3: 嵐





「到着しました、ユリア様」
 ユリアを乗せた馬の、その手綱を引いていた男が歩みを止めた。
「御苦労様です、イアン」
 ユリアがそう声を掛けると、イアンはぱっと顔を上げ、笑顔を見せた。
 軍人らしからぬ人好きのする笑顔だが、二級将校の中でも際立って腕が立つ男だという事を、ユリアは以前彼の上官から聞いた事がある。

「既に皆、訓練場に集まっております。儀式の用意も整っていますよ―――お手を、ユリア様」
 イアンは自身の服で手の平を拭ってから、ユリアの前へその手を差し出した。
 礼を言い、ユリアは彼の手を借り馬から降りる。
「皆を待たせてしまいましたね。急ぎましょう」

 儀式とは、清めの儀式の事である。
 先日の戦いに出兵した一般兵士達にも、清めの儀式を行うのだ。
 本来であれば、フィルラーンの塔地下にある聖場で行う清めの儀式が正式なものではあるが、全ての兵士にこれが執り行える訳ではない。
 正式な清めの儀式を受ける事が出来るのは、王や身分の高い位置にいる者――軍では、総指揮官、副総指揮官、一級将校(大隊長及び中隊長位)まで――のみである。
 二級将校以下、一般兵士には略式での“清め”が行われるのだ。
 場所も訓練場や町の広場など、大勢の人間が集まることの出来る場所で行われる事が一般的で、今回は前者の訓練場で執り行われるという訳である。

 訓練場は、城下町をぐるりと囲う壁の左側にある、西門から出て半刻程歩いた所にある。
 馬に乗らずとも歩ける距離ではあるが、ユリアが門の外へ出る時は、護衛が一人は付く事になっていた。
「お待ちしておりましたよ、ユリア様」
 ユリアが訓練場に入ると、彼女を迎えた男がいた。
 茶色い髪に、日焼けした肌。少しツリ上がった目だが、不思議ときつい印象を与えない男だ。
「ライナス…何故あなたがここに?」
 彼はこのフィードニア国王軍の副総指揮官である。

「わざわざ物見遊山しに来たと思いますか? 私も“清め”を受けに来たのですよ」
「けれど、あなたはこんな略式では無く、正式な清めの儀式を受けられるというのに」
 はは、とライナスは笑った。
「あれはどうも堅苦しくていけない。私にはこっちの方が気軽で性に合うんですよ。…それに、ついさっきまでここで訓練をしていた所でして、丁度良い、ついでに受けて行くかと―――」
「ライナス様は面倒くさがりでいけない」
 ユリアの後ろに控えていたイアンが、笑いながら言う。
「そのうち面倒で息も吸わなくなるんじゃないかと、不安で堪りませんよ」
「おい、何をぬかすか」
 二人の会話に、つられてユリアにも笑みが漏れる。
 ―――ジェドと違って、なんと気さくな男だろうか。
 いっそ、ジェドがいなくなってライナスが総指揮官になれば良いのに。
 そうすれば――――。

「さあ、ユリア様。そろそろ祭壇の方へ」
 イアンが促した。
 ユリアは、二千余りの兵士達が並ぶ、その中央に簡易的に据えられた祭壇へと上った。
 兵士達には聖水が配られている。
 清めの泉に体を浸す代わりに、この水をそれぞれが飲むのだ。

 ユリアは、両手に錫杖を掲げる。
 そして祈りの言葉を口にした。








「―――何だか、雲行きが怪しくなって来ましたね。雨に降られるかもしれません、急いで帰りましょう」
 ユリアを馬に乗せ、イアンは手綱を持った。
「送り狼になるなよ、イアン」
 見送りに出てきたライナスが、イアンをからかう様に言う。
「な……何を言ってるんですか、ライナス様は。もう、ろくな事を言わない方だ」
 イアンは顔を真っ赤にさせ、ライナスを睨みつけた。
「こんな美人の護衛とは、役得だなと言ってるのさ。羨ましい限りだ。俺も男相手のつまらん訓練より、そっちの役目を言いつけられたいもんだな」
「ああ、もう。勝手に言ってて下さい。……ユリア様、この人の事は放っておいて、早く帰りましょう」
 イアンは手綱を引き、歩き始めた。
「おい、イアン。明日久しぶりにお前に剣の稽古をしてやろう」
「―――本当ですか……!」
 イアンは振り返り、ライナスに向かって叫ぶ。
「明日になって、面倒になったから止めたとか、言わないで下さいよ…! 約束ですからね」
 イアンは、白い歯を見せて笑った。


「あんなふざけた事ばかり言う人ですが、戦いになると凄い人なんですよ、ライナス様は」
 先程はライナスを咎める事ばかり言っていたというのに、離れたとたん、イアンは逆に彼を弁護し始める。
 それがユリアには可笑しかった。
「ああ――済みませんユリア様。急いで帰らなくてはと言って置きながら、俺って奴はお喋りで…今度こそ、本当に急ぎますから」
 イアンは足を速めた。
 それに伴い、ユリアの乗る馬の歩みも、少し速くなる。

 清めの儀式が終わる頃になって急に雲が広がり始め、今ではそれは随分厚くなっていた。
 遠くの方から、雷鳴も聞こえる。
 嵐が来るかもしれない。
「昼間は晴れていたというのに―――こんな事なら、日程を変更するべきでした。申し訳ありませんユリア様」
「いいのですよ、雷もまだ遠いようですし、雨に多少濡れる位平気です」
「いえ、ですがユリア様に風邪を引かせる訳には――」
 ポツリ、と頬に雨粒が当たった。
 とうとう降りだしてきてしまったようだ。
 イアンが軽く舌打ちをし、迷うような眼をした。
 だが、このままユリアをずぶ濡れにさせる訳にもいかないと判断したのだろう。
「あの……ユリア様、無礼をお許し下さい」
 イアンはひらりとユリアの乗る馬にまたがると、手綱を取った。

 横座りで馬に乗っている為、バランスの悪いユリアを左手で支えながら、イアンは片手で器用に手綱をる。馬は勢いよく走りだした。
 馬の足で駆ければ短い距離ではあったが、それでも次第に激しくなる雨に、塔へ着く頃には二人ともずぶ濡れになってしまっていた。

「…申し訳ありません。結局、降られる事になってしいました。早く、お体を温めて下さい」
 イアンはユリアを馬から降ろすと、そのまま立ち去ろうとする。
「あ、イアン待ちなさい。あなたこそ風邪をひきますよ。体を拭いて、雨が止むまで休んで行きなさい」
「い……いえ、私は大丈夫です。鍛えてますから、これ位では風邪など引きません」
 イアンらしくない、ぎこちない笑い方をする。やはり具合が悪くなったのでは無いだろうか。
「とにかく、そのままで返す訳にはいきません。一度中へ入りなさい」
 ユリアは雨に打たれたままのイアンを、半ば強引に塔へ招き入れた。
 塔内は暗く冷えていたが、雨を凌げる場所に入った事で幾分安堵する。

「何か体を拭くものを用意します、あなたはそこで少し待っていて頂戴」
 ユリアは、雨を吸い重く身体に纏わりつくラティを脱いだ。
 薄い生地のラティでは、雨よけにもならない。
 権威の象徴以外に何の役にも立たない布だと、ユリアは心の中でつぶやいた。
 現にその下に身に付けている衣服も、ずぶ濡れになっていた。
 布が肌に張り付き、ユリアの体のラインをくっきりと浮かび現している。

「…………馬になど、乗るべきでは無かった……馬鹿だ、俺は」
 イアンが下を向きながら、つぶやいた。
「え……何? 何と言ったのです…?」
 俯くイアンの表情は、見えない。

 ユリアがイアンの方へ一歩足を動かした、その時。雷光が閃き、稲妻が走った。

「きゃあぁっ…!」

 ユリアはとっさに目を閉じ、耳を塞いだ。
 その瞬間、何者かがユリアの体を絡め捕った。
 目を開くと、すぐ間近にイアンの顔が有る。

「い……イアン…? わ…私は子供ではありませんよ。少し音に驚いただけで、雷が怖い訳では―――」
 雷鳴ごときで、叫び声を上げてしまった自分が恥ずかしく、少女は気丈なふりをしてみせた。
 ユリアはイアンの身体を押し、体を離すよう促す。
 だが、逆にイアンは更にその腕に力を込めた。

「……? 離して頂戴、イアン」
「………お…俺は」
 腕に更に力が入る。ユリアは息が苦しくなった。
「………俺は、ずっと以前から、貴女をお慕いしておりました……! ずっと、ずっとこうして貴女を抱きしめたかったのです……!」
「……な、何…? 嫌、離して頂戴……!」
 突然なイアンのこの態度に、ユリアは動揺した。
 ほんの少し前までは、信頼の置ける兵士だったというのに、今ここに居るは、只の男ではないか。
 ユリアはイアンの腕から逃れようと、もがいた。だが鍛えられた男の力に敵う筈もない。
 男は、何故皆こうなのだと、ユリアは思う。
 男の前では抵抗する術も無く、結局女は男の為すがままでいるしか無いのか。

 ジェドに唇を奪われた感覚を思い出す。 
 イアンの次の行為を思うと、ユリアは背筋がぞっとした。
「お願い…ねえ、放して頂戴……!」
 みっともなく、ただ懇願する事しか出来ない女という存在を、ユリアは呪った。

 嫌だ―――神よ……お願い、誰か、助けて……!



「何をしている…!」

 怒号が、走った。
 その声は稲妻よりも大きく、塔内に響き渡った。

「貴様、そこで何をしている…」
 薄闇から、ジェドが現れた。
 全身から怒りの気を放っているような圧迫感が、ジェドにはあった。

「そ…総指揮官殿……!」
 イアンがユリアを解き放した。
「貴様、フィルラーンをどうしようというのだ! フィルラーンが処女を失えばその力も失う、それ位の事は知っておろうが…! 貴様は国の宝を奪おうというのか、この国賊めが!」
「総指殿……! お、俺はそんなつもりは……!」
 ジェドは帯刀する剣を抜き、イアンに突き付けた。
「反逆の罪だ、死を持って償え」
「総指殿! お…お許し下さい! ユリア様に対して、俺は決して、決してそんなつもりでは…!」
 イアンの顔から血の気が引いた。彼はその場で土下座をし、必死に懇願する。

 ユリアは、ジェドが何を言っているのか解らなかった。
 普段フィルラーンであるユリアを一番軽視しているのは、他でもないジェドだというのに、何故これだけの事で処断という話になるのか。
「…ジェド、お前は何か勘違いをしていないか。私は何もされてなどいない。剣を納めないか…!」
 止めに入ろうとしたユリアを、ジェドは払いのけた。
「せめてもの温情だ、貴様も剣を抜く事を許す。俺は一度しか剣を振るわん。かわしてみせれば、もう罪は問わぬぞ」
「どうか…どうかお許しを……! お、俺が総指に敵う筈がありません…! どうか…っ!」
「見苦しいぞ! それでも弓騎馬隊小隊長か!」
 びくり、とイアンの体が震えた。
 イアンは将校としての誇りの為なのか、ゆっくりと立ち上がり、剣を抜いた。
 だが足元はおぼつかなく、剣を持つ手も震えている。
 ジェドの圧倒的な覇気が、イアンを凌駕していた。

「止めないか…! 二人とも、どうかしているぞ! ここをどこだと思っている、フィルラーンの塔だぞ! ここで剣を抜くなどと、無礼にも程がある……!」
 ユリアは叫んだが、二人の耳には全く届かない。
「いいえ、ユリア様……。俺が……俺が馬鹿でした。自分を抑えることも出来ない、未熟な男だったのです。 ……ライナス様に、約束、俺の方が駄目にしてしまったと……謝って下さい」
 イアンは笑った。

 そして、剣を構える。
「―――――総指、俺は……ユリア様の事を……っ」
「――――――――言うな………!」

 ジェドが一歩、前に出た。
「うわあああああああっ……!」
 イアンが叫び、剣を振り上げた。


「……………ジェド!」

 ユリアは手を伸ばす。

 ジェドの剣先が、一筋の線を描いた。





 ―――――――イアンの首が、飛んだ。




「あああっ……いやあああああああぁああぁ……っ!」


 ユリアは必死に目を閉じた。今目の前で起こっている現実を、受け入れたくなど無かった。
 血の匂いに眩暈を覚える。
 神に助けを求めたというのに、現れたのは悪魔だ。
「何故だ、何故イアンを殺さなくてはいけない…! イアンが何をしたというのだ! 私に触れる事が罪だというのならば、お前はなんなのだ。お前は何故今生きている…!」
 吐き気がする。
 ユリアはジェドの背中へ向け、思いつく限りの罵倒を浴びせたが、彼は何の反応も示さなかった。
 雨音だけがどんどん激しくなり、雷鳴が轟いたが、この男以上に恐ろしい物など、他に無い。

「……神は残酷な事をする。おのれ以外触れる事を許さぬ存在を作りながら、男を惑わす美しさを、それに与えるとは…」
 薄闇の中、雷光にジェドの背中が、くっきり浮かび上がった。
「な…何を……私が男を惑わしたというのか…! 私はそんな事、してなどいない……!」
 イアンは私の所為で死んだとでも言うつもりか。
 己の非道な行いの為ではないか……!

「……惑わすのだ、お前は。男を……」

 雷鳴が轟く。
 ジェドは自身のマントを外し、イアンの亡骸へそれを被せた。
 そして踵を返し、外へ出て行く。

「イアンではなく、お前が死ねば良かったのだ……!」
 豪雨の中に呑まれていくジェドの背中へ向け、ユリアは叫んだ。

 だがその叫び声も、雨音にただ、虚しく取り込まれてゆく……。











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