2: 清め
清めの儀式を行う聖場は、フィルラーンの塔の地下にある。 そこの中央には人の身丈程の深さに掘られた、4.5ヘルドス(約5.5平方メートル)あまりの広さの穴が掘られており、中には聖水が張られ、人工的な泉が出来ているのだ。 ユリアが儀式用の 穢れの付いた衣装を外し、身一つで儀式を受ける為このような恰好をするのだ。 少女はジェドが泉に入っていくのを、静かに待った。 彼はゆっくと泉の中央まで進み、そしてこちらへ振り返る。 水は彼の胸の位置まで張られていた。 ユリアは両手に持った錫杖を己の目の高さの位置で掲げると、祈りの言葉を紡ぎ始めた。 ゆらりと、ジェドの背後に揺れる黒い影が見えた。これがフィルラーンだけが見ることの出来る、“穢れ”の影である。 この影を清め、浄化させる事がフィルラーンの務めなのだ。 これはこの男に殺された人間達の無念の影だ、とユリアは思った。 英雄と持て囃されていても、実際は薄汚い人殺しに過ぎないでは無いか。 この男の手に掛った人間の、その無念がせめて解き放たれるよう、ユリアは心をこめて祈った。 祈りの言葉に共鳴するように、ジェドの周りの水が小さく揺れ始め、黒い影が彼の背後で、まるで意思を持った生き物の様に だがその動きは次第に緩慢になり、色も薄くなって行く。 そして最後にそれは空気に溶け、消滅した。同時に水の振動も止まる。 “清め”の完了である。 ユリアはほっと一息を付いた、その時――。 「―――上達しましたね、ユリア」 背後から掛けられた声に、ユリアは慌てて振り返った。 そこに立つのは、女性かと 腰まで伸びた、青味がかった銀の髪は見とれる程美しい。 「ナシス様……!」 彼に会うのはひと月ぶりの事である。 同じ塔に住んではいるが、おいそれとこちらから会いに行ける方では無い。 彼がこの、フィードニア国もう一人のフィルラーンであり、最高の権威を持つ存在なのである。 ユリアはとっさに髪に手を当てた。 髪をもっと ナシス様の前に立って、失礼な格好をしていないだろうか、何故今櫛の一つも髪に挿していないのだろうか――。 そんな事がユリアの脳内を駆け巡る。 「何の用だ、ナシス。男になど用は無い」 泉の方から、信じられない台詞が飛んだ。 振り返ると、ジェドが泉の際へ肘を付き、面白くなさそうにナシスを睨んでいた。 「凱旋し気分が良い所なのだ、お前のその辛気臭いツラを見せるな」 何を言っているのだ?この男は―――。 ユリアには、自分の耳がおかしくなったとしか思えなかった。 「な……っな、何を……っ! 何を言ったのだお前は? ナシス様に向かって…何という口の聞き方を…っ」 青ざめるユリアにも、ジェドは素知らぬ顔でいる。 ここまで増長していたのかと、ユリアの体は怒りで震えた。 「ふ…相変わらずですね、ジェド。あなたに一言、労いの言葉を述べに足を運んだまでの事、そう睨まなくとも直ぐに退散しましょう」 怒るユリアに対し、当のナシスは微笑みすら浮かべている。 「ナシス様…! このような無礼許される事ではありません。即刻王にこの男の処分を…」 ナシスは片手を上げ、やんわりとユリアの言葉を制した。 「いいのですよ、ユリア。今に始まった事では無いのですから。―――そう、貴女が私と彼との会話の場に居合わせたのは、初めてでしたね」 ユリアは頷く。 公式の場では有るが、こうした場では初めてだ。 だが、公私など関係ある筈がない。 「いいのです。彼も私も公私は 「そ…そんなナシス様を怒るなど…!」 ナシスは穏やかに笑う。 春の日差しを思うような、柔らかな笑顔だ。 ユリアの頬に、赤みが差す。 ―――なんと、お優しい方なのだろう。こんな男の無礼をお許しになるとは。 心が広く、美しいのだ。 ユリアがフィルラーンとしての修業を終え、この城へやってきたのは今から二年程前になる。 それ以来ずっと、彼女はこの美しく高貴なフィルラーンに心酔してきた。 「それでは、私は退散する事とします。邪魔をしましたね、ジェド」 ジェドは不機嫌そうにそっぽを向いたまま、返事もしない。 ナシスは小さく笑い、そしてこの場から立ち去って行った。 ―――ナシス様に比べ、なんという最低な男なのだ、この男は。 重ね重ね無礼な態度を取るジェドに、怒りが再度こみ上げてくる。 「ジェド…! 貴様と言う男は、無礼にも程があるぞ……っ!」 ユリアはジェドに詰め寄ろうと、泉の際に居るジェドの方へ歩いて行った。 「ふ…あっははは…っ! これは傑作だな。お前、ナシスに惚れているのか」 「な…! 何を急に…!」 突然なその言葉に、少女の顔は真っ赤に染まった。 「だが残念だな、ナシスがお前を抱く事は万に一つも無い。そうなったら、この国はフィルラーンを二人共々失ってしまうのだからな」 「何を…何と下世話な事を…! 私は心底ナシス様を尊敬しているのだ。それを汚らしい想像で汚すなど、許さぬぞ!」 ジェドの眉が、ぴくりと動いた。 「汚らしいだと…? ほう、お前は男女の営みを汚いとぬかすか。夫婦になって子を宿す事は、汚らわしい行為か」 「私はそんな事は…」 ジェドの手が、ユリアの方へと伸びる。 「あ………!」 景色が回転した。抗う間も無く、ユリアは気付くと水の中に落ちていた。 ユリアは訳が分からず、ただ必死に空気を求めてもがいた。 彼女の背では、立って水面に顔を出す事が出来ない。咄嗟にジェドに掴まり何とか水面から顔を出すと、今度は咳き込む。水を飲んでしまった。 「………なっ…何を…するんだ…っ!」 「人を愛すると、相手に触れたくなるものだ」 ジェドはユリアの体を引き寄せると、その両腕で彼女を抱きしめた。 あまりに力が強く、息が苦しい。 「ジェド…!さっきから何なのだ。止めないか!」 顔を上げると、その顎に手を掛けられた。 視界が遮られる―――。 「んん………っ!」 ユリアの唇が、ジェドのそれで塞がれた。 余りに突然過ぎる行為に、ユリアの頭は混乱し真っ白になった。 何故こんな事をされているのか、全く理解できない。 「やっ止め……」 一瞬唇が離れた隙に顔を背けようとしたが、今度はジェドに後頭部を掴まれる。 顔が固定され逃げられない。 動かせる方の手で、少女はジェドの体を何度も叩いた。 嫌だ、嫌だ、嫌だ……………! 必死にもがき離れようとするが、しかし屈強な体はびくともしなかった。 「――――――フィルラーンと言えど、唯の女には違いあるまい。お前も、綺麗事を言ったところで本心では、あの男にこうされたいのだ」 冷たい目で見下ろすジェドに、寒気がした。 「こ…っこんな事、誰がされたいものか……! ナシス様を愚弄するな、あの方はこんな事など…!」 「そうだ、あの男はこんな汚れた行為などお前にしてはくれまい。俺達俗人と違って高尚なのだろうからな。全く、フィルラーンという生き物には ジェドはユリアを解放した。 少女は必死に泉から這い上がる。 ―――なんと無様な格好だ。 こんな男にいいようにされても、抵抗も出来ない。 ただ無様に逃げるだけなのだ、フィルラーンのユリアは。 ―――余りに無力な自分が、ただ、悔しい。 |
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