56: 片翼の印





 アレクとロランは、とある建物の前に立っていた。
「おい、本当に入るつもりなのか?」
 所在なさげな声を、ロランは発した。
「当り前だろ。ここまでのこのことついて来ておいて、何を言ってるんだよ」
「お前が俺を無理矢理ここへ連れて来たんだろうが……!」
 憤慨するロランに、アレクは馬鹿にしたように鼻を鳴らす。
「俺はお前を気絶でもさせてここに運んで来たのか? お前のその二本の足で歩いてきたんだろうが。今更優等生ぶるなよ、このむっつりが」
「何だと……!」
 掴みかかってこようとするロランをアレクはひらりとかわす。
 身のこなしの軽さは、アレクの方が上手だった。

 二人が立っているのは、「デュ・リュラ」という名の娼館の前である。
 先の戦いの最中さなか、『生きて帰れたら美女を抱きに行こうぜ』と言った己の言葉を、アレクは忠実に実行に移したのだった。
 冗談じゃ無かったのかと躊躇するロランを、確かに強引に連れ出したが、だが娼館の前に来てまで躊躇ためらっているこの男の心境が良く解らなかった。
 他の兵士の話じゃあ、国境警備隊に所属していた頃は結構遊んでいたという事だったのに、今ではこの石頭ぶりである。余程あのフィルラーンの少女に骨抜きになっているらしい。十九歳の血気盛んな年頃の男が、なんとも情けない限りである。
「おい、だがライナス殿の女を……というのは悪趣味過ぎる。それにこれがライナス殿の耳に入ったら只では済まんぞ」
「ライナス殿の女って言ったって娼婦だろう? だったら誰のものでもあるものか。全く、ユーグと同じような事を言うんじゃねえよ、胸糞悪くなる」
 ここへ出かける前も、ユーグに散々止められ説教されたのだ。
『娼館でお働きの方とはいえ、上官の恋人である方に手を出そうなどと、なんとはしたない、なんと不道徳な事をなさろうと言うのです。若が御年十三歳の頃より八年間、立派な城主となられるようお傍でお仕えして参りましたが、このような情けない真似をなさるとは、私は……』
 くどくどと綴られる説教の言葉に辟易し、アレクは彼をいてさっさと逃げ出してきたのだった。
「入口でうだうだ言って突っ立ててもしょうがねえよ、とにかく中へ入ろうぜ。大の男二人が店先で問答してたら迷惑ってもんだぜ」
「あ、おい……!」
 ロランの服を掴み、アレクは強引に店へ入った。

「ようこそ、いらっしゃいませ」
 店の主人であるらしき中年の男が、愛想良く二人を迎えた。
 店の外観もそうだが、内装も古めかしい。この店に本当に美女がいるのかどうか疑わしいもんだと、アレクは思った。
「なあ、ここにライナス副総指揮官殿が通ってるんだろ? その女をお願いしたいんだが」
「おい……もがもが…っ!」
 口出ししようとするロランの口を、アレクは手で塞ぐ。
「ライナス様の……はて……」
 店主はなぜか考えるそぶりをした。そして、小さく首を振る。
「……何かの間違いではありませんか? この店にライナス様が来られた事など、一度もありませんが」
「おいおい、そんな訳無いだろ。こっちは情報を掴んで来てるんだからよ。――――ああ、俺達の身元を怪しんでるって訳か」
 国王軍副総指揮官の贔屓の女を、そこらの輩に無闇に充てがっては格が下がると、要は出し惜しみをしているのだ。
 無認可経営のこんなちんけな娼館が偉そうにと、アレクは内心で毒づきながらも愛想笑いを作ってみせた。
「心配いらない、俺達も国王軍の者だ。俺は国王軍第四騎馬中隊第二小隊長アレク・ハーディロン、こいつも弓騎馬隊の小隊長だ。客としては悪くは無いと思うがな」
「これは…国王軍の小隊長様でしたか」
 店主は思いがけない上級の客に、媚びへつらうような顔になったが、それと同時に困った顔も作る。
「しかしそう言われましても、ライナス様には当店へお越し頂いた事は一度もございませんし、ですから無論のこと、ライナス様にご贔屓にして頂いている者というのも、いる筈が無いのでございます」
「なんだと?」
 再び喰い下がろうとするアレクの肩を、ロランが叩く。
「おい、店主がそう言ってるんだ、お前の掴んだ情報が間違ってたんだろう。帰ろうぜ」
 だが例え情報が間違っていたとしても、国王軍の副総指揮官が通っていると噂が立つのなら、この店にとっては随分名誉な事ではないか。身分の高い客が付くという事は、店の格が上がるものである。噂に便乗するならともかく、それをこうまで否定するとは――――。
 この店には、何かあるな。

「あ、お待ちを。折角ここへいらしたのも何かの縁、お目当ての女では無いかも知れませんが、他にも綺麗な女は沢山おりますので、是非楽しんで行って下さいまし」
「いや、今日の所は――」
 ロランが断ろうとするより先に、店主は店の奥へ声を掛け、直ぐに女を二人連れてきた。
 その片方の女を見て、ロランは硬直した。
「金の…髪――――」
 正確にはその女の髪は、金に近い茶色であるといえる。だが背中まで伸びた真っ直ぐな髪は、誰かを連想させなくも無かった。
「俺――――俺、やっぱり帰る……わ、悪いなアレク」
「あ、おい……!」
 耳を赤くし、顔は真っ青という不気味な顔色をしたロランは、そう言い捨てると脱兎のごとく店から逃げ去った。
「ち……臆病者めが……」
「何なの、一体」
 金髪――いや、金に近い茶髪の女が、不満げな声をだした。まあ、明らかに自分を見て逃げ出した男に、不快な気持ちになるのは当然の事と言えよう。
「あいつは金髪コンプレックスなのさ、悪いな。次あいつがこの店に来た時は、黒い髪の女にしてやってくれよ」
 女は肩を竦め、やってられないとばかりに、店の奥へ戻って行く。折角の美女だというのに、勿体無いことをする奴だ。
 そもそも抱けもしない女にああも執着するなど不健全極まりない。そのうち不能になるんじゃないだろうかと、ロランに言わせれば余計な世話であるだろう心配を、アレクは真面目に考えてみたりした。

「――――で、あんたも帰るの? それともあたしと遊んで行く?」
 その場に残ったもう一人の女が、言いながらにこりとアレクに笑いかけた。
 左目の下に黒子がある、垂れ目の可愛い女だった。いや可愛いだけでは無く、ややぽってりとした唇には、色気もあろうか。
 そして、胸も大きかった。
 女につられ、アレクもにこりと笑みを作った。
 この店には何かがある―――――。
 ちらりと過ったその疑心は、だがとりあえず脇に置いておくとして、アレクは素直にこの場を楽しむことにした。





 数刻後、アレクは王城の背部に建てられている兵舎へ戻る為、城下街中央区の大通りを歩いていた。
 あんな今にも潰れそうなちんけな娼館の割に、良い女がいたもんだと、アレクはひとり悦に入る。
 ライナスの女という人物が存在するのであれば、これは想像以上に美人かもしれない。是非会ってみたいものである。
 そう思い、だがこれを言ったらまたユーグは、あの開いているのか分からぬ程の細目を無理に見開き、そして垂れた目を吊り上げんばかりに怒るのだろうなと想像し、げんなりとするのだった。
 自分より五歳年上なだけだというのに、全く老人のような男である。折角生意気な年下の男のお守りから解放され、国王軍の小隊長になったのだから、もう少し遊ぼうという意欲を見せてもいいというものだ。
 そういえば、八年前にユーグが自分のお目付け役としてハーディロン家に仕えるようになって以来、一度もあいつの浮いた話を聞いた事が無いと、アレクは思った。
 娼館へ誘ってみても、付いてきた事は無い。十八歳から二十六歳の八年間など、まさに男ざかりの時期であるだろうに、一体あいつは何が楽しくて生きているのだろうか。
 ただ忠誠の為だけに一生を費やすなど、アレクには考えられぬ事だった。

 そんな事を考えながら歩いていたら、野菜籠を持った老人とぶつかってしまった。
 野菜は派手に道端に転がり、老人も尻餅を付き、痛そうに腰を擦っている。
「ああ、悪い、じーさん。考え事をしていて、気付かなかった」
 女子供や老人には親切にしておかないと、ユーグに叱られるのだ。アレクは老人に手を差し出し助け起こすと、野菜を拾い籠へ入れた。
「いいや、わしも籠で前が見えなんだ。野菜を積み過ぎたかの」
 老人は幾分曲った腰で、再び野菜籠を持ち上げようとする。それは小柄で痩せた老人が持つには、いかにも大き過ぎた。
「じーさん、俺が運んでやるよ」
 アレクは老人から籠を取り上げると、ひょいと持ち上げる。
「悪いのお。ありがとうよ」
 礼を言う老人の顔をよく見てみると、どこかで会ったような顔である。
 開いているのか分からぬような細い目の、柔和な顔をした老爺――――考えるまでも無い、ユーグに似ているのだ。
「俺じーさんにそっくりな顔の男を知ってるよ。じーさんさ、もしかしたら生き別れの孫なんてのがいるんじゃねえの?」
 アレクは思わず噴き出しながら言った。軽い冗談ではあったが、しかし反して老人は真面目な顔つきになる。
「わしに似た男―――そ、その男の歳は。名は、何と言うのじゃ?」
 老人は必死な形相で、アレクの腕を掴んだ。
「い…いや、ユーグっていうんだけどさ。歳は二十六歳になったばかりで―――」
「ユーグ…! ユーグと言ったか。おお、神よ……!」
 老人は頭を抱え、神に乞うように地べたに伏した。
「おい、何なんだ、じーさん」
「十七年間、わしはずっと孫の行方を探し続けてきた。孫の名はユーグ。歳も生きておればまさに二十六の頃じゃ。おんしの知り合いという男は、わしの孫やも知れん。どうか会わせてはくれまいか…!」
 頭が地面に付きそうなほどに頭を下げる老人に、アレクはうろたえた。
 たまたまぶつかっただけの見も知らぬ老爺が、己の側近を孫かもしれぬと言う。この唐突な展開に頭がついて行く事が出来ず、ただ困惑するしかなかった。
「いや、待てよじーさん、落ち着きなって。ユーグなんて珍しい名でもあるまいし、それくらいの条件だったらこのフィードニアの国だけでも掃いて捨てるほどいると思うぜ? それに偶然ぶつかった男の知り合いが、十七年も探していた孫だなんて、そんな出来過ぎた話ある筈がないじゃないか」
 冷静に考えればそんな事、有り得ない話だ。
 ――――だが己が良く知るあのユーグも、そういえば元々孤児なのだと言っていた。幼い頃両親を亡くし、色々な家を転々としていたと。そして後にハーディロン領兵軍に入り、アレクの側近という名の目付役を仰せつかる事になったのだ。
 そう思い、アレクは慌てて頭を振った。
(馬鹿じゃないのか、俺は。こんなのじーさんの戯言たわごとだ。―――そんな、都合のいい話があるわけねえよ)
 この戦乱の世だ、孤児だって珍しい話ではないのだ。

 だがもしそれが本当なら。このじーさんが本当にユーグの祖父なら。どれだけあいつは喜ぶだろうか。
 そんな思いが、ちらりと頭を過った。
「―――そうじゃ」
 老人は閃いたとばかりに、ぱっと顔を上げた。
「わしの孫の背中には痣があった。片側だけの、鳥の翼のような三角形の痣が」
 真実にこの老人の孫であるなら、ユーグにもその痣がある筈である。それを確認して欲しいと、老人の目が切に訴えた。
「痣」
 アレクは唾をごくりと飲み込んだ。
 もしそれがユーグの背中にあったなら、あいつはたった一人の肉親と出会う事が出来るのだ。
「……分かった、そうまで言うなら確認してやるよ。けど、期待はするなよ? あいつの背中に片翼の痣がある確率なんて、砂漠に落とした金の粒を探し当てるのに近いことだぜ」
 いつのまにかこの老爺同様に、ユーグの背に痣があることを期待し始めている自分自身に言い聞かせるように、アレクはそう呟いた。









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