181: 最愛の人2





「あ……すまない、こんな格好で。お前まで汚れてしまうな」
 泥だらけの格好でジェドに抱きついていたことに気付き、ユリアは慌てて離れようとした。今まで必死で構っていられなかったが、こんな汚い姿でいる自分が急に恥ずかしく思えてくる。
 だがジェドはそんなユリアの腕を掴むと、自分の方へぐっと引き寄せた。広い胸の中に閉じ込められ、とたんに心臓が跳ね上がる。
「別に構わん。顔を隠すなユリア、今のお前は、今までのどんな姿のお前よりも綺麗だぞ」
「な……っ、何を言っているんだ、お前は」
 顔が赤くなるのが自分でも分かった。こんな台詞を恥ずかしげも無く真顔で言うなんて、ジェドの奴、実は女ったらしなんじゃないのか。
「いいから離せってば、ひ、人前だぞ」
「人前? 俺には見えんな。誰かそこにいるのか?」
 じろりと睨みつけられ、フランクは竦み上がる。
「いっいえ、誰もいません。俺はここにはいません……!」
「だそうだぞ」
 にやりと笑うと、ジェドは更に腕に力を入れてくる。
「ばっ……馬鹿じゃないのか、何を言っているんだお前達は。もう、離せってば」
 必死でもがいて逃れると、ジェドが不満そうな顔をする。本当に、いったい何を考えているんだ。
「はははっ、“ナナシ”がこんなに面白い奴だとは知らなかったなあ」
 堪りかねた様にハンスが腹を押さえて笑った。面白い奴、だなんて、今までのジェドを知っている者ならば、とうてい口に出てこない言葉だ。もしかしたら戦いから離れた生活をここで送っているうちに、心が安らぎ少し角が取れたのだろうか。
「ところでジェド、お前、ハンスの村から出てどこへ行こうとしていたんだ?」
 疑問を口にすると、ジェドが何を分かりきったことを、といった顔をする。
「そんなもの、フィードニア軍へ戻ろうとしていたに決まっているだろう。他にどこに行く所があるんだ」
「けど、ここから向かえるのはベスカやバレイだろう、フィードニア軍がベスカへ進軍していることを、どうしてここに居たお前が知っているんだ」
「途中経過はハンスから聞いていたからな。軍力や各国の勢力図を考えれば、戦場が東に移っている予測くらい立つ」
 あっさりと言うジェドに、ユリアは力が抜けていくのを感じた。では独りで勝手に焦っていたということか。
「なんだ……私はてっきり、お前はどこか知らぬ所へ行ってしまうつもりかと……」
「何故だ、お前の元に必ず戻ると言っただろう」
「それは、そうだが……けど、殺される為に私の元に戻ってくるなど、とても本気とは思えないだろう」
 その言葉にジェドは苦笑する。
「なんだ、俺のことを信用していないのは、お前の方ではないか」
 そう言われてしまうと返す言葉も無い。言葉に詰まっていると、ジェドがユリアの頭をくしゃりと撫でた。
「戯言であんなことを言うか。お前にやった命だから、他の誰にもやる訳にはいかなかった。だから生き延びることが出来たのだ。お前のお陰で、俺は今ここに居る」
「ジェド―――……って、ちょっと待て、だから人前だって……」
 腰に回された手を押し留めようとすると、ジェドは肩を竦めた。
「二人なら先に村へ戻ったぞ」
「えっ」
 辺りを見回すと、確かに二人の姿は既に無かった。
「気を利かせたらしいな。―――人前で無ければいいのだろう?」
 ジェドがそう、にやりと笑った。あの二人、なんて余計な気を回すんだ。
 抵抗する間も無く腕が掴まれ、ぐいっと引き寄せられた。強く抱きしめられて、身動きが取れなくなる。
「ジェ、ジェド―――いや、でも……」
 急に恥ずかしくなって、どうしたらいいのか分からなくなる。もがいてみても、今度は逃げることが出来なかった。
「じっとしていろ、ユリア。やっとお前を手に入れたんだ、実感くらいさせろ」
 耳元でジェドが囁く。
 やっと。ああ、そうだな。それはユリアにとっても同じ想いだった。あのリョカ村での日々と同じように、素直にジェドと向き合うのは実に十数年ぶりなのだ。会えなかった十年間。意地を張っていた数年間。その年月を経て、やっと今私は私のジェドに出会えたのだ。
 ユリアはそっとジェドの背中を抱きしめた。広い背中だ。少年の頃とは全く違うんだなと、当たり前だけど実感した。
 ジェドがユリアの顎に手をかけ、上を向かせた。体が少し仰け反り、ぐらつかぬように彼の肩にしがみ付く。今まで何度か口づけを交わしたことはあるが、眩暈がしそうな程、こんなに幸福を感じたのは初めてだった。
 ―――想いが通じ合うというのは、こんなにも幸せなことなのか。胸の奥底から喜びが広がり、体中を満たしていく。ジェドが傍にいるのなら、これから先どんな辛いことがあっても耐えていける。彼の体温を感じながら、ユリアはそう思った。


「あーあ、これで皆失恋だなぁ」
 村へ戻る途中の道で、フランクは大きく伸びをしながらそう呟いた。
「フィードニア軍には、ユリア様に密かに想いを寄せてる男が多いんだ。まあ、実を言うと俺もその内の一人だけどさ」
 鼻の頭を掻きながら言うフランクに、ハンスはきょとんとした目を向ける。
「そうは言っても相手はフィルラーンだろう、はなから相手になる訳でもねえのに」
「そうだけどさ、想うだけなら勝手だろう。お前は戦場での凛々しくて美しいあの人を知らないからそんな風に言えるんだよ。誰だって恋しちゃうよ、理屈じゃ無いだろ、そういうのはさ」
 不貞腐れたように言うフランクに、ハンスは分かったのか分からないのか、「ふーん」と曖昧な返答をする。
「まあ、確かに今まで見たことも無いような綺麗な人だけども、俺は殆ど泥だらけの姿しか見てねえからなあ。フィルラーンつってもその辺の娘っ子とあんまり変わらねえなって思ったけどなあ」
「何言ってるんだ、全然違うだろ」
 あの神々しさが、その辺の娘に出せるものか。ハンスの言葉に腹を立てたが、けれど直ぐに肩を落とす。
「それでもまあ、ユリア様がジェド殿を想っていることは、この一年の間に嫌と言うほど分かったからな……生きていてくれて本当に良かった。それは本当にそう思うんだ」
「そうか」
 慰めか、ハンスがフランクの肩をぽんぽんと叩く。
「それにしても“ナナシ”は凄えなあ、あんな大きいグルをたった一撃で倒すんだからな。只者じゃねえとは思ってたけど、そうか、フィードニアの総指揮官様か」
 それなら納得だな、とハンスは何度も頷く。自分達の上官を褒められれば素直に嬉しい。ユリア様が言った通り、みんな彼を尊敬しているし、好きなのだ。落ち込みはするが、それでも二人を祝福もしている。他の奴らもきっとそれは同じだろう。
「けどなあ、水を挿すようだけども……幾らフィードニアの英雄でも、聖女様と実際に結ばれる訳ではねえよなあ。ほら、フィルラーンってのは、清らかな身でなければいけねえんだろう」
「ああ、まあそうだな」
 想い合っていても、深い中になれる訳ではない。どれだけ愛していても、夫婦になることも子供を生すことも無いのだ。フィルラーンは国の宝だ、神の子なのだ。下俗しようなど、そう簡単に出来る事ではない。
「―――けど、ジェド殿だったら……」
「ジェドが何だって?」
 後ろから声を掛けられ、フランクは飛び上がりそうな程に驚いた。振り返るとジェドとユリアがそこに居た。いつの間にか追いつかれていたようだ。
「あ、いえ、何でもありません」
 きょとんとしているユリアの表情からすると、今の会話を聞かれたわけでは無いようだ。ほっと胸を撫で下ろし、フランクは作り笑いをして誤魔化した。聖女である彼女には、とても聞かせられる話ではない。
「おい、お前、フランクとか言ったか。麓まで送っていくから、そこから先はお前がユリアを城まで連れて行け」
「あ、はい。それは勿論、そのつもりですが……けど、ジェド殿はどこへ」
 思わず問うと、うんざりといった風に冷たい目で見下ろされた。
「フィードニア軍に合流するに決まっているだろう、何度も言わせるな。フィードニアも今の所優勢に攻めているようだが、ティヴァナはそう簡単に倒せる相手ではないからな」
 どうやらユリアと同じようなやり取りを既にしたらしい。気を利かせて二人から離れたというのに、話を聞いていないと睨まれる。些か理不尽さを感じはしたが、ジェドがフィードニア軍へ戻るつもりのようで一先ずほっとした。この一年もの間行方不明だっただけに、今目の前に居ることが未だ信じられず、再びどこかへ消えてしまいそうで不安だったのだ。だが、英雄は再び我々の元へ戻って来たのだ。
「は、分かりました。私が責任を持ってユリア様を城まで送り届けます。ジェド殿、フィードニアを宜しくお願い致します」
 敬礼すると、ジェドが頷いた。今まではこの男の前に立つと、まるで獰猛な獣を前にしているかのような恐れを感じたものだったが、今はどことなくそれが和らいでいるように思えた。それはあの聖女のお陰なのだろうか。
 ――――ジェド殿だったら。
 先程ハンスに言いかけた言葉を、頭の中で繰り返す。
(ジェド殿なら……この男なら、国からフィルラーンを奪ってみせるなんて夢みたいなことを、やってのけそうな気がするんだよな……)
 そうなれば良い。悔しいけど、フィードニアの皆が望んでいるのは、そんな結末の夢物語だろう。それでこそ、巷で語られる英雄と聖女のサーガは完結を迎えるのだ。
「はあ…それにしても、またあの道を戻るのか……」
 表情を暗くするユリアの肩を、ジェドが抱き寄せた。
「なんだ、怖いのか。何なら俺がずっと抱えていってやるぞ」
 真顔で言うジェドに、ユリアが顔を赤くする。
「なっ何を言ってるんだ、もう。子供じゃないんだから、そんなことして貰わなくとも帰れるよ」
 照れるユリアがなんとも可愛らしい。ほんと、凄く悔しいんだけどね。
 溜息を一つ吐き鼻を擦ると、「よしっ」と気合を入れて、フランクは皆と共に歩き出した。












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