17: 小さな獣
ライナスは酒を口にしながら、ジェドとこうしてゆっくりと話すことなど、どれ程ぶりだろうかと思った。 彼も軍議などには一応参加してはいるが、聞いているのかいないのか、席の隅で退屈そうにしているだけで、口を挟んで来ることなど殆ど無かった。 戦場では元より話す暇などある筈も無いが、そもそも彼一人別行動を取る事が多い。 こうして戦いが無く国に戻っている時期も、一緒に皆と飯を食べる事など皆無に等しく、訓練でさえ一人で行っているようだった。 ―――まあ、ジェドが訓練に参加した所で、彼に付いて行ける人間などいないのだが。 人に懐かない、野生の猛獣だと、初めて彼に会った時に思った。 凶暴で孤独、だが気高い獣だ。 下手に近づこうものなら、その鋭い牙を剥き出しにして襲いかかられる事だろう。 ライナスはずっと、彼に付かず離れずの間合いで付き合ってきた。 あれから十二年、自分の目の前で大人しく飯を喰っているジェドは、まだ自分に懐いた方か、とライナスは苦笑した。 にやりと笑うライナスに、ジェドが不快気に眉を顰める。 それもまた、ライナスには慣れたものだった。 『――――この、化け物が…!』 小さな獣に、そう吐き捨てた男達がいた。 野生の獣に手を出した、愚かな男達だ。 ライナスはいつの間にか、十二年前に思いを馳せていた。 遠く懐かしい、小さな少年の記憶を。 * ジェドという小さな少年が軍へ入隊して来た事は、兵士達の間に瞬く間に噂が広まった。 通常であれば国王軍へ入隊するなど、少なくとも四、五年は士官学校で学んだ後か、地方の領主の私兵として充分な武勲を立てねば叶わない事だった。 それを十一歳という年齢で、そのどちらでも無く軍へ抜擢されてやって来たのだ。 その上その理由が、凶暴な獣であるミューマを退治したという。これが噂にならない筈が無かった。 ライナス自身、そんな話は信じてなどいなかった。余りに荒唐無稽過ぎる話だと思っていたのだ。 やってきたジェド本人を見ても、どこからどう見ても普通の少年にしか見えなかった。 確かに腕は有りそうだが、冷めた目をした、生意気な糞餓鬼―――そんな程度だった。 一波乱あるだろう、と思っていた。そしてやはりジェドは入隊して早々、周囲の兵士達のやっかみの的になった。 あんな餓鬼が、ミューマなんぞ倒せる訳がない。 ジェドが数人の兵士達に連れ出されて行った事に、ライナスは気づいていたが、だが止めもしなかった。 ミューマの話が只の法螺でなければ、多勢に無勢とは言え、そう簡単にやられはしないだろうと思った。もし法螺だとしたら、さっさと軍から放り出すだけだ。 その場合、あまり酷い目に会う前に助け出すつもりではいたが、一発二発拳を受ける位は自業自得、社会勉強だろうと、ライナスは物陰から高みの見物を決め込んだ。 男達は六人いた。お決まり通りジェドを取り囲むと、「この大法螺吹きが、とっととこの軍から出て行け」「ここは餓鬼の遊び場じゃねえんだよ」などと口々に彼を罵り始めた。 屈強な男達に囲まれて、流石に怯えた顔でも見せるかと思ったが、少年は眉一つ動かさず、いつもの冷めた顔を崩さなかった。 可愛くない餓鬼だ、とライナスは苦笑したが、男達にはこの態度が癪に障ったようだった。 「おい餓鬼、この状況が分からねえみたいだな。だったら体で分からせてやる!」 一人がジェドに殴りかかった。 だが男の拳は空を切り、勢いを付けていた分、彼は少しバランスを崩した。 一瞬、男は何が起こったのか解らない顔をしたが、ジェドが自分の拳を避けたのだと気付いた瞬間、男は猛烈に怒り出した。 仲間から、何をやってるんだよと嘲笑が沸く。 男は憤怒し、再度ジェドに掴み掛ろうと手を伸ばす。 ジェドはその手を避けようと、ただ少し身じろぎした―――ようにライナスには見えたが、次の瞬間には男は地面に崩れ落ちていた。 「おい、何遊んでやがる」 何の冗談だと他の男が声を掛けるが、返答がない。 慌ててその男の体を揺すったが、やはり反応が無かったようだった。 それもその筈、気絶しているのだ。 「おい、こいつに何をした……?」 また別の男が怒り、ジェドに掴みかかった。 ジェドはまたゆらりと体を揺らす。 ―――今度はライナスにも確認出来た。ジェドは相手の腹へ、手刀を打ち込んだのだ。 その手刀は恐ろしく正確に急所へ打ち込まれており、ライナスは思わず感嘆した。 ただその動きは余りに率なく速過ぎて、男達には何故仲間が倒れているのか理解出来なかったようだった。 また別の男がジェドに殴りかかろうとし、やはり倒れた。 何か恐ろしい事が起こっている、と男達は理解したようだった。次第に彼らの顔面が、蒼白になって行く。 「なんだ、こいつ……!化け物か……!」 一人がパニックを起こした。 その男は剣を腰から抜き、ジェドへと襲いかかった。 (子供相手に剣を抜くとは、この腰抜け共め―――) ライナスは軽く舌打ちし、止めに入ろうと自身の腰の剣へ手を伸ばす。 だが次の瞬間、その男の首は飛んでいた。 ジェドが相手の手首に手刀を当て、剣を奪うと、返しざまに男の首を刎ねたのだ。 返り血さえ浴びぬその少年は、やはり表情一つ動かさない。 「ば……化け物だ……――――この、餓鬼。化け物だ……!」 残った男達は、恐怖に顔を引き攣らせると、一目散に逃げ帰って行く。 「―――この化け物が……! 必ず、軍から追い出してやるからな……!」 捨て台詞だけは立派なものだ、とライナスは思った。 あの男共は俺の軍にはいらんな、とも。 ライナスは一人立ち尽くす少年の元へ歩いて行った。 少年は無表情のまま、自分の右手をじっと見詰めていた。 ――――その手は、震えている。 「どうした。人を斬って怖くなったか」 少年はゆっくりとライナスを見た。 「―――何でもない。たまに、こうなるんだ」 暫くすると止まる、と他人事のようにジェドは言った。 「お前の腕は、中々の物だな。ミューマを殺したというのも本当か?」 「……だったら何だ。どうだっていい、そんな事」 「どうだっていい事あるか。それでお前はこの軍へ来たのだろう」 「俺の強さが知りたければ、俺に剣を向ければいい。 身を持って知った方が、解るだろう」 ―――――なんて生意気なガキだ。 ライナスは愉快になって、笑った。 「……何が可笑しい? 変な奴だな」 呟くジェドに、お前には言われたくない、とライナスは返した。 ジェドは話に飽きたのか、するりとライナスの横を通り抜け、兵舎へ戻って行く。 その背中へライナスは声を掛ける。 「―――おい、化け物なんて台詞、気にするなよ。 単に弱い男の捨て台詞だ」 「………別に、言われ慣れている」 ジェドは振り返りもせず、そう呟いた。 それから暫くの間、ジェドは兵士達にどこかへ連れ出されては、返り討ちにするという事を何度か繰り返していた。 ライナスも流石に途中から仲裁に入るようにしたが―――勿論、これ以上同軍の兵士を減らされてはかなわないからだが―――それが無くとも、次第に彼に手を出す者はいなくなった。 それと同時に、少年を見る兵士達の眼が怒りから畏怖、恐怖へと変わっていくのが、ありありと解った。 最終的にはジェドに声を掛ける人間はライナスしかいなくなったが、当の本人は全く意に介していないようだった。 ある日の事だ、ジェドがフィルラーンの塔を眺めながら、ポツリと呟いた。 「――――フィルラーンってのは、いつも塔に籠ってるんだな」 ジェドから話しかけてくる事は珍しく、ライナスは少しばかり驚かされた。 「………フィルラーンに会うには、どうしたらいいんだ?」 しかも、他人に興味を持つなどと。 「―――何だ、ナシス様に会いたいのか? だがそりゃ無理な相談だな、一介の兵士がおいそれとお会い出来る方じゃ無いぞ。フィルラーンは国の宝、ましてやナシス様はフィルラーンの中でも群を抜いて高い能力を授かっている方らしいからな。国王でさえ、先に使いを寄越してからお会いになるそうだぞ」 歳も同じ頃で、人より優れた才能を持つ者同士、気になるところでもあるのだろうか。 会いたいというのなら会わせてやりたいが、流石にそれはライナスの手に余る願いであった。 「フィルラーンに自由に会うには、国王より上でないといけないのか」 「…まあ、せめて一級将校以上になれば、清めの儀式の時にお傍に行く事は可能だがな」 「そうか」 ジェドは少し考えるように首をかしげた。まるで少年のような動作だと思い、いや元々少年なのだったと、ライナスは苦笑した。 「一級将校―――いや、いっそ総指揮官にでもなってみるか? お前ならなれるかもしれんぞ」 この少年の能力は未知数だ。言いながら、ライナスは本当にそれが実現可能な事のように思えた。 人に仕えられる性格では無い。逆に中隊長や大隊長として働く事の方が、彼には不可能だという気がしてならない。 「――――とはいえ、この国がそれまで残っていたらの話だけどな」 ライナスは顎を擦りながら城を見上げた。 ジェドがほんの少し、怪訝な表情をした。 「この国はもう長くは無い。周りの強国に囲まれ、今こうして存続している事の方が不思議な位なのだ。お前が出世するまでは、到底持ち堪えることが出来んだろうよ」 「――――それは、困る」 ジェドは遠くを眺めながら、独り言のように言った。 「……せめて十年はこの国が存続してくれないと……あいつの居場所が分からなくなる」 「あいつ? 誰だ?」 ライナスの問いに、ジェドは答えなかった。 代わりにライナスの剣を引き抜き、一振り振って見せる。 舞い落ちてきた葉が一枚、真っ二つに割れた。 「―――――それなら、俺があと十年この国を存続させてやる」 ジェドは明日の天気でも話しているかのような口調で、とんでもない事を口にした。 たった十一歳の少年が、何を言ってやがると普通なら思う所だ。 ――――だが、ライナスは何故かそれを笑う気にならなかった。 もしかしたら本当に、この少年がこの国の滅びゆく運命を変えるかも知れない。 そんな事を考える自分はどうかしていると思うが、それでも無性にこの少年に惹き付けられた。 この少年の瞳の所為だろうか。 無表情で冷めた眼だが、強い光を持っている、とライナスは思った。 「なら、俺はお前に賭けようじゃないか。 ―――今日から俺の補佐役になれ、ジェド。 お前がこの国を持ち堪えさせると言うなら、俺はお前を総指揮官へ押し上げてやろうではないか」 この国と共に自滅するなど御免だった。 他国へ亡命する事も考えていたライナスだったが、今その考えは捨てた。 この少年と、この国の行方を見届けたい―――そんな気分に、ライナスはなっていた。 ―――――それから十二年、国は存続どころか、他国を脅かす強国となっている。 そして化け物と兵士達に忌み嫌われた少年は、今やこの国の英雄だ。 民が最初にジェドを英雄と賞賛し始めた。 すると可笑しなもので、今まで散々ジェドを嫌っていた兵士達まで彼を英雄と呼ぶようになったのだった。 人の気持ちなど、簡単に他者に左右されやすいものなのだ。 「何が可笑しい、変な奴だ」 一人口の端を吊り上げるライナスに、ジェドが嫌そうに言った。 初めてジェドと口を交わした時も、同じ台詞を言われたなとライナスは思った。 「いえ、ちょっと昔を思い出していたものでね。 ―――あなたは全く、可愛げの無いクソガキでしたよ」 「ふん、つまらぬ事を……」 ジェドは器に入った酒を飲み干すと、席を立った。 「―――ジェド殿、今回入隊させた二人に、一度位は会っておいて下さいよ。今は中隊長に甘んじてますが、直ぐに頭角を現す男達です。 総指揮官が知らぬとあっては話になりませんからね」 「……気が向いたらな」 ジェドは金を置くと、さっさと店を出て行った。 少年の右手の震えはいつしか起こらなくなっていた。 だが、三年程前からまたそれが発症するようになった事を、ライナスは知っている。 それはラーネスで修行していたフィルラーンが、一年後には修業を終え、この地へ戻って来るとの知らせが城に届いた頃と重なる。 ――――だが、そんな事はライナスにとってはどうでもいい事だった。 これ以上の詮索など、無用の物だ。 ライナスは空になった酒器を持ち上げ、店の主人に追加を注文する。 今夜は少しばかり冷えるなと、ライナスは独りごちた。 |
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