121: 全軍撤退命令2 一刻経っても森へ行った斥候兵は戻ってこなかった。 「まだ戻って来ぬのですか、いったい何をぐずぐずしているのだ」 今直ぐにでもトルバへ攻撃をしかけたいマルクは、吐き捨てるように言った。この一刻の間、彼は何度となくハロルドの元へやってきては、こうやってがなり立てている。 落ち着けと言いたい所だったが、イライラとしているのは何もこの男だけではない、迫りくる敵軍をただこうして漫然と待っているだけしかない状況に、フィードニア兵士達の間に緊迫した雰囲気が立ち込めていた。この男一人を宥めてやったところで、焼け石に水というものであろう。 「これは、恐らく敵に捕まりましたな」 ハロルドの斜め横で簡易椅子に腰かけているフリーデルが、厳しい表情を作りながらそう言った。その向かい側に座るクリユスが、応じて頷く。 「そうですね、やはり森に敵の伏兵が潜んでいたのでしょう。ハロルド殿があそこで全軍を撤退させたのは、最良のご判断でした」 「では、もしやこのままグイザード軍が到着するまで、こうしてじっと待つおつもりですか」 信じられぬとばかりに、マルスは激昂した。 「森に伏兵がいる以上、やはり我々に残された退路は今確保しているこの道しかないのだ。ただ迫り来る敵を待つばかりというのは耐え難いであろうが、それでも皆には耐えてもらうしかない」 「しかし、トルバだけでも既に我らの軍より数が勝っているのです、この上グイザード軍が加われば、どれ程劣勢となるかは考えるまでも無いことではありませんか。それをわざわざこちらから待ってやるなど、愚の骨頂としか思えませぬ。そのようなこと……!」 「まあ待て」 尚も言い募ろうとするマルクを手で制し、ハロルドはきっぱりと言う。 「確かにお前の言い分は解かる、俺だとてこんな所でぐずぐずとしているよりも戦いたいのだ。だがいいか、これは命令だ。グイザード軍が到着するまで、全軍ここで待機していろ。勝手な行動は軍令違反で処罰する、そのつもりでいろ」 これには流石にマルクも黙るしかない。不満を顔に貼り付けたまま、けれども大人しく持ち場へと戻って行った。 とはいえ、ただ敵の脅威をじっと待つばかりの時間というのは、想像以上に辛いものだった。 たまに攻撃をしかけて来るトルバ軍の存在もやっかいだった。こちらが反撃に出るとさっと立ち去ってしまい、そしてまた暫くすると再び攻撃してきて、同じく風のように立ち去るという行為を繰り返してくるのだ。 トルバの陣営まで誘いこもうとしているのか、それともこちらの神経を逆なでし、疲弊を煽っているのか。後者なのだとしたら、その狙いは上手くいっている。兵士達の疲弊は目に見えて分かる程になっていた。 しかもこれが向こうの手だと分かっていても、警戒を解くわけにも、攻撃を無視しやりすごす事も出来なかった。そんな事をしたら、その隙を付きそのまま攻め込まれることは明白だからだ。 故にこうして、本気で攻めてくる訳では無いと分かっている攻撃に一々動かされながら、ただ神経をすり減らしならがじっと耐えているしかないのだった。 「やられましたね……」 クリユスが冷静な口調で呟いた。 「どういうことだ」 ハロルドが顔を上げると、クリユスは眉間に皺を寄せた。 「トルバらしいやり方です。我々があのまま攻撃をしかけていれば、トルバは我々をグイザードと挟み撃ちにすることが出来ました。しかしこちらがその思惑に気付き撤退しても、こうして兵士を疲弊させたところをグイザードという援軍を得て戦う事が出来る。どちらに転んでも、トルバにとって優位になるのです」 「我々が撤退することも、初めから見越していたということか」 「恐らくそうでしょう。ライナス殿を罠に嵌めた時もそうでした、彼がエルダという女性を助けに行かなかったとしても、密通者として彼の名を貶め、軍内の疑心と分裂を誘うことになりました。こちらに二択を与え、けれどそのどちらもがトルバに優位に働く結果になる。トルバはそういう戦いをするということでしょう」 「く……」 トルバの策を 「どうなってもフィードニアに不利となるならば、こんな所で鬱々としているよりもいっそ、マルクの言う通りトルバ軍と戦った方がましやもしれぬな」 ハロルドが些か投げやりな言葉を吐くと、クリユスが首を横に振った。 「落ち着いて下さいハロルド殿、それでもやはり貴方の決断は正しかったのです。退路を失えば我が軍は勝利する以外の道を失います。残された道にあるものは全滅のみ、ここまできて、そのような賭けをする訳には参りません。ここはじっと我慢するしかないのです」 「……そうだな」 ハロルドは小さく息を吐く。 この戦いに必ず勝利する、そう心に誓ってはいるものの、全軍の命を賭してまで強行策に出る訳にはいかない。 クリユスの言う通り、ここは我慢しトルバの圧力に耐えるしかないのだ。そうは思うのだが、心のどこかで何かすっきりしないものがあった。 こんな時、ジェドだったらどうしただろうか。 ハロルドはケヴェル神とまで揶揄される彼の姿を思い浮かべた。 彼ならばあの時、全軍撤退などさせなかったのではないだろうか。負けた時のことを考え逃げ道を確保する為の撤退など、あの男は一切考えぬのではないか。 それは確信にも似た思いでハロルドを襲う。 そんな無謀としか思えぬ戦いを、己には取ることが出来ない。それこそがこの卑小な己と、あの男との力量の違いのような気がした。 それから更に数刻の後、フィードニア軍の左方向にグイザード軍が現れた。 ざっと見た所その数四万余りといった所だろうか。 フィードニア軍が、国王軍と領兵軍を合わせ現在六万弱。上方に陣を構えるトルバ軍はおよそ八万である。これで敵軍は約二倍となった訳だが、それでもこの数刻の間のようにただじっとしているよりも数倍はましだと、ハロルドは思った。 ただし、彼と同じように思う者はそう多くは無いようである。敵を前にしているというのに、兵士達の間には覇気というものが些か欠けているようだった。 まあそれも仕方のないことではあるが。精神的に疲労しているうえ、今まで彼らの覇気を上げていた二人の存在が、今ここにいないのだから。 「ハロルド殿」 どうするのだ、と問いたげな目をクリユスが向けて来る。 分かっている、と頷いて返し、彼は兵士達の前に出た。 「皆、思い出すのだ」 ハロルドは大きく息を吸い込むと、立ち並ぶ兵士達に向かい叫んだ。 「たった二個中隊でカベルへ向かった総指揮官殿は、必ずカベルとスリアナを下し我等の元へ駆け付けるだろう、その時彼に、我等はこれしきの兵力差くらいで尻込みしていたなどと話せるのか」 兵士達を見回し、彼は更に続ける。 「そして我らが戦女神は今、我等の為に遠きティヴァナの地へ赴いている。彼女はその遠き地にありながらも、きっと我等の為に祈りを捧げて下されていよう。それに恥じぬ戦いを見せずしてなんとするのだ!」 わあ、と歓声が上がった。 その通りだ、と同調する声が沸き起こる。 ハロルドはその声に答えるように天に向かい剣を突き上げた。 「我々は今からグイザード軍を攻撃する。恐らくグイザードは我々をトルバの陣営へ追いやろうと圧力をかけてくるであろうが、なんとしてもこの場を離れず死守するのだ。そして逆に、トルバをこの場へ引き摺り出せ……!」 「は!」 兵士達は鬨の声を上げる。彼らの目に、再び気力が戻っていた。 二人の神人の名を出さねば兵士達を動かす事が出来ぬ己が口惜しくはあったが、今はそれでも構わなかった。 兎に角この場を勝利で収める、己の名は、その後に付いてくればいいのだ。 フィードニア軍はグイザード軍へ向かい総攻撃をかけた。 これ以上相手の手口に翻弄されて堪るものか。トルバが小賢しい策をいくら弄そうとも、我らはには我らの戦いがある。 ハロルドは己にそう言い聞かせ、心の内にある僅かな迷いを掻き消した。 |
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