28: 女神フィリージュ
小振りの剣が、木の幹に深く突き刺さっている。 これは何かの 彼はユリアに呼び出され、ここフィルラーンの塔の中庭に、忍んで来ていた。 正式な呼び出しで無い以上、フィルラーンの塔は一介の兵士が気軽に尋ねて来られる場所では無い。 彼が塔を訪ねる時は、大抵がこうして人目を だがこう毎度毎度こそこそと忍び込んでいると、まるで間男にでもなった気分だ。 そう思い、ロランは慌てて頭を振る。 何という不謹慎な事を考えるのだ、自分という男は。 いや、不謹慎というより、不敬である。大体間男などと、一体誰の男だというのだ。 「待たせてしまったなロラン、済まない。 ……どうしたのだ、顔が赤いぞ」 顔を覗き込まれ、ロランの心臓が跳ね上がった。少女が首を傾げた拍子に、金色の髪がさらりと流れる。 「あ、い…いえ、何でもありません。それより、頼まれた物を持ってきました」 ロランは持っていた剣を差し出した。木の幹に突き刺されている剣と同じく、子供が訓練用に使う為の小振りの剣である。 「こんな物、何に使うのですか」 「それなのだが……実はお前に剣の使い方を教えて欲しいのだ、ロラン」 「は……剣ですか?」 予想外な返答に、ロランは思わず聞き返した。 剣など、このフィルラーンの少女にはあまりに似つかわしくない。 「クリユスに剣を習うよう言われたのだが、肝心のクリユスが忙しくて相手をしてくれないのだ。こんな事を頼める人間など、そういないしな」 「しかし、何故フィルラーンである貴女が、剣など……」 「お前のような男に、また襲われては敵わないからな」 「は………」 ロランは己の顔から、血の気が引くのを感じた。 何と言えば良いのか分からずにいるロランに、ユリアは堪らずといった風に笑いだした。 「冗談だ、一々項垂れるな。お前が未だあの件を気に病んでいる事は分かっている。だが私はその事でお前に気を使うつもりは無い」 あっさりと少女は言う。ロランはやはり、何と返答をしたら良いのか分からなかった。 ただ、不思議な少女だと思う。 女性にとって一番忌まわしいであろう事を、この自分はしようとしたのだ。 後悔し、ユリアの為に働こうと思いはしたが、少女に許して貰えるとは思っていなかった。 ましてや、笑いかけられるなどとは。 その話題に触れられると、後悔の念から傷口が痛んだが、だが彼女が敢えてそれを口にしているのだという事は分かっていた。 それによって、自分は随分救われているのだという事も。 「ですがユリア様、貴女が剣を持たなくとも、この俺が必ずお守りします。命に変えても」 「馬鹿を言うな。お前も謹慎が解けたら軍へ戻るのだろう。今のように自由に動けなくなるではないか」 「それは、そうですが……」 謹慎など解けなくてもいいという気持ちに、ロランはなっていた。 彼女の傍にいられるのなら、国王軍小隊長の座さえ惜しくはない。 「だからクリユスも、自分が傍にいない時が心配だとこの剣をくれたのだ」 ユリアは木に突き刺さっている剣にそっと触れた。 あの剣はクリユスがユリアに渡した物だったのか。 剣などという物に、一番縁遠いフィルラーンにそれを手渡すとは、一体何を考えているのだろうか。 あの男の行動であれば、そこに何か理由があるのではないかと思うのは、恐らく考えすぎでは無いだろう。 ふと、ユリアは顔を曇らせる。 「だというのに―――ジェドがこの剣を私から取り上げ、この木に突き刺してしまった。深々と刺さってしまい、抜けないのだ」 言いながら、少女は忌々しげに顔を歪める。 嫌悪感を露わにし歪ませたその表情でさえ美しいと、ロランは場違いな事を考えた。 「ジェド殿が。…そうですか」 ロランの心の中に、反発心が沸き起こった。 そうでなくとも、クリユスがユリアに剣を渡し、ジェドがそれを邪魔立てしたというのなら、どちらに従うかは考えるまでも無い事だったが。 「分かりました。この俺で良ければ、貴女に剣を教えましょう」 「そうか、良かった」 一人でどうしようかと思っていたのだと、ユリアは笑った。 その笑顔に、ロランは目を細めた。 「ではまずは剣の持ち方から始めましょうか」 ロランはユリアに剣を持たせた。 男にしてみたら小振りな剣ではあるが、ユリアの手には余るようだった。 本来であれば片手で持つ剣を両手で持っているというのに、剣先はふらつき定まっていない。 「利き手の四指の付け根にへりを合わせ、親指を立てて持って下さい。そして逆の手は上から柄の下部を押さえるように添えます。そうすると利き手を支えに剣と手のバランスが―――……ユリア様?」 ユリアの顔が固まっていた。 「す……済まない…何を言っているのかよく分からないのだが…」 「あ…これは、申し訳ありません」 思えばこんな初歩から人に教えることなど、今までに経験をしたことが無いのだった。 新入りの兵士達だとて、国王軍へ入隊する以上、既にそれなりの腕を持っている男達なのだ。 「ええと…ユリア様は右利きですか? でしたらまず右の掌を上に向けて下さい」 「こうか?」 ユリアは白く小さな掌をロランの前に広げてみせた。 「そしてこの四指の付け根に剣を、このように合わせて……」 ロランは剣をユリアの掌に合わせようと彼女の手を取り、そして柔らかいその手の感触に驚き、慌てて離した。 剣がからんと音をたて、地面に落ちる。 「あ…! 申し訳ありません! お怪我は…」 「大丈夫だ。当たってなどいない」 剣を拾いながら、ロランは自分の顔が火照っているのを感じた。 (―――何なんだ。一体何なんだ、これは……?) 驚くべきは、自分のこの慌てようだった。 イアンではあるまいし、たかだか手に触れただけで動揺するなど、ロランにとってありえないことだった。 純情な弟と違い、彼はそれなりに―――これは少々控え目な表現だが―――女を知っているのだ。 「ロラン、また顔が赤いぞ。熱でもあるんじゃないのか」 ユリアが 「いえ、本当に、何でもありませんから……!」 続きを始めましょうと剣を差し出すロランに、ユリアは訝しげな表情のまま頷いた。 「ええと、ですから、利き手の四指に―――」 「それはさっき聞いた。聞いたが言葉だけではよく分からない。だから私に直接お前が剣を持たせてくれようとしたのでは無いのか?」 「はあ……そうなのですが……ですが……」 そうすると、やはり彼女の手を取らないといけなくなる。 彼女の白くなめらかな指の感触を思い出すと、それだけで鼓動が早まった。 「―――おい、いい加減にしないか。 最近知ったが、どうやら私は気が長い方では無いらしいぞ」 「は……」 明らかにユリアは苛立った様子で、ロランを見上げている。 確かに、彼女の気が長い方では無いという事は、ロランもよく知っていた。 この少女には何度怒られた事だろうか。それを思うと、自然と笑みがこぼれた。 「分かりました。ちゃんと…教えますから」 しかしそう言ったものの、ロランにとってそれはどんな任務よりも難しい事のように思えた。 「では俺が剣の構えの基本姿勢を取ってみますから、まずユリア様は見ていて下さい」 「ああ、分かった」 ユリアは頷く。ユリアの真剣な眼差しが、妙に居心地が悪かった。 (―――余計な事を考えるな) ロランはゆっくりと目を瞑ると、心を落ち着かせた。 彼女の傍にこれからも仕えて行きたいのなら、己の心くらい制御出来なくてどうする。 フィルラーンの少女に心動かされるなど、神に恋い焦がれるのと同じようなものだ。所詮不毛でしか無い。 (――――神か……) 悪戦苦闘しながら剣を握るユリアを見下ろしながら、ロランは思った。 そうなのかもしれない、と。 触れることさえ 流れる金の髪も、瞳も、白く細い指も、全てがこの世の者とは思えない程、美しい。 月と美の女神フィリージュが人の形を成したら、きっと彼女のようであるに違いない。 ならばこの想いは、崇高なものに抱く畏敬の念に似通ったものなのだ。 そういう事だ、と思った。 いや、そうでなければならなかった。 |
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