46: 偽造





 ――――またラーネスを抜け出して来たのかい?ユリア。


「違うわ、お使いで来たのよ」
「……嘘はいけないな」
 お使いで来たと言う割には籠も財布らしき物も持っていない小さな少女は、クリユスに咎められぺろりと舌を出した。
「大丈夫よ、聖堂でお祈りをしている時は誰も入って来ないもの。いなくなっても誰も気がつかないわ」
「だとしてもいけないよ、ユリア。それは君の大切なお勤めなのだろう? それに一人で町をうろつくなんて危険だな」
「だって、だって……」
 ユリアはふて腐れたように俯いた。
「だってあそこはつまらないんだもの。怖い顔した大人ばっかりなのよ。 イルマは優しいけど、でも私がイルマとしゃべってるとシスター達は怒るの。『女中とは気安く口を聞いては駄目』だって。『フィルラーンの自覚を持て』って……。 でもそんなのおかしいわ。優しくしてくれる人に冷たくするのがフィルラーンだなんて、そんなのおかしいわ」
「ユリア………」
 少女はぼろぼろと涙を流し始めた。
「フィードニアに帰りたい、こんなところは嫌。お母様に会いたい。リョカに帰りたい、帰りたい。帰りたい……!」
 大粒の涙が後から後から零れ落ちてゆく。こんな小さな少女が親元から離され、甘えることも許されず暮らして行かねばならないのだ。無理もないことだった。
「……参ったな、子供と女性を泣かせるのはこの俺の主義に反するよ」
 クリユスはユリアの頭を優しく撫でる。

「分かったよ、ユリア。じゃあ十日に一度、クレプトの刻にラーネスの近くへ俺が迎えに行こう。半刻待って君が現れなければそのまま帰るし、君も半刻待って俺が来なければラーネスへ戻るんだ。その代わり今後一人で町へは行かないこと、いいね?」
 ユリアはまばたきを二、三度すると、大きな瞳でクリユスを見上げた。
「…………いいの?」
「俺も人の事をどうこう言える程職務に熱心なわけでは無いからね。 そうだな…これからは俺を兄代わりだと思うといい、ユリア」
 言いながら片目をつむってみせるクリユスを、少女は頬を紅潮させながら、じっと見詰めてくる。
「ほんとうに?」
「ああ、本当だよ。これからは両親に代わって俺が君を守ろう。 俺はいつでも君の味方だ」
 クリユスは少女を抱き上げる。
「ほんとうに、ほんとう? 約束だよ」
「うん。約束だ」
 少女は満面の笑みを浮かべた。それは咲き誇る花のような笑顔だった。



 ――――――約束だよ。





 約束…………。



「――――リユス、クリユス。そろそろ起きて、朝になったわよ」
「――――――――…………」

 柔らかな朝の光と共に、淡く茶色い、ふわふわとした長い巻き毛が視界に入ってきた。
 夢との境が分からず、一瞬今の状況を把握することが出来なかったが、すぐにああこちらが現実の世界なのだと思い至った。
 羽毛の枕にレースをふんだんに使用した寝具、ベットには薄く透き通る生地の天蓋が掛けられており、朝の日差しをより柔らかなものにしていた。
 部屋は広く、置かれた家具や調度はどれも高価なものだと一目で分かるが、だが華美過ぎず部屋全体が品良く纏められている所は、部屋の主の趣味の良さを窺わせる。
 ここは彼にとって既に目に馴染んだ部屋だった。

「目覚めたら余りに美しい女性が目の前に現れたので、天の国にでも来てしまったのかと思いましたよ」
「まあ、馬鹿ね。口が上手いんだから。いったい何人の女性に同じ事を言っているのかしら」
 部屋の主はしっとりとした柔らかな声で、ふふ、と笑った。
「これは心外だな。私には貴女以外の女性など目に入らぬというのに……。私の口が上手いとお感じになるのは、貴女のせいですよ。貴女のその美しさがこの私を饒舌にするのです、ヴェンダール夫人」
 抱きしめようと伸ばしたクリユスの手を、夫人はぺしりと叩いた。
「二人の時はカロリーヌと呼んでと言ったでしょう」
「そうでしたね、カロリーヌ様」
 言いながらクリユスはにこりと笑った。

 傾きかけた公爵家の娘として生まれた彼女は、貿易業で成功し莫大な富を得た男を婿に迎え、かつて栄華を極めた時代のヴァンダール家をその手に取り戻したのだった。
 だが仕事がら夫は家を不在にする事が多く、刺繍以外にこれといった趣味も持たない彼女は、金と暇を持て余す事となる。
 彼女にとって自分はそんな時に現れた、暇つぶしの出来る目新しい玩具といった所なのだ。
「さあ、早く服を着て。いらっしゃい、髪を梳いてあげるわ」
 カロリーヌは鏡台の前に立つと、クリユスを手招きする。
 言われるままに服を身に着け、彼は鏡台の前の椅子に腰かけた。
 白く細い手がなめらかに櫛を動かし、クリユスの髪を梳く。そして髪を纏めると、紐で結わえた。
「――――あなたに頼まれたこと、やってみたわ。あなたの言ったとおりの事になったわよ」
「―――――そうですか」
 涼やかに笑うクリユスの背を、カロリーヌは抱きしめる。
「怖いひと……あなたにとって人は、きっと盤上の駒に見えているのね」
「おや…ならば私は貴女をお守りする騎士の駒になりたいものですね」
「心にも無い事を平気で言うものではないわよ、クリユス」
 カロリーヌは溜息を一つ吐くと、クリユスから体を離した。

「あなたの心を狂わす程の女性が現れないものかしら。とりすましたその鉄仮面のような顔が崩れて、あなたがみっともなく駆けずり回る姿が見たいわ。そうなったら私に相談しに来るのよ、クリユス」
 楽しそうにそう話す婦人は、まるで少女のように悪戯っぽく笑った。
「これは、意地の悪い……。ですがそれは直ぐに叶う事でしょう、貴女に恋い焦がれるみっともないこの私を幾らでもご覧になればいい」
 クリユスは椅子から立ち上がると、カロリーヌを引き寄せ彼女の唇へ口付ける。
「甘い言葉は気持ちが良いけれど、それに酔うほど子供では無のよ。―――もっとも、それが分かっているからこの私を選んだのでしょうけれど」
 彼女はクリユスを抱きしめ返すと、彼の耳元で囁いた。
「その代わりに色々私を楽しませるのよ、あなたが愛に狂う姿を見るのもその一つ。いいわね、約束よ」

 ――――――――約束。
 クリユスの頭の中に、幼いユリアの声が響いた。
 ヴェンダール夫人のその要望に答えられる日は来ないだろうと、クリユスは思った。
 狂う程の愛などというものが自分に訪れる筈の無い事を、彼は知っているのだ。











 クリユスの目の前に、書類の束が二つ並べられている。
 一つはつい数日前に行われた国王軍入軍試験の志願者達の名簿と、彼ら一人一人が持参した推薦状の束である。
「こんな所に呼び出して、一体何の用なのだ……!」
 クリユスの向かい側の椅子にどかりと座り込んだブノワが、不機嫌そうに言った。
「そうだ、火急の用だなどと、詰まらぬ話だったら容赦はせぬぞ」
 ブノワの左隣の椅子にすわるドゥーガルが同じく不機嫌な声を上げる。
 軍務会議が行われると思いやってきたらしい二人は、軍務室にクリユスと騎馬隊第五中隊長フリーデルしかいないのを見てとると、とたんに不機嫌になったのだった。

「お二人を内密にお呼び立てしたのは他でも無い、実は今回の入軍試験に重大な問題が発生しまして」
 フリーデルはいつものごとく眉間に皺を寄せながら言う。きっちりと後ろに撫でつけた前髪といい、一分の隙も無く着用している軍服といい、気真面目を絵に描いたような男である。
「これは入軍試験の名簿と推薦状の束なのですが、実はこれに少々不備が見つかったのです」
 フリーデルはその束を手に取ると、中から一枚の紙を抜きだした。
「それは入軍試験を受けたある一人の男の身元を保証し推薦する証書です。推薦者の名はヴェンダール公……」
 その名にぴくりとドゥーガルが反応するのを、クリユスは見て取った。
「勿論貴殿には見覚えがある書類ですね、ドゥーガル殿。推薦者の署名はヴェンダール公以外に、貴殿の名も書かれているのですから」
「……それがどうした、そこにわしの名があって、何か不都合でもあるというのか!」
 書類に不備ありとただ言うだけで、中々本題に入らないフリーデルにドゥーガルは苛立った様子をみせた。
 だがフリーデルはちらりと彼に目線をやっただけで、構わず淡々と続ける。 
「この書類によると入軍志願者の男はヴェンダール家の家系に連なる男となっております。通常であればヴェンダール家程の家柄からの推薦、ましてや貴殿のように上級将校の連名もある書類です、入軍試験を受けさせるのに何の問題も無い所なのですが……先程言ったとおり書類に不備が見つかりまして、失礼ながら身元をこちらで調べさせて頂いた次第です」
「―――――それで」
 クリユスはもう一つの束を手に取ると、その表面をドゥーガルとブノワの方へ向け、フリーデルの説明を継いだ。

「これはヴェンダール家の家系図です。直系だけではなく、分家や女児の嫁ぎ先に至るまで調べ上げましたが、おかしなことにどれだけ調べてもこの推薦された男に辿り着く事が出来ないのです」
「何だと、馬鹿な……!」
 大仰に驚いてみせるドゥーガルに、クリユスは内心で舌打ちした。
(この、狸が――――)
 はっきりと分からぬまでも、この書類の男がヴェンダール家に連なる人間では無い事は、薄々気付いていた筈なのだ。
「馬鹿な、では済まされませんよドゥーガル殿。貴殿は確かにこの書類へ署名し、この男の身元を保証しているのですから。―――さあ、どういう事なのか説明して頂きたい」
「この……貴様、誰に向かって物を言っているのだ……!」
 ドゥーガルが顔を赤くし椅子から立ち上がるのを、隣に座り今のこの状況を把握できずにいる様子のブノワが諌めた。
「……まて、どういう事なのか、わしにも説明をしろ」
 ドゥーガルの顔色が、今度は急に青くなる。

「違うのです、ブノワ殿。私も分からぬのです。確かに私はそのヴェンダール公が推薦する何某の推薦状へ、よく確認もせず署名をしてしまいました。ですがそれもヴェンダール公程の人物が推薦される男なら間違いは無かろうと……それに公直々に頼まれては嫌とも申せません」
「ふむ…国王軍中隊長の連名があれば、入軍試験も幾らか有利になるだろう。確かに公がそう望んでも不思議はない。しかし、その男の身元が知れぬとは……」 
ドゥーガルは公を信用しあっさりと騙された己が愚かだったのだと項垂れた。ヴェンダール公を悪者にし、自分は被害者を決め込むつもりのようである。だがそうはいかぬのだ。
 クリユスはにやりと笑った。

「―――――貴殿がその書類に自ら署名をしたと、今確かに仰いましたな」
「それがどうした」
 ドゥーガルは目を吊り上げクリユスを見た。
 ヴェンダール公とドゥーガルの署名がなされた書類を、フリーデルは手に取る。
「先程から何度も申しました通り、この書類には不備があるのです。――――つまりこのヴェンダール公の署名は、本物のヴェンダール公の署名ではありえぬのです」
「な―――――んだと?」
 流石にこれは予想外の言葉だったのだろう、言いながらドゥーガルは目を見開いた。

 あまり知られていないが、ヴェンダール公が正式な書類に署名をする時は、その名の右下に尖針で三点の針痕を付けるのだ。 そしてこの推薦状にはその針痕が無かった。
 ドゥーガルが国王軍入軍試験の推薦状に、金を貰って何度も署名をしている事を、ロランが調べ上げてきた。
 中には出所の分からぬ者もいただろう。だがこの男は相手の口八丁に騙された振りをし、金の為にそれらの事実に目を瞑ったのだ。
 自ら刺客を手の内に招き入れているやもしれぬのに、よくあれだけハロルドを非難出来たものである。いや、だからこそ逆に他人を攻撃し、周りの目に己の愛国心を焼き付けようとしたのかもしれないが。
 ブノワが余所者を毛嫌いするのは、純粋に自国への愛国心なのであろうが、ドゥーガルの場合はそんな意味合いと、そしてただ他国の人間がこれ以上重用ちょうようされ、己の立場を危うくするのではと危惧しているだけなのだろう。
 クリユスはドゥーガルの行っている事を、諜報部隊である第一騎馬中隊の長フリーデルにちらりと話した。そしてそれだけで彼はこの署名の偽造に辿り着いたのだから、流石といわざるを得ない。

 ドゥーガルはフリーデルの手から書類をひったくると、鼻を擦り付けるようにして署名を確認した。
「偽物とは、そんな筈はない。確かにヴェンダール公の使いの者が来て頼まれたのだ、ヴェンダール公に確認して貰えば分かる事だ……!」
 ドゥーガルの額から頬にかけて、汗が伝わって落ちる。ここに来てようやく今自分が置かれている事態を把握したのだろう。
 クリユスは小さく顔を横に振った。
「ヴェンダール公はここひと月程、西の地へ出掛けており不在なのですよ。奥方にも確認をとりました。この書類は勿論、ここに推薦される男さえ知らぬと仰せでした」
「馬鹿な……! そんな馬鹿な事があるか……! わしは知らん、わしはただ頼まれて署名をしただけだ、ヴェンダール公に謀られたのだ……!」
 取り乱すドゥーガルをクリユスは冷たく見下ろす。
「公に騙されたと仰りたいのですか? しかしそれは通りませんよドゥーガル殿。どうしてヴェンダール公が自ら不備のある書類を作成する必要がありましょう、貴殿を謀りにかけて得する事など公には何一つ無いのですから…。 公の署名が偽造である以上、何者かと貴殿が共謀しこの書類を作成したと考えるのが妥当ではないでしょうか?」
「違う、違う…! わしはそんな事はしていない……! そ、そうだ、きっとヴェンダール公がわしの金を奪い取ろうと―――」
 言い放ってから、しまったという顔をドゥーガルはした。
「ほう……金ですか。それはこの書類に金が動いているという事ですかな」
「いや、今のは……」
「なんと…それは本当なのかドゥーガル!」言い訳を口にするより早く、ブノワが腰を上げドゥーガルの肩を掴んだ。狼狽し青ざめた顔に汗を幾筋も流す男は、もはや国王軍中隊長の威厳などどこにも無かった。
 ヴェンダール公の方にこそ不正があったのだと、そう主張しようと焦るあまり自ら墓穴を掘ったか。愚かな男である。

「ち、違うのです、今のは言葉のあやというやつで……」
 尚も弁解しようと縋りついてくるドゥーガルの手を、ブノワは振り払った。
「いい加減にせぬか、どこの出自とも知れぬ男を金と引き換えに国王軍へ入れるなど、敵国へ我が軍を売り渡すようなもの、重大な国への裏切り行為だぞ!」
 ブノワの吼えるような一喝に、ドゥーガルの身体が一瞬硬直する。そしてその後、力が抜けたようにその場へ崩れ落ちた。
「この、馬鹿が……」
 長年の片腕をこの瞬間に失ったブノワは、そう力無く呟いた。


「この一件はまだここにいる者しか知りません、ドゥーガル殿の処分はブノワ殿にお任せします」
「ライナス殿にもお知らせしておらぬのか」
 ブノワは驚いたように目を見開いた。
「まずは直属の上司であるブノワ殿にお知らせして、判断を委ねるのが良いだろうとクリユス殿が言われたので、そのように」
 フリーデルが言うと、ブノワは意外そうな顔でクリユスを見た。
「それは、ありがたいが……。己の部下の不始末に気付かず、処断されてからそれを知る愚か者となる所であった。いや、ドゥーガルは長年のわしの片腕、ともすればわしも疑われる事になりかねん所だ。 だが貴殿にとってわしは目の上の瘤かと思っていたが」
「そのように思った事はありませんよブノワ殿。ティヴァナを出奔して来たこの私を直ぐに信用出来ないのは、自国を想うが故だという事は分かっております。寧ろそれだけ信用に足るお方だと、私は思っております」
 クリユスはにこりと笑う。
「そうか………」
 つくづくわしの見る目が足りなかったのだなと、今だ「わしは騙されたのだ」と泣きむせぶドゥーガルを見下ろしながら、ブノワは言った。









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