29: カナル街へ1





 フィードニア国軍はシエン国を落とした後、その勢いのままボルテン国へ侵攻した。
 しかしその最中、フィードニアに隣接するカベル、スリアナの両国が連合を組みフィードニア本国へ攻撃をしかけたのだった。
 フィードニアは本国へ残る国王軍と領兵軍とでこれに対抗したが、主力を欠いた兵力で背後にトルバが控える連合国と、いつまでも対峙し得ないことは明らかだった。
 ボルテンを攻めていた国王軍は、この報を受け急遽フィードニアへ取って返し、連合国を打ち払った。
 だがシエンを落としたものの、ボルテンをあと一息という所で落としそこなったフィードニア国軍の帰還は、最早勝利の喜びに酔いしれるものでは無かった。

「ご無事の帰還何よりです。ボルテンはあと少しという所だったと聞きました。残念です」
 出兵先から戻り、兵舎の食堂に腰を据えたクリユスに、ロランが悔しそうに言った。
「いや本当にもう一捻りで落とせたものを、残念ですなあ」
 クリユスの正面の椅子へ腰掛けたバルドゥルが、白々しく相槌を打つ。
 クリユスは苦笑しながら、運ばれてきたスープを口にした。
「お前の謹慎もそろそろ解かねばならんな。いつまでもバルドゥルに第一小隊の面倒を見させる訳にもいかん」
「あ……はい、そうですね……」
 ロランの表情が微かに陰った。
「何だ、折角隊に戻れると言うのに、嬉しくなさそうではないか。我らが戦いに出ている間に、女遊びにでもふけっていたのではあるまいな」
「いえ、そんな事は」
 からかうような口調のバルドゥルに、ロランは慌てて首を振った。

「女遊び結構ではないか。私も早く愛しい女性達の許へ行きたいものだよ。こんなむさ苦しい場所で、むさ苦しい男共に何時までも囲まれていると、体に悪いというものだ」
「おお、良かったではないかロラン、クリユス殿が話の解る隊長で。謹慎中に女遊びに耽るなど、別の隊なら打ち首だぞ」
「だからそんな事はしていないと、何度言ったら解るのですか…!」
 そんな風にむきになる程怪しいと、尚もからかうバルドゥルにロランは不貞腐れたように背を向けた。
「女遊びは兎も角、隊には近いうちに戻って貰う事になるだろう。―――今後この国の軍は大きくなるだろうからな。新たな兵士達を訓練をする人間が必要だ」
 クリユスはにやりと笑ってみせた。

「軍が…大きくなると、決まったのですか」
「まだ決まった訳では無いよ。だが早急にその方針が固まるだろう。メルヴィン殿が近々王に提言するであろうよ、国王軍の総意であるとね」
「何と言っても、連合軍に対抗し得る兵力が国に残ってさえ居れば、我らはフィードニアに戻る事無くボルテンを攻め落とす事が出来たのですからなぁ」
 至極残念そうに、バルドゥルは己の顎髭をしごいた。
「ですが…俺が調べた限り、ボルテンは連合国の傘下に下る事を渋っていました。だからまだ連合国の一員では無かった筈です。なのに何故ボルテンの為にカベルとスリアナは動いたのでしょうか」
 ロランは答えを求めるように、クリユスを見た。
「フィードニアがこれ以上勢いづくのは良しとしなかったのだろう。それにボルテンを助けたという既成事実が出来上がる。もはやボルテンは連合国の傘下に下るしか道はあるまい」
「成程、ではフィードニアがボルテンを攻めれば、連合国が動くだろう事がクリユス隊長には最初から予測が付いていたのですね」
「さて、どうだろうね」
 クリユスはにこりと笑うと、スープを再び口にした。


「ああ、そうだ。お前には隊に戻る前にもう一つ仕事をして貰いたいのだよ、ロラン」
「は、何なりと」
「今回シエンへ出兵した領兵軍への清めの儀式が、カナル街で執り行われる事になった。お前にユリア様の護衛を頼みたい。日帰りでは戻れまい、ならばユリア様も気心が知れた相手が護衛についた方がいいだろう」
「は―――ち、ちょっと待って下さい、隊長……! 正気なのですか…!」
 ロランは言いながら顔を青ざめさせた。
「俺が謹慎を受けた理由は―――隊長、忘れた訳では無いでしょう?」
「ユリア様を襲うなよ」
 さらりと言うクリユスに、今度は顔を赤くして憤怒した。
「そっ…そんな事しません……! 俺は二度とあんな事は……ユリア様は女神フィリージュのような方だ、そんな方に手を出せる筈がありません……!」
 ロランは机を叩くかのような勢いで身を乗り出し、力説した。
 スープの皿がかたかたと揺れる。

「女神とは、これは惚れ抜いたものだ」
 バルドゥルがスープの皿を持ち上げながら、口笛を吹いた。ロランは「そんなんじゃありません」と彼を睨みつける。
 良いにしろ、悪いにしろ、思い込みの激しい男だとクリユスは苦笑した。
 否定はしているが、ロランがユリアに惚れている事は明らかだった。分かりやす過ぎる男なのだ。
 そしてそれは好都合でもある。
 ユリアに惚れ、己の命に代えても彼女を守ろうとする男は、幾ら居ても良い。
 ロランは腕も経つ。しかも自分の犯した失態から、二度とユリアには手を出そうとしないだろう。
 何とも都合の良い駒になってくれたものだ。
「―――女神フィリージュか……。 いや、良い事を言うではないか、ロラン。 活力を司る太陽神と真逆におわす月の女神は、癒しの神でもある。穢れを払うフィルラーンのユリア様には、相応しい呼称では無いか。―――特に、これからのユリア様にはな」
「………隊長?」
 薄く笑うクリユスに、ロランは怪訝な表情をした。
「いや、何でもない。 それよりカナル街の護衛の件、これは命令だ。お前の事は信用しているよ」
「はあ……」
 ロランは戸惑うように、鼻を掻いた。

 この世には様々な神が居る。
 特に刻限を指し示す神を総称して十二神と言った。
 太陽が昇り、そして落ちるまでの半日を太陽神ダヴィヌスが支配し、日が沈みまた明けるまでを月の女神フィリージュが支配する。
 そしてその半日は更に十二に分けられ、その一つ一つに神の名が付いているのだ。
 太陽が天頂に位置する刻限をダヴィヌスの刻(十二時)という。そしてクレプトの刻(十三時)、イシュヌの刻(十四時)と続き、夜が始まる時刻がフィリージュの刻(十八時)となる。
 
 クリユスはふとジェドを思い出した。
 ライナスがジェドの事を、軍神ケヴェルと称したのだ。
「軍神ケヴェルと女神フィリージュか……」
 クリユスは呟く。
 ケヴェルの刻(十六時)とフィリージュの刻(十八時)の間は、メトプスの刻である。
 二人の間に居るメトプス神は―――死の神、だ。
 



 バルドゥルとロランが席を立った後も、クリユスは食堂の椅子に変わらず座っていた。食事は既に終えていたため、今度は酒を手にする。
 兵舎の食堂で出されるものは、食事だけでなく酒も不味かった。
 彼がその味に顔を顰めていると、程なくしてラオが現れ、先ほどまでバルドゥルが座っていたクリユスの正面の席へ腰を落ち着けた。
 運ばれてきたスープを口にし、やはり「不味いな」と不満を漏らした。
「だがまあ、この不味い飯を再び食べる事が出来るのも、命あってのもんだからな。ありがたいと言うものか」
 言いながらラオは笑った。

 ラオは右の太腿に受けた矢の傷と、左肩に深い刀傷を負っていた。
 だが戦場での第三騎馬隊の置かれた状況を考えると、それだけで済んだという事の方が驚きである。
 恐らくラオ本人も、戦場で何度も己の死を覚悟した事だろう。
「―――クリユス、俺はあの人に惚れたぞ」
 皿に入ったスープを飲み干すと、ラオはにやりと笑いそう言った。
「……お前ならそう言うのではないかと思ったよ」
 あんな戦いを見せる男に、この戦馬鹿が惹かれない筈が無かった。
 クリユスは溜息を一つ吐くと、静かに酒の注がれたグラスを置いた。

「それで、お前はどうするつもりだ? この俺と袂を分かつか」
「さあな…俺は別に今までと変わる所は無いと思っているがな。俺はそもそも、総指揮官を軍から追い出すなんて事には賛成していなかった。軍を大きくするのは面白い、そこまでは付き合おうと最初から言っていた筈だぜ?」
「そうか、そうだったな」
 ラオはクリユスの酒瓶を奪うと、己のグラスへ酒を注いだ。
「当面は今までと変わらない。ジェド殿を軍から追放するというなら、俺もあの男と共にこの軍から去るし、ジェド殿を殺すというのなら、この俺を先に殺してみせろ。ただそれだけの話だ」
 ラオは言いながら笑った。
 全く、あっさりと言ってくれるものだ。

 英雄の戦いぶりを目の当たりにして、彼に惹かれる気持ちがクリユスにも無い訳では無かった。
 けれど自分とラオとでは、己が優先する所の順位が違うのだ。
 英雄を追放するのか殺すのか、それとも他の道が存在するのか。 軍を大きくする事が先決の今、それを考えるのは、まだ時期尚早であるといえる。
 だがいつかはこの友と決別する時が来るのだろうかと、クリユスは暗雲たる気持ちになった。
 その時は自分もラオも、お互いに引くことは決して無いだろう事が、クリユスには十分解っていた。









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