37: 黒い猫





 入軍試験の結果、フィードニア国軍へ新たに入軍する事になった兵士は、初回が約二百、次が二百五十だった。
 まだ先の戦いで失った兵士の数にも足りないのだ。ましてや小隊長以上、将校職を任せる事が出来る男といえば、アレク・ハーディロンとその側近であるユーグのみである。
 圧倒的に人材が足りないのだ。連合国やティヴァナと対等に渡り合える兵力を持つなどと、一体何度入軍試験を行い、どれだけの兵士を鍛え上げれば良いのか。
「全く面倒な事になったものだ」
 ライナスは酒を煽りながら独りごちた。

 彼はその日も、城下町東地区の東門近くにある馴染みの飯屋で、いつものように一人で酒を飲んでいた。
 この店がライナスの馴染みの店と知った今、ジェドがここへ現れる事は無い。 つれないものだ、と彼は思う。
 ジェドと酒を酌み交わしたいとライナスも特別思っている訳では無く、寧ろ一人で飲む方を彼は好んではいたが、それでもたまには語る相手が欲しいという事もある。
 わざわざ兵士達が立ち寄らない場所を選んでいるというのに、我ながら勝手なものだとライナスは苦笑した。

 彼はいつものごとく、ひとしきり酒を飲んだ後、店を後にした。
 夜の幾分かひんやりとした空気が、酔った体に心地良い。酔い覚ましに少し街をぶらついてから帰るかと思ったその時、二つ先の細い路地から、高い叫び声と共に若い女が飛び出して来た。
「助けて……!」
 女はライナスの姿を認めると彼の方へ駆け寄って来ようとしたが、しかし走るより先に、彼女を追う何者かにより腕を掴まれ、それは叶わなかった。
「嫌だ、離して……!」
 女は助けを求める視線をライナスへ寄越す。
 彼女を捕らえる男は三人。僅かに乱れた衣服。状況は火を見るより明らかだった。

「おいおい、止めておけ。恥ずかしい真似をするんじゃねえよ」
 ライナスはやる気の無い声で男達に話しかける。
「なんだお前は。関係ねえだろ、ひっこんでろ…!」
 男の一人がライナスに対し、五月蠅そうに手で追い払う仕草をした。
 ライナスは面白そうに顎をさする。
「ほお…この俺を知らんとは、余所者か。だが観光先で羽目を外すにしても、少しばかり悪戯が過ぎるな」
 じろりと睨みつける視線に、3人の男は僅かに怯んだ。
「……この女は俺たちの知り合いなんだよ、ちょっと内輪事で揉めてるだけだ。放っといてくれないか」
「嘘だ…! こんな奴ら知らないよ……!」
 己の口を塞いでいた男の指に噛みつき、女は叫んだ。
「この、黙れ……!」
 女を殴ろうと、指を噛まれた男が手を上げる。その腕をライナスは溜息と共に掴んだ。
「ああ、もう良いよ。面倒だ」
 ライナスは問答無用で掴んだ男を殴り倒した。更に歯向ってくる二人の男も、一撃で地面に沈める。
 小悪党に説教した所で、結局最後はこうなるのだ。ならば説教するだけ面倒であった。
 だが余りに呆気無く、酔い覚ましにもならなかったなと、ライナスは一人呟いた。

「あの……ありがとう、助かったよ」 
 女は少しばつの悪い表情をし、ライナスを見上げた。
 綺麗な女である。
 目尻が吊り上がった大きな黒い瞳は、猫を連想させた。見る者を絡めとりそうな、強い光を放つ瞳だ。
 そして背中まで真っ直ぐ伸びた長い髪は、まるで闇夜のように黒い。
 ショールを羽織ってはいたが、胸元の開いた衣服から覗く細い首は、逆に闇夜にも白かった。
 ユリア様の持つものが、一片の穢れも無い清純で無垢な美しさだとしたら、この女は泥にまみれてなお輝く宝石のようだとライナスは思う。

「こんな夜更けに女が一人歩きするものでは無いな」
 この美貌で、ましてや東地区は人通りの少ない寂れた場所である。襲ってくれとでも言わんばかりの行為だ。
「分かってるさ、それでも用事があったんだ、しょうがないじゃないか」
 女は半ばふて腐れたように言う。
「あんた、ライナス様だろう? 軍の偉い人が、危険な女の一人歩きをまさか放って置く訳はないよね?」
「………そうだな、しょうがない家まで送って行こう」
「そうこなくっちゃ」
 女は言いながらライナスの背中をぽんと叩く。小狡く笑う顔がまた魅力的で、ライナスは苦笑した。


 彼女を送って行った先は、城下町の南地区だった。
 南地区は賭博場や娼館の立ち並ぶ歓楽街である。中央区寄りには、比較的華やかな建物が並んでおり、それは国が許可した歓楽施設であるが、値が張る為そこで遊ぶのは貴族位のものだった。
 南地区には他に、認可を受けていない賭博場や娼館が多くあり、町人や兵士達が遊ぶのは主にこちらの方である。無認可施設の運営は、現状国も黙視しているのだ。

 女は南地区の更に外れにある、小さな建物を指差し「ここだよ」と言った。全ての窓には赤く細長い布が取り付けられ、ひらひらと風に揺れている。
 その昔身分違いの恋に落ちた貴族の娘が、相手の男と密み会う際に、窓に赤い布を垂らし逢瀬の合図を送ったという逸話がある。
 その逸話から、窓から下げる赤い布は男を誘う合図と解され、現在は娼館を意味するものとなった。

「………わざわざ助けるんじゃ無かったと思うかい?」
 女は意地の悪そうな表情でライナスに問うた。
「別に、商売ものをわざわざ只でくれてやる事も無いだろうさ」
 頭を掻くライナスに、女は面白そうな顔をする。
「あんた、変わった奴だね。気に入ったよ。―――あたしの名前はエルダ。良かったら今度遊びに来なよ、サービスするからさ」
 言いながら、エルダは片目を瞑って見せる。
「ああ……そうだな」
「本当だね? ライナス様が客ならあたしも鼻が高いってもんだ。絶対だよ」
 猫が目を細めるように、エルダはその目を細めて笑った。
 絶対だよ、と念を押すその言葉は、どこか有無を言わせぬ響きがあった。
 エルダはライナスの頬へ軽く口づけると、するりと古びた建物の中へ消えた。その動きがやはり猫を思わせる。
「―――黒猫だな」
 ライナスは自身の顎を擦る。ジェドといい、自分は獣を思わせる人間に弱いらしい。
 そう独りごちると、彼は帰路についた。






 ラオ率いる第三騎馬中隊は、訓練場から少し離れた平地で調練を行っていた。
 先の戦いで一番多くの兵を失った第三騎馬中隊には、失った六百余りの兵には及ばないまでも、別隊からの兵士の移動や新兵を優先的に回して貰うなどして、それなりの数が補充出来ていた。
 だが統率もまだ上手く取れているとは言えず、個々の能力も以前よりやや劣っている。
 しかも元の力を取り戻すだけでは足りないのだ。ジェドの直属部隊になると決めた以上、第三騎馬中隊は以前よりも更に強靭な部隊でなければならなかった。

 ラオが兵士に檄を飛ばしていると、少し離れたところに赤毛の立派な体躯をした馬が走っているのが見えた。
「ジェド殿……!」
 慌ててラオは馬に飛び乗ると、隊を小隊長のアルマンに任せ、手綱を繰る。
 平野を駆け抜けようとするジェドに向け、再びその名を叫ぶと、彼はようやくラオの存在に気付き馬の歩みを止めた。
「何の用だ」
 駆け寄るラオに、ジェドは首だけこちらへ向けて言う。

「ジェド殿、たまには我らの訓練にご指南頂けませんか」
「馬鹿を言うな、貴様達の遊戯になど付き合っていられるか」
 取りつくしまも無く立ち去ろうとするジェドの馬に並走し、尚もラオは食い下がる。
「ではこの俺と一太刀だけでも相手して貰えませんか」
「御免だな。手加減しながら戦うなど、面倒だ」
 ジェドは馬腹を蹴る。馬は過疎し、みるみるうちにラオの馬から遠ざかって行った。馬でさえあの男には勝てないのだと、ラオは苦笑した。
 何度剣の相手を頼んでも、ジェドはそれに是と言ってくれることは無い。自分がジェドに到底敵う筈もない事は重々承知だが、だがあの男と剣を合わせてみたいという欲求は、日に日に高まって行くのだ。
 その強さを、ただ眺めているだけではなく、この己の身体全体で感じてみたかった。

 訓練を終え兵舎へ戻ると、同じく訓練から帰って来たクリユスに出くわした。
 彼はラオの顔をじろじろと眺めると、「何を鬱々とした顔をしている、珍しい事もあるものだな。この地方に珍しい雪でも降らせようというつもりか?」と言った。
「余計な世話だ」
 珍獣でも見るようなクリユスの態度に、ラオは憮然として答える。

「まあまあ、怒るな。女性相手の悩みを打ち明けるのなら、この俺以上に適役な男はいるまいよ。―――で、相手は誰だ? ダーナ嬢か」
「馬鹿野郎、お前の頭と一緒にするな。しかも何故そこでダーナの名が出てくるんだ」
 睨みつけるラオに、クリユスは驚いた顔をしてみせる。
「おや……お前、気付いていないのか」
「何をだ」
「いいや……まあ、お前らしいといえば、お前らしいのだが」
 言いながら、クリユスは軽く肩を竦めた。

「しかし解らんな。恋の悩みでは無いとしたら、この世に一体何を思い悩む事が他にあるというのだ」
 冗談なのか本気なのか、どちらともつかぬ顔でクリユスは首をかしげる。
「俺はジェド殿と剣を交えてみたい、ただ一度でいいのだ。だがあの男はこの俺など相手にしてくれん。あの男に剣を取らせるには、どうしたらいい?」
「なんだ、そんな事か」
 急に興味が失せたといった様子のクリユスに、ラオは口を歪ませた。
「そんな事とは何だ、人が真剣に悩んでいるものを」
「そんな事、簡単だと言っているのだ。―――だがまあ、お前の命は保障しないがね」
「それは本当か…! 命など、元よりあの男の直属部隊になると決めた時から、既に捨てている」
 がっちりとクリユスの肩を掴むラオの手を、彼は迷惑そうに振り払い、そして溜息を付いた。
「全く、女性の為というわけでも無く命を懸けようと思うなど、気が知れぬよ」
 そう言った後、クリユスはふと何かを思いついたように、楽しそうな顔をした。

「いや――だがしょうが無いな。他でもない友の為だ、力を貸してやろうではないか」
 この男がこういう顔をする時は、碌なことにならない事をラオは長年の付き合いから分かっていたが、それにも増して彼はジェドとの対決を望んでいた。
 ラオは敢えて気付かぬ振りをし、不穏な笑みを顔に貼り付けたクリユスに対し、ただ「頼む」とだけ答えたのだった。









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