178: 山道2





 そこから先は、楽な道など無かったといっていい。いや、はたしてこれを道と言っていいのか疑問ですらある。道筋というものなど殆ど見当たらない。木や草を掻き分け、岩を登り、橋のかかっていない川を、腰まで水に浸かりながら進んでいく。
ハンス曰く、年に数度しか通らぬ為、多少整えたところで次に通る時にはもう草木が蔓延り痕跡が消えてしまうのだそうだ。故に整えることを諦めた末がこの荒れ果てた道なき道という訳だ。
 ブーツも服も汚れるだけ汚れ、既にぼろぼろになっている。手は擦り傷だらけで、日に焼けて赤くなっている。この姿を見て、誰がフィルラーンだと思うだろうか。装飾品で身を飾り、神を騙って戦場へ出た己と比べると、なんという違いだろう。そう考えると、なんだか少し可笑しい気持ちになった。
 ああ、そうだ。今の自分はフィルラーンでも戦女神でも無い。ただジェドに会うために必死になっている、ただの一人の少女に過ぎぬのだ。そんなちっぽけな“己“でいることが、何だかとても自由だと感じた。
「聖女様、あともう少しで村に着きます。この先の道がちょっとあれですが、まあそれを超えりゃぁ着きますんで。あとひと踏ん張りです」
「そうか、やっと着くんだな」
 あと少しという言葉に安堵感が心を包んだが、「ちょっとあれ」な道が目の前に現れたとき、ユリアは再び顔色を失うことになる。
 そこは人の肩幅ほどしか無い道が、切り立った崖にへばりつく様に伸びていた。およそ100ヘルド(約120メートル)程の長さはあるだろうか。その間頼れるものは、所々に打ち付けられた杭に通してある一本の縄のみだ。やめておけばいいのに、下を覗き込んでしまい後悔した。随分高い。
「これ位の道幅があれば、足を踏み外すような心配もありませんから大丈夫ですよ、ユリア様」
「ああ、そうだな」
 頷いたものの、全く安心など出来ない。これが例えば膝丈くらいの高さならば歩くのに十分な幅だと思うだろうが、この高さを考えると急にとても狭く感じてしまう。だが他に道が無い以上、ここを進むしか無いのだ。ジェドに会うためだと思い、ユリアは心を奮い立たせる。
 縄梯子を登った時と同様に、ハンスが先に行き、ユリア、フランクが後に続いた。
 下を見ないようにと思うのだが、道も平坦ではなくでこぼこしている為、足元に注意しなければ躓いてしまう。ならばせめて足元だけに意識を集中しようと思うのだが、気を抜くと遥か下に広がる樹海が目に入り、何度も血の気が引く思いをした。しかもここもまた、嫌がらせのように風が強い。
「こりゃあ、拙いなあ。聖女様、ここ数日の間にこの辺りで小さな雪崩が起こったみたいです」
  半分くらい進んだ所で、ハンスが足を止めて己の足元を指し示す。そこはほんの一、二歩程度の幅ではあるが道が崩れて無くなっており、その先は逆に土砂が被さり盛り上がっている。通れぬ程の酷さではないが、更に崩れる危険性もなくはない。
「まあ、縄が埋まっちまわなくて良かったですわ。まずは俺が行ってみて具合を確かめてみますんで、あんた達は呼んだら来て下さい」
「けど、大丈夫なのか」
 もしも道が崩れたらと心配するユリアに、ハンスはひらひらと手を振り明るく言う。
「大丈夫です、ここら辺は岩盤がしっかりしてるんで、いきなり全部崩れ落ちちまったりはしねえですよ」
 そう言うやいなや、さっさと崩れ落ちた道を飛び越え向こう側に渡ると、積もった土砂を調べ始めた。土砂は約1.5ヘルド(約2メートル弱)程の間に、岩や石が混じったものが腰から膝下くらいの高さまで積もっている。ハンスはそれを少し弄ってみたが、彼の力でも素手で退かすのは困難なようだった。
 それから地盤を手で叩いてみたり、耳を当ててみたり、はたまた土砂を踏んづけてみたりしている。そんなことをしていて大丈夫なのかハラハラしたが、暫くしてこっちへ顔を向けると、手招きをした。
「まあ、こんなら大丈夫だと思います。この土砂はあとで村から農具持ってきて片付けるけども、今ちょこっと通る分には多分問題ねえです。ただ、滑らねえよう気をつけて下さい」
「ああ…分かった、が……」
 多分という部分が、いまいち不安である。だがここまで来て、これくらいの障害で引き返す訳にもいかない。
 しかしそうは思っても、いざここを渡ろうとするのには勇気がいった。崩れている距離はほんの僅かとはいえ、この遥か下を望むことの出来る亀裂の上を跨ぐのだと思うとぞっとする。
「ハンス、ユリア様に手を貸してやってくれ」
「あ、ああ」
 フランクに言われ、ハンスは急に顔を赤らめて己の服で手を拭い始める。ユリアも散々に汚れまくっており、今更気にする事など無いのだが、それが女性に対する礼儀だと思っているらしい。何かにつけ豪気なくせに、こんな小さなことを気にするハンスが少し可笑しくて、恐怖がいくらか和らいだ。
 ハンスが手を伸ばし、ユリアはその手に掴まった。思い切って飛び越えると、ハンスが腕を引っ張ってくれ無事向こう側に着地する。ほっと胸を撫で下ろしたが、まだ土砂の上を渡るという難所が待ち構えいるのだ、油断することは出来ない。
 土砂は万が一崩れた時の事を考え、一人づつ渡る事にした。手摺代わりの縄を握りしめながら、慎重に土砂の上を踏みしめる。足元の小さな石がひとつ、ころんと下へ落ちて行った時は、生きた心地がしなかった。
 それでもなんとか三人とも無事渡り終えることが出来た。この難所を乗り越えた後では、この肩幅程しかない細い道も、崩れ落ちる心配が無い分まだ幾らか容易に思える程だ。
 それが油断になったのかもしれない。そこから更に進み、この崖道も残りあと僅かとなった時、ユリアは突風に煽られ体をよろめかせた。踏ん張ろうと、とっさに動かした足の着地地点が、予想に反し窪んでいる。
「あ……っ!」
 がくりと体が崩れ落ちる。とっさに縄を掴んでいた手に力を入れようとしたが、滑り落ちる衝撃に指が耐え切れず、離してしまった。
「ユリア様……!」
 頭が真っ白になっていた。身体が宙に投げ出された瞬間は、まるで永遠かのように全てが止まって見えたが、実際はほんの一瞬のことだったらしい。フランクに腕を掴まれ、危うく崖下への転落は免れた。
「こりゃあ、いかん」
 慌ててハンスも駆け寄ってきて手を伸ばし、フランクと共にユリアを引き上げる。九死に一生を得たユリアだったが、流石に直ぐには立てずにその場に膝を付いた。
「あ、ああありがとう」
 歯の根が合わない。本当に死ぬかと思ったのだ。あと少しだというのに、このままジェドに会えずに死ぬかと思った。泣きそうになるのを必死で我慢する。
「大丈夫ですか、ユリア様」
 心配そうな顔をするフランクに、ユリアは何とか頷いた。大丈夫だ、こんな所で立ち止まるわけにはいかないんだ。あと少しで、ジェドに会えるのだから。
 フランクに手を貸して貰い、ユリアは何とか立ち上がった。震える足を摩って宥める。
 これくらい大丈夫、もう少しでジェドに会える。会えるんだ。
 許容を超えた恐怖に心が麻痺してしまったのか、それから先はもう恐れを感じることは無くなった。何も考えられない。ただ一心に、ユリアは前へ、前へと崖の細道を進んだ。

「ここまで来たら、あとはもう山を下るだけです。もう道も大したことねえですから、着いたようなもんです」
 崖道を抜けると、ハンスが振り返りそう笑顔を見せた。
 彼の言う通り、それからの下り道は、今までの苦労を思えば散歩をしているようなものだった。難なく下山し木々の間から集落が顔を覗かせた時は、安堵のあまりに涙が込み上げた。
「おおい、帰ったぞー!」
 村に着くと、ハンスが大きな声を上げる。遊んでいた子供達が、わらわらと集まってきた。
「お帰り、ハンス兄ちゃん!」
「お土産は?」
 皆にハンス兄ちゃんと呼ばれているが、それぞれの顔はハンスと似ていない。こんな小さな村なのだ、本当の兄弟ではなくとも、皆家族のようなものなのだろう。
 初めはハンスの帰りを喜んでいた子供達だったが、後ろに立つ見知らぬ二人の人物にきょとんとなった。ハンスの体に隠れ、けど好奇心だけは押さえきれずに顔だけ出してこちらを見ている子供もいる。
「誰、誰、ハンス兄ちゃん。この綺麗な女のひと誰?」
「ああ、お客さんだぁ。“ナナシ”の知り合いかもしれん人だ。“ナナシ”の奴、今何処にいる?」
「“ナナシ”の知ってる人なの? じゃあこの人も盗賊?」
 “盗賊”の意味を分かっているのかどうか、愛くるしい顔で一人が言い、他の子供達が「えー! そうなの?」と目を丸くする。
「この人はそうじゃねえよ。そんな事はいいから、“ナナシ”をここに連れて来てくれ」
「“ナナシ”、もういないよ。ちょっと前に出て行っちゃったよ」
 この子供達の中では一番年長そうな少年が、そう言った。
「え……っ」
 その言葉に、ユリアは思わず前に出る。
「出て行った? いつ?」
 ユリアの迫力に少年は少したじろいだが、
「えっと、朝方すぐだったから、もう半日くらい経つかな……。後ろの山に巣を作ってるグルを退治し終わったから、山に雪が降る前に出て行くって言って」
「そんな……」
 半日、たった数刻早くここに辿り着いていれば、ジェドに会えたのに。
「ハンス、私達が来た道以外に、この村から出る道があるのか」
 ここに来るまでにすれ違わなかったのだから、別の道があるのだろう。ハンスは頷くと、村の反対側を指差した。
「ああ、向こうの道から行くと、反対側に山を越える道がある。けど、そっちは獣が出たりして、俺らが通ってきた道より危ねえんだ」
「それでも、行かなくちゃ」
 早く追いかけなくては、ジェドを見失ってしまう。もう二度と会えなくなってしまう。
 そんな焦燥感に駆られ、引き止めるハンスの声も振り切り、ユリアは無我夢中で村から飛び出した。













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