38: 黒い猫2





 ライナスは窓枠に座り、眼下で風にひらひらと揺れる赤い布を眺めていた。
 “紅い華”という意味を持つ「デュ・リュラ」という名の店は、その綺麗な名とは裏腹に、華やかさなど何処にもない、古く辛気臭い外観をした店だった。
 いや、外観だけでは無い。階段は軋み、手摺の根元は僅かに腐食している。うっかりそこへ凭れた誰かが、いつか怪我をするだろう事が、容易に想像出来る代物だった。
 だが南街の外れも外れ、しかも細い路地奥にひっそりと在るその店が、数多あまたの同種の店を差し置き流行る筈も無いのだから、当然といえば当然の腐敗具合であるとも言えるのだが。

 そんな事を考えながら通された部屋は、三階の最奥の部屋だった。
 建物の様子から、彼はかび臭い部屋を想像したが、入ってみればそこはそれなりに綺麗な部屋であった。ベットと小さな丸い机、そしてその上に一輪の花を挿した小さな花瓶が置かれただけの、簡素な部屋である。
 窓は開け放たれていた。 窓枠の外隅に赤く細長い布が打ちつけられてある。建物全ての窓に垂らされた、その赤い布が風になびく様は、ある種の壮観さがあった。

「本当に来てくれたんだね」
 部屋の戸に黒髪の女が立っていた。猫のような眼をした、綺麗な女だ。
「―――まあ、約束したからな」
 本当に来てくれたんだねと、言葉では殊勝な事を言ってはいるが、その眼は「きっと来ると思っていた」と語っている。
 やはり目の力が強い女である。

 東街で会った時は茶系の質素な色の服を着ていたが、今日は赤い色のドレスを着ていた。
 形ばかりショールを羽織ってはいるが、それは露わになっている肩や胸の谷間を隠してはいなかった。
「来てくれて嬉しいよ、ライナス様。 ―――あんたの指名があたしに入った時の、他の女達の悔しそうな顔ったら無かったね。流石、国王軍の副総指揮官様だ」
 くすくすと、女は笑った。笑い声は鈴のようだとライナスは思う。
「そりゃ、光栄だな」
 言いながら、ライナスは肩を竦める。肩書きだけ持てても仕様の無い事だった。もしジェドがここに現れたら、その女達はジェドの方をこそ持て囃すに違いなかった。
「信じて無いのかい? ―――来てくれて嬉しいって言ったのは、本当だよ。 会いたかったんだ、あんたに」
「―――エルダ」
 ライナスを覗き込むその黒い瞳に、彼は惹きつけられた。

「会いたかったよ。……こんな台詞、あんたは娼婦の戯言だと思うかな」
 エルダはライナスの手を取ると、彼をベットへ誘導し、座らせた。そして自身はその横に座ると、彼の胸へとしな垂れかかる。
「けど本当だよ、本当に、あんたが来てくれるのをずっと待ってたんだ」
 ―――あたし、あんたに惚れたのかな。
 エルダの赤い唇が、甘い言葉を綴る。
 エルダはするりと羽織っていたショールを外した。

 彼女の細く白い指がライナスの頬に触れ、唇をなぞる。ライナスはエルダの頭を引き寄せると、彼女の唇をむようにして口付けた。
「ライナス様……」
 秘め事を語るように、彼女は耳元で囁く。
 エルダはライナスの服を脱がすと、首筋から鎖骨、逞しく鍛え上げられた彼の胸筋へと、順に唇を落とした。
 そして彼女の手が、ライナスが腰に佩いている剣を外そうと、それに触れる。その白い手に、ライナスは己の手をそっと被せた。

「―――――止めておけ、お前に俺は殺せない」
 瞬間、エルダの目が見開いた。

「な―――何を言って……」
 狼狽するエルダにライナスはにやりと笑う。
「娼婦に完全に成り済ましているようでいて、僅かに殺気を消し切れていないんだよ。暗殺者としてはお前は二流だな、この俺に差し向ける刺客としては力不足だ。―――俺も舐められたもんだぜ」
「な―――この……っ」
 エルダはライナスの剣を引き抜くと、ひらりと彼から離れた。

 ギラリと目を光らせライナスを睨みつける姿が、毛を逆立て威嚇する黒猫を連想させる。
「よく見破ったもんだ、褒めてやるよ。…だがそれが分かったからと言って、その丸腰でどうしようと言うんだ…! 女だからと私を甘く見た事を、死んで後悔するがいい……!」
 叫ぶと、エルダは真横に剣を振った。その剣先の動きは鋭く、速い。
 首まで僅かの差でその剣先を避けると、直ぐに次の攻撃が来た。切り返しも早い、それは動作に無駄な動きが無いからである。

 ライナスは再びエルダの繰り出す剣を避けると、彼女の間合いに入り込み、剣を持つ腕を掴んだ。
「くっ……離せ……!」
 エルダは掴まれた逆の手で、己の太腿に忍ばせた短剣を抜きとると、ライナスの首めがけて振り上げる。
 だがその手も、彼はいとも簡単に掴んでみせる。
 片手で彼女の両手首を掴むと、その手に持たれた剣を奪い取り、放った。
「この……!」
 両手を振りほどこうとエルダはもがいたが、逃れる事は出来ないと悟ると、力が抜けたように大人しくなった。
 敵に捕まった時の覚悟は出来ているのだろう。

「成程、その辺の男より腕はある。国王軍に入れば小隊長位にはなれるだろう。―――相手が悪かったな」
 エルダはジロリと睨みつけた。
「―――いつから気付いていた。最初から、気付いていたのか」
 大人しくはなったものの、その眼は今だ敵意の光を消していない。隙を見せたら直ぐに飛びかかれるよう、臨戦態勢は取ったままだ。
「まあ、そうだな」
 エルダはくく、と笑った。
「―――では誘い出したつもりが誘い出された訳か。そしてまんまと私はお前に捕まったという訳だ。―――さあ、何処へなりとも連れて行き、拷問でも何でもするがいい。だが簡単に口を割ると思うなよ」
 この状況で尚も強気な瞳が、美しかった。

「お前を捕らえる為にここへ来た訳では無い。 俺はお前に惚れた。だからもう一度お前に会いに来た。それだけだ」
 飄々と言うライナスに対し、エルダは眉を吊り上げた。
「惚れただと? 小賢しい事をぬかすな。 私の持つ情報が目的で無いのならば、結局は私の体が欲しいだけだろうが、ならばつべこべぬかさず奪えばいい。男など紳士面した所で結局は皆同じ、醜悪な獣に過ぎん」
「そう言われてしまうと身も蓋もないな」とライナスは苦笑した。
「―――だが奪えと言うのなら遠慮はしないが」
 ライナスはエルダの顎を摘むと、強引に口付ける。
 がり、と鈍い音がし、ライナスの唇から血が滲んだ。
「次は舌を入れるがいい、噛み切ってやる」
 唾を吐き、エルダは笑った。つくづく面白い女である。

 掴んでいた腕を解放すると、エルダは瞬時に剣を取り、間合いをあけた。
「―――私を、解放しようというのか」
 ライナスを睨みつけるその顔には、矜持を傷つけられた怒りが混じっている。
 己を殺そうとする人間をむざむざ解放するなど、全くその相手を脅威に感じていない―――相手にしていない証しなのだと、そう思ったに違いなかった。
 そして確かにそれは、間違いではないのだ。

「――――俺の女になれ、エルダ」
 彼女の眼に炎が宿ったのが、見えた。
「何を言っている、この私を馬鹿にしているのか……!」
「俺の女になれば寝込みを襲うなり何なり、この俺を殺しやすくなるぞ」
 物騒な話を、ライナスは楽しそうに話す。

 エルダは眉間に皺を寄せ、嫌悪感を露わにした。
「戯言を……もういい、お前と会話を楽しむつもりなど毛頭無い。私を捕らえぬのなら、とっととここから立ち去れ。次会った時には必ず貴様を殺してやる」
 言いながら、入口の扉を開け放つ。
「楽しみにしているさ」
 服を着、エルダが引き抜いた剣を再び腰の鞘へ戻すと、部屋を出た。
 背後で陶器が砕ける音がした。怒りに任せ花瓶を叩き割ったのだろう、気性の激しい女である。
 
 恐らく彼女はトルバかコルヴァスが解き放った刺客なのだろう。
 だがエルダは暗殺を生業にしている女では無いだろうと思えた。それにしては、直情的過ぎるのだ。
 男を惑わす魅力は十分に持ってはいるが、将校以上の軍人に対して確実に暗殺を遂げようと思ったら、自分だったら彼女を選びはしないだろう。
 何を狙っているのか分からない分、逆に不気味さを感じた。
 ジェドに報告するべきだろうかと思い、だがあの男はそれを聞いた所で鼻で笑うだけだろうと、ライナスは苦笑した。
 彼は他人の忠告など聞き入れる男では無い。それにライナス自身、ジェドが敵の罠に嵌る姿など、あまり想像する事が出来なかった。 ―――ケヴェル神をおとしいれる事など、一体誰が出来るというのだ。

 暫く様子を見ようと、ライナスは思った。
 顎を擦りながら、彼は自嘲する。
 再びエルダは自分の命を狙ってやってくるだろう。あの黒く猫のような瞳が脳裏によぎった。
 理由を付けて、この件を自分一人の内に留めようとするのは、再び襲い来るであろう彼女にただ会いたいが為なのだと、ライナスは自覚していた。









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