179: 山道3





「ジェド、ジェドーー…!」
 数刻は前に村を出ているのだから、どれだけ叫んだ所でこの声がジェドに届く筈もないのだが、それでも名を呼ばずにはいられなかった。道は良いとは言えず、枝で服を引っ掛けたり、蔓延る木の根や草に何度も足を取られ転びながらも、それでもユリアは必死で駆けた。
 ユリア達が来た道とは逆の方向へ出て行ったということは、ジェドは旧トルバ国境線地帯での戦場に戻ろうとしている訳でも、フィードニアへ向かおうとしている訳でもないということだ。
 地理的にいえば、こっちの山を越えていけばベスカやバレイへ向かうことになるのだろう。確かに今フィードニア軍はベスカへ向け進軍しているが、この山奥の村にいたジェドがそれを知っている筈が無い。つまりは、フィードニア国王軍に戻るつもりでこの山を越えようとしているのでは無いということになる。
 だったら、ジェドはいったい何処へ行こうとしているのだろう。 
 向かうその先が王城でも戦場でもないということは、つまりはユリアの元に戻る意思も無いということではないのか。
「愛していると、言ったくせに……」
 知らず、口から零れ落ちた。胸中に、悲しみよりも寧ろ、怒りが沸きあがってくる。
 愛の言葉を一方的に告げ、こっちの返事は聞かずに勝手にどこかへ行ってしまうなんて、なんて身勝手な奴だろう。結局ジェドの「愛している」という言葉など、その程度のものだったのだ。
 この一年間、自分の気持ちをちゃんと伝えていなかったことを、何度悔やんだことだろう。ジェドに会いたいと、何度願ったことだろう。狂おしい月日をジェドを想いながら過ごしてきたというのに、けれどあの男はその間、きっとユリアのことなど思い出しもしなかったに違い無い。だから生存の連絡を寄越そうとさえしなかったのだ。
 なんて勝手な男なんだ。なんて嫌な奴なんだ。気まぐれに人の心を弄んで、あとは知ったことではないという訳か。再び会ったら一体どういうつもりなのか問い詰めてやるぞ。いいや、それだけでは気が済まない、一発殴ってやる。そうだ、絶対にこの手で殴ってやるからな……!
「ユリア様……!」
 己を呼ぶ声に我に返り、後ろを振り向くと、フランクとハンスが追いかけてきていた。
「ユリア様、戻りましょう。こっちの道は獣が出るので危険なのだそうです」
 フランクの言葉に、ユリアは首を横に振る。
「ここで戻ったら、もうジェドに追いつけなくなる。どこかへ行ってしまう。今、追いかけなくては駄目なんだ」
「気持ちは分かりますが……けれど行くなら行くで、食料を補充したり色々準備をしなければ」
「そうです、ここらにいるグルは“ナナシ”が退治してくれたみてえだから大丈夫だとは思うけども、他にも人を襲う奴がいねえ訳ではねえんで。獣避けの薬草焚いたりとかした方がいいです。きちんと準備さえすれば、越えられねえ山じゃあねえですから」
 無我夢中で飛び出したが、冷静に考えると一人で山を越えられるとも思えない。二人に再び協力して貰わねばならぬのだ。このまま闇雲に突っ走っては、二人まで危険に晒すことになってしまう。
「………そうか、分かった」
 少しでも早く追いかけたかったが、ここは一旦村へ戻り、きちんと準備を整え再出発するべきだろう。
 頷いたユリアに、二人の男はほっとしたように笑みを見せる。
「大丈夫ですよ、“ナナシ”があのジェド殿なら、きっとどこに居ても目立つ筈です。こんな山奥なら兎も角、人の目が多い麓に下りればきっと直ぐに噂になります。後を追う事は難しくは無いですよ」
「そうだな。……うん、きっとそうだ」
 フランクの気遣いに心が少し軽くなる。大丈夫だ、きっとジェドは見つかる。必ずこの手に捕まえてみせる。
「では、戻って準備を整えよう。二人とも済まないな、私の我侭に再び付き合わせることになるが」
「俺は構わねえですよ。こっちの山を越えた方の町にも、そろそろ革細工売りに行こうと思ってた所なんで」
「私も問題ありません。身体を鍛えるのに丁度いい訓練になりますから」
 そう快諾してくれる二人の気持ちがありがたかった。本当に、彼らには頭が下がる。
 村に戻ろうときびすを返した時、ハンスが「ん?」と眉を顰めた。どうしたのか聞くと、人差し指を口に当て黙るように指示し、手振りでそのまま動くなと伝えてきた。
 静かな山林の空気を打ち破り、辺りの鳥が一斉に羽ばたいた。
「まずい、グルが近くにいます」
 今までに無く、切羽詰ったような顔でハンスが言う。
「けど、巣はジェドがやっつけたんじゃ……」
「巣からはぐれた奴がいたのかもしれねえです。村の近くまでグルが来るなんてめったに無えってのに、ついてねえ。あんた、早くここから離れて。村へ戻るんだ」
「それなら、皆も一緒に逃げよう」
 ユリアの言葉に、ハンスは首を横に振る。
「三人で逃げたって三人とも追いかけられるだけです。フランク、あんた剣は持ってるな」
 フランクは頷くと、背負った荷袋に差し込んである剣を抜き出した。ハンスは辺りを見回し、手頃な木の枝を取り上げるとその先にナイフを括りつける。
「まさか、戦うつもりなのか。遭遇したら命は無いって言われている程の獣なのだろう」
 そんな頼り無さげな武器で相手になるとは到底思えない。戦うというよりは、囮になるつもりなのは明白だ。
「そんでも、三人皆喰われちまうよりはマシでしょう。何より聖女様を死なせちまうわけにはいかねえ、早く行ってください」
「二人を置いて自分だけ逃げるなんて、そんな卑怯な真似が出来る筈が無いだろう」
 後先考えずに村を飛び出してきたのは、他でもないこのユリアだというのに、その自分が真っ先に逃げるだなんて、恥知らず以外の何ものでも無いではないか。
「早く、皆で逃げよう」
 その場に留まろうとする二人の腕を引っ張っていると、ふと視線の先に、遠くから草を掻き分け移動してくる大きな獣の姿が見えた。風を切るような、もの凄い速さでそれはこちらへ向かって突き進んでくる。
「ユリア様、お早く! このままでは逃げ切れなくなります!」
 剣を構え、フランクが視線だけこちらに向けて怒鳴ったが、もう既に遅かった。その巨大な物体は大きく跳躍し、ユリア達が立つ場所から僅か5ヘルド(約6メートル)の位置に着地した。
 これが、グルなのか。威嚇するように、のそりと前足を上げ立ち上がったその獣は、背丈は優に3ヘルド(約3.5メートル)はあるだろう。全身が黒い毛皮に覆われており、目は赤く血走っている。前足は太く、その先には鋭い爪がついている。それで薙ぎ倒されでもしたら、一瞬で深い傷を負うであろうことが容易に想像できた。
「やっぱりついてねえ、こんなでかいグルもそうはいねえってのに……」
 半ば諦めたように肩を落としハンスが呟いた。圧倒され、フランクが一歩後ずさる。
 グルは大きく咆哮を上げると、前足を下ろし前傾姿勢を取った。
「ユリア様、早く逃げて……!」
 フランクが声を限りに叫んだ。再びグルが跳躍する。5ヘルドの距離など、一瞬で無くなった。グルの爪がフランクを襲う。彼はとっさに木の陰に隠れその一撃を逃れたが、グルに突進されたその木は、代わりにめきめきと大きな音を立てて倒れた。ユリアの肩幅ほどはある木の幹が、簡単にへし折られてしまったのだ。その事実にぞっとする。
 衝撃で倒されたフランクの前に、グルがのそりと立ち塞がる。獲物を仕留めようと牙を剥くグルの背に、ハンスがナイフを突き刺した。傷は浅いが、突然の痛みに怒ったグルは、大きな咆哮を放ちハンスへ襲い掛かった。
「ハンス……!」
 フランクは駆けると、グルの後ろに回って飛び掛り、叩きつけるように剣を思い切り振り下ろした。それはグルの背を捕らえたが、しかし長剣でもってしても、グルに与えたものは軽症でしかなかった。それ程にグルの皮は分厚く、硬いのだ。
「くそ……!」
 フランクが舌打ちした。長剣を浴びせたことによりグルの怒りは更に増し、その場で暴れまわり始めた。辺りの木々がグルの突進により次々と薙ぎ倒されていく。圧倒的な力に、成す術も無い。
 ――――もう、駄目だ。
 皆の心を絶望感が支配する。
 ――――こんな獣、倒せる訳が無い。逃げることも出来ない。
 私が身勝手に村を飛び出したせいで、皆ここでグルに殺されてしまうのだ。私の、せいで。
「ジェド……」
 グルの爪が、フランクの肩を掠めた。倒れるフランクの元に、ユリアは思わず駆ける。
「フランク、大丈夫か」
 少し爪が掠めただけだというのに、その傷は深くえぐれている。血がどんどん溢れてくる。
「駄目です、ユリア様、早く逃げて下さい……!」
 獲物の血に引き寄せられるように、目を血走らせたグルが、顔をこちらに向けた。鼻息荒く身体を揺らすと、倒れた木々をひらりと飛び越える。
 ユリアはフランクを庇うように、その身体をぎゅっと抱きしめた。
 こんなところで、皆を巻き込んで、皆を死なせてしまうのか。
「ジェド…………助けて……」
 届く筈が無い。そんなことは百も承知だったが、それでもどこか神に祈るような気持ちでユリアは叫んだ。
「ジェド――――ジェド、助けて。皆を助けて、ジェド………!」
 グルが再び跳躍した。ユリアは死を覚悟して、目をきつく瞑る。
「――――――そのまま動くな、ユリア」
 頭上から降ってきた声に、ユリアは思わず顔を上げた。
 ――――――――――――え?
 その声は、ユリアがよく知る声だった。切実に今、聞きたいと願っていた声そのものだ。
 次の瞬間に、視界が真っ赤に染まった。豪快に噴出す血しぶきに遮られ、向こう側に立つ人物の顔がよく見えない。目の前にある大きな毛むくじゃらの塊が音を立てて倒れ、ユリアはやっとそれが首を切り落とされたグルであることに気付いた。
 いったい何が起こったのか、理解出来ない。どうして、グルが――――。
 グルの躯をひらりと乗り越え、黒い髪の男がユリアの前に立つ。
「動くなと言ったのに。顔を上げるから、お前の顔にグルの血がかかったぞ」
 伸ばされた手が、ユリアの頬に付いた血を拭った。
「ジェ……ド………?」
 声が上手く出ない。これが夢だったらどうしよう。もし夢であるのならば、二度と目覚めたくない。
「ああ―――――久しぶりだな、ユリア」
 口の端を吊り上げて笑うその男は、ユリアがこの一年もの間、ずっと捜し求めてきた男に間違いなかった。












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