。あたし、絶対に絶対に誰にも言わない、秘密にしておくから……!」
 否定の言葉を無視し、マリーは喜々とした表情でエルダの手を握りしめる。
「他国のお姫様だったエルダは、ライナス様と身分違いの恋に落ちて、ここに逃げて来たのでしょう? あたしには分かるわ。だってこんな所に身を隠していても、エルダには気品があるもの」
「……………………」
 マリーの主張はこうである。
 娼館にいるにも関わらずエルダは客を取る事が無く、訪ねて来る男はたった一人のみである。どうやら彼女は店の主に結構な額の金を渡しここに住み着いているようで、娼婦としてここにいる訳では無いらしいと、他の女達の間でも噂になっていた。そんな話を聞き、マリーは思ったのだそうだ。
 宿泊先を探すのならば宿屋など幾らでもあるのに、わざわざ娼館などで寝泊まりするというのは、エルダが何者かの追手から逃れる為身を隠しているからに違いない。そして彼女の元へ足しげく通うライナスは、そんな彼女を追手から守っているのだと。
 フィードニアの王族や貴族では無いエルダを、国王軍副総指揮官であるライナスが秘密裏に守っているという事は、職務ではありえないのだから二人は恋人なのであろうと、そう推測したのだとマリーは語った。
「恋人二人が逃げる理由なんて駆け落ち以外に考えられないわ。そしてライナス様程の方が駆け落ちしなければならない相手となれば、それはもう王族の方しかないもの」
 そう目を輝かせ語るマリーに、エルダは溜息を吐く。馬鹿馬鹿し過ぎて、反論する気さえ起らなかった。
 
 これ以上ここでマリーの妙な妄想を聞き続ける気にもならず、エルダは立ち上がり厨房へと降りて行った。
 食堂は客が食事を取る所であり、ここで働く女達は皆厨房の脇に置かれた机で食事を取る。エルダもまた、食堂をうろつき目立ちたくは無かったので、他の女達と同様に厨房の片隅で食事を取っていた。
 降りてみると厨房には他の女達の姿は既に無く、冷めたスープとパンが机に置かれているだけだった。
 それは彼女にしてみればいつもの事であったため、黙って机に座りスプーンを手にすると、彼女に付いて一緒に降りてきたマリーがスープを取り上げた。
「待って…! お姫様にこんな冷めたスープなんて食べさせられないわ。せめて鍋に戻してもう一度温めましょう」
 言いながら彼女は鍋を取りだすと、二人分のスープを戻し火に掛けた。
「……いい加減にしないか、この私が他国の姫などである筈が無いだろう。幼い頃に死んだ両親は王族などでは無く、私は只の孤児でしか無い。勿論王宮に足を踏み入れた事など一度も無い」
「もう、隠さなくてもいいと言っているのに」
 いい加減にして欲しいのはこちらの方だと言わんばかりに、マリーは肩を竦める。
「只の孤児にしては動作が洗練され過ぎているわ。それに一般庶民の女は、そんな喋り方をしないわ」
 この喋り方は彼女が軍人であるからで、動作もやはり訓練された軍人である故に、身に付けた隙の無い機敏な動きがつい節々に現れてしまっているからである。
 それは優雅さなどとはかけ離れているものであるが、貴族の人間と触れ合う機会など無いマリーに、その違いを判断する事は困難なようだった。
 マリーは温めたスープを再び皿に注ぎ、にこりと笑う。
「このように粗末な食事ではお辛いでしょうが、残念ながらここでは豪勢な食事を用意してあげる事が出来ないわ。それもライナス様との愛の為、我慢してね」
 再びそっとエルダの手を取るマリーを、張り飛ばしてやりたいと彼女は思った。

「エルダ、あんたに客が来てるよ。いつもの客がね」
 店の別の女が厨房に顔を出し、そう告げた。その言葉にマリーが目を輝かせる。
「ライナス様だ。ほら、ほら。早く行きなよ。愛しい騎士様がお待ちだよ」
 言いながら、マリーは扉の方向へエルダの背をぐいぐいと押してくる。
「だれが、あんな男―――」
「あ、そうだ折角だから食事も持って行きなよ。二人で食べるといい」
 言うが早いか、マリーは手早く二人分の食事をお盆に乗せる。全く、人の話を聞かない女だ。
「こんなもの、食べるものか」
「そりゃあまあ、国王軍の総指揮官様に出す食事としては質素だとは思うけどさ、けどエルダもこの質素な食事で我慢してるんだもの、文句を言う筈が無いさ。―――それに味は悪くは無いと思うよ」
 はい、と有無を言わさぬ様子で差し出されたそのお盆を、仕方が無くエルダは受け取る。だがこれを持って行ったところで、あの男が一口でもこれを口にする事など、ある訳がないのだ。それはマリーが言うような意味では無く、二人の関係が暗殺者とそのターゲットであるからだ。
 己を殺そうとする人間が差し出した食事を、大人しく食べる馬鹿などこの世にいる筈がなかった。


「よお、久し振りだな」
 部屋へ入ったエルダを見るなり、ライナスは歯を見せて笑った。
「……こんな昼間から娼館などへ足を運ぶとは、フィードニア国王軍は余程暇らしいな」
 冷たい目で見るエルダに、ライナスは笑みを苦笑に変え、肩を竦める。
「戦場から帰り諸々の雑務を終え、やっと得た自由の足で真っ先にここへ来たというのに、つれない事を言うものだ」
「昼飯時に来るなど、迷惑極まりないと言っているのだ」
 部屋にある小さな丸い机に、手にしていたお盆を乗せ、エルダは一人食事を始める。それを黙って見ているライナスに、彼女は厭味な目線をくれてやった。
「―――食べたければお前も食べるがいい」
 勿論食べる筈がない事は分かっている。入ってもいない毒に怯える臆病ものがと、笑ってやりたかったのだ。
 いつも余裕の顔で飄々としているこの男が怒りでもすれば、少しは自分の鬱々とした気分も晴れると言うのもだと、エルダは思った。
 だがライナスは彼女の言葉に不快な顔をする訳でも無く、それどころか笑みを見せたのだった。
「俺の分もあるのか。では遠慮なく」
「―――――え?」
 ライナスは机に添えられた小さな椅子にどかりと座ると、何の躊躇も無くスープを口にする。そしてパンをちぎり、口に放り込んだ。
「な……何を、お前は自分が何をしているのか、分かっているのか……!」
 信じ難い光景に動揺し、エルダの手が震えた。何なのだ、この男は。
「何って……お前が食べていいと言ったのでは無いか」
 再びスープを啜り、そして「旨いな、これは」と言った。
 その飄々とした態度に、エルダは机を叩く。
「お前は、馬鹿なのか…! 私はお前を殺そうとしているんだぞ、この飯に毒が入っていると思わないのか。それとも私にそんな度胸など無いと、見くびっているのか?」
「見くびってなどいないさ。―――けどこの飯に毒は入っていない。お前が俺を殺すのに、そういうやり方はしないな」
「何を根拠に、そのような戯言を…」
 人を見透かすようなその言い様に、腹が立った。お前に、私の何が解る。
「言っただろう、お前は暗殺者には向いていないと。お前は矜持きょうじが強い、俺を殺す手段はあくまでも剣だ。毒を使うのなら、せいぜい剣先に塗るくらいだな」
「何を、馬鹿な―――」
 怒りの余りに、眩暈を覚えた。
 知った事をぬかすな。食事に毒を入れなかったのは、ただ単にお前がそれを食べる筈がないと思ったからだ。貴重な薬を無駄にする事も無いと、そう思っただけなのだ。
 エルダはベットの下に放り込んであった剣を手にする。
「――――ならばお望み通り、この剣でお前を刺し貫いてやる……!」
 激情のまま、剣をライナスに向け振り下ろした。だが男は簡単にそれを避け、逆に彼女の手を掴む。
「まあまあ、怒るな。それより折角のスープが冷めるぞ」
 言うと、ライナスは再び椅子に座り、スープを飲み始めた。
「うん、やはり旨い」
 ぬけぬけと言う。
 正攻法でライナスと剣を交えても、エルダの力量では彼に敵わないことは、最早彼女にも分かっていた。
「………そんなもの、旨いものか」
「お前はフィードニア国王軍の兵舎で出される食事の不味さを知らんから、そんな事を言うのだ」
 エルダは剣を再びベットの下へ放り込むと、もう一つの椅子に座った。
「………勝手に言っているがいい。お前に出す次の食事は、必ず毒入りにしてやる」
 負けず嫌いだなと、ライナスは笑った。

 ライナスの女になって以来、何度も寝込みを襲った。
 だが寝ていると思ったのに、何故か寸ででその手が伸び、剣が弾かれる。
 エルダの傍らで、いかにも油断し寛ぐ男を、何故殺せない?
 どうやっても殺せないこの男が心底憎かった。
 だが剣意外の方法で殺す方法を考えた事は一度も無かった。それはライナスの言う通り彼女の矜持に関わる事であり、譲れない美学であった。
『この飯に毒は入っていない』
 分かったような事をと、怒りが込み上げる。
 分かるものか。男に生まれ、強さも地位も持ち合わせた恵まれた人間に、この私の気持など。
 どんな思いで暗殺などという道に足を踏み入れたのか、お前に分かって溜まるものか。
『お前が俺を殺すのに、そういうやり方はしない』
 エルダの心の中で、憎悪にも似た、だが別の感情である何かがうごめくのを感じた。
 焦りか、己の不甲斐なさによる自嘲の心なのか―――。それが何かは分からないが、ただ苦しさが増すばかりであるということは分かった。
 この男を殺しさえすればいい。そうすれば己の道は開け、この鬱々とした心も解放されるのだ。
 たったそれだけの事なのだ。










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