47: 疑心





 王城のテラスから眼下を望むと、城壁の向こう側に幾つもの国王軍の旗が風に吹かれたなびいていた。
 更に城下街をぐるりと囲う壁の外には、色とりどりの領兵軍の旗が揺れている。
 フィードニアの北部に隣接するボルテン国とグイザード国の連合軍が、現在フィードニアへ向け進行している。それをボルテンとの国境付近にて迎えうち、これを撃退した後そのままボルテン国へ攻め入るというのが、今回ユリアが聞かされた出撃のあらましだった。
 今回の出兵には国王軍、領兵軍を合わせたフィードニア総兵力のおよそ半数が動員されており、残りの兵の四分の三は先の戦いと同じく、恐らく同時に別の場所を攻めてくるであろう連合国に対応すべく、カベル、スリアナの国境付近で待機するようになっている。そして残りは王都を含め主要都市の警備についているのである。

 国王軍の兵士たちはこれから王のお言葉を頂いた後、町民達に見守られながら城下町の中央通りを歩き、そして西門から出て外で待機する領兵軍と合流し、出撃する事になる。
 その先頭を歩く筈のジェドの姿が、今回は無かった。
「ユリア様には馬車に乗って頂き、この兵列を共に進行する事となります。国王軍の隊列の中央辺りに位置し、進行中はすぐ傍に私もおりますのでご安心下さい」
 ユリアを迎えに来たクリユスが、同じく国王軍の旗を見下ろしながら言った。
「ジェドは今回出兵しないそうだな。第一歩兵中隊長ドゥーガルも最近罷免されたと聞いたが…大丈夫なのか」
 ドゥーガルは賄賂を貰い不正に国王軍入軍兵を操作したという罪で、第一歩兵中隊長の任を解かれ国境警備任務を言い渡されたと聞いた。
 少しでも人材が欲しい時である、そんな折に中隊長を一人失う事はフィードニアにとって痛手であるだろう。
「確かにドゥーガル殿の一件は残念な事でした、まさかそのような不正をなされる方だとは思っておりませんでしたが。…ですが国を裏切った事は事実です。ブノワ殿もお辛い処断であった事でしょうが、仕方の無い事です」
 残念そうに、クリユスは首を横に振った。
「いや、しかし国王軍の入軍試験がこれだけ大々的に行われているのです、敵国にとっては刺客を送り込むのに格好の機会でしょう。金に目が眩み出自の分からぬ者を招き入れるなどという行為に対しては、例え中隊長職に就く者であろうと厳しく処断されるのだという前例が、これで出来たのです。ドゥーガル殿も結果的に他の兵士達には良い訓示になられた」
 最後にいい働きをなされたと、クリユスは事も無げに言う。端的にいえば良い見せしめになったと言っているのだ。たまにこの男は冷たい事を言うと、ユリアは思った。

「それよりジェド殿が出兵なされないというのは、正直辛い所です。現在の兵力を測る為、いずれはこういう機会も作ってみようとは思っていましたが…まだその時期ではありません」
「あの男は私が戦場へ同行するのが気に入らないのだろう? ならば今回は私が引くべきなのだろうか」
「それはなりません」
 クリユスはほんの少し、口調を強めた。
「今回フィルラーンである貴女が戦場へ同行する事で、兵士達の心の中に守り神が我らに付いているのだと、そう思い始めているのです。人心を掌握するには、ここで取り止める訳にはまいりません」
「守り神とは……馬鹿な、何を言っている」
 初めて聞いたその言葉に、ユリアは少なからず衝撃を受けた。
 フィルラーンは神に仕える者であって、神に成り得るはずもない。この私を神と呼ぶなど余りに不遜な話である。一体クリユスは私に何をさせようというだ。
「例え話です、ユリア様。人は神に直接お目に掛かれる訳では無い、だから代わりに身近なものに神の影を被らせ、それにすがるのです。それを否定する権利など、貴女にさえ無い」
「いや、しかし……」
 それは確かにその通りなのかもしれないが、その役割を他でもないユリア自身が担うという事となると、それは全く別の話なのである。
 信仰心など人の心の内から自ずと発生するものだ。それをクリユスはユリアという偽りの影を作り、その影を兵士達に崇めさせようとしている。ユリアにはそう思えてならなかった。
 ――――クリユスは、なんという恐ろしい事を考えているのだ。
 そもそも「人心を掌握」とは、一体何事を言っているのだ。もしかするとクリユスは、ユリアという媒体を通し、兵士達の心をその自らの手の内に掌握しようとしているのでは無いのか―――。

『貴女がフィルラーンという立場を誰かに利用されているのでは無いかと、私は危惧しているのです』

 ふいにナシスの言葉が脳裏に浮かんだ。先読みの力による忠告では無いと、彼は言っていたが。
「お前は、私が祈る事で兵士達の心に安らぎを与えられるのだと、その為に私の力が必要だと言っていた。それは嘘なのか」
「これは…何を言われるのです、私は嘘など申してはおりません、貴女にはただ兵士達の為に祈っていて頂きたいだけ。その行為に対し兵士達が貴女に神の姿を被らせるのは、ただ必然の流れであるだけです」
 飄々とクリユスは言う。必然の流れというが、その流れの方角に向けさせているのは、紛れも無くクリユス本人なのだろうに。
「そうと分かっている役割を、ぬけぬけと私が担うと思うか。そんな不遜な事が出来るか…!」 
「出来る、出来ないの問題ではありません。貴女がどう言われようと、戦場へは出て頂きます。今更それを覆す事は出来ませんよ、ユリア様」
 クリユスの表情から笑みが消えた。
「――――それとも貴女は、既に貴女を慕い心の拠り所にしようとしている兵士達を、お見捨てになりますか」
「そんな……」
 嫌な言い方だ。そしてユリアの心をよく捉えている言い方だ。
 彼には勝てないと今まで何度苦笑したか分からないが、今回ばかりは仕方がないと笑えるものでは無かった。
 今初めてクリユスに対する不信感のようなものが芽生え始めるのを、少女は心の中で感じ取った。

「こんな事、神が許す筈がない。いつか罰が下るぞ」
「罰……? そんなもの、怖くはありませんよ」
 クリユスはあっさりと言いきる。そしてユリアの方へ一歩近づき、囁くように言った。
「私は最初に貴女に言った筈です。万が一貴女の気が変ったとしても、私はもう止まりませんと」
「クリユス」
 ユリアは目を見開いた。
 彼はユリアの心の動きを読み取ったように、目を細め冷笑を浮かべる。
「―――――私が、怖ろしいですか?」
「私は……」
 そんな事は無いと、ユリアは言えなかった。
 幼い頃から兄のように想ってきた男が、今は見知らぬ男のように思えて、思わず一歩後ずさる。
 その刹那菫色の瞳に影が落ちたように、ユリアには感じられた。




「ユリア様、仕度が出来ましたわ」
 明るい声に救われるような思いで振り返ると、そこにはダーナと、大きな荷物を二つ抱えたラオが立っていた。
「まあ…どうなされたのです、お二人とも恐い顔をして。喧嘩でもなされたのですか?」
 この場の不穏な空気を読み取ったらしいダーナは、首を傾げながら言った。
「いや……」
 何を言えばいいのか分からず言葉を濁すユリアの隣で、クリユスはにこりと笑う。
「喧嘩などしておりませんよ、ダーナ様。今後の事について、少し意見を交わしていただけです」
 涼やかに笑うその顔は、まるでつい先程の事など幻だったのかと思えるほどに、いつものクリユスだった。
 幻だったらいい。自分の思い込みが過ぎたのだと、無かった事にしてしまいたいと、ユリアは思った。
 余りにも自分は彼を信じ切り、頼り過ぎていた。もしクリユスに裏切られたなら、彼女を支えていたもの全てが崩れ、その場に立つ事さえ出来なくなる。そんな眩暈にも似た思いがユリアを襲った。
「…そうだ、喧嘩などしていない」
 ユリアが言うと、ダーナは不思議そうに二人を見まわした後、納得したように「そうですか」と頷いた。

「しかしお前たちが戦場へ行って、この俺が留守番とはな……」
 ジェドが出兵しないのだから、彼の直属部隊となったラオは当然今回の戦いには参加しないのだろう。居残ることになったラオは、少々不満げな顔をしている。
「本当に、ダーナも行くつもりなのか?」
 ユリアは何度も聞いた質問を、再び口にした。
 護衛が付くとはいえ、どんな危険が及ぶかも分からぬ戦場へダーナを連れて行きたくは無かった。ユリアの心自身が揺れている今となっては、尚更である。だが彼女は頑として己も付いて行くのだと言いはるのだった。
「一日二日で帰れる旅程でも無いのですから、私が付いて行かずに誰がユリア様の身の回りのお世話をするのです? 気の利かない男達に囲まれ、不味い食事を口にし、湯浴みも出来ず埃にまみれて行くユリア様の姿など、想像したくもありません…!」
 戦場へ行くには少々的が外れた言葉を、だがダーナはそれ以上の問題など無いとでもいうように、きっぱりと言い放つ。
「しょうがないな、言いだしたら聞かない奴だ。諦めろ」
 ラオが溜息交じりに言った。

「だが戦場では何が起こるか分からんからな。せめて俺が一緒に行ければ良かったんだが…城に残ったままでは守ってやる事も出来ん。十分、気をつけろよ」
「大丈夫ですわ、ライナス様やクリユス様がご一緒なのですから」
 明るく答えるダーナに、ラオは何とも言い難い複雑な顔をした。
「それはまあ、そうなんだが……おいクリユス。二人を頼むぞ」
「勿論、言われるまでも無いことだ。しかしたまには待つ側に回るのも悪くは無い、ダーナ嬢の気持ちもこれで解るというものだろう」
 そう言い笑うクリユスに、ラオは仏頂面で「うるさい、お前はとっとと行ってしまえ…!」と追い払うしぐさをした。
「それでは、参りましょうかユリア様」
 クリユスは右手を胸に当て、優雅にお辞儀をすると、次にその手をゆっくりとユリアに差し出した。
 ユリアは一瞬躊躇し、だがその手に己の手を重ねる。
 この手が優しい兄のものなのか、それとも神を神とも思わぬ傲慢で野心家な男の手のものなのか、自分でもどちらの手に引かれて歩いているのか、いやどちらの手だと覚悟して重ねたのか、それすらユリアには分からなかった。

 ユリアが兵士達の前に姿を現すと、歓声が沸き起こった。
 その歓声はユリアがジェドに跪いてみせる時のそれと、幾分似ているようでもあり、また大きく違うようでもあった。
 ただ、単なるフィルラーンとしての彼女に与えられたものでは無いのだろう、熱を帯びた何かの存在を、ユリアは胸の痛みと共にそこに意識せずにはいられなかった。









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