117: 新体制始動





 ラオの巨体が、ゆっくりと上下に揺れる。
「ご、ごじゅう……にいぃぃ」
 苦しげに発せられたその声を最後に、ラオが腰掛けていたモノ(・・)が地面に崩れ落ちた。
「おいおい、情けねえな。これでお仕舞いかよ」
 尻の下に向かって話しかけると、ラオの下敷きになっているアレクが不満気な声を出した。
「じょっ冗、談。あんた自分がどんだけ重いか知ってんのかよ! この巨岩を背中に乗っけて五十二回も腕立て伏せをしたこの俺を、寧ろ褒めやがれ!」
「俺だったらこれくらい、百回は軽く出来るぜ」
 当然のように言うラオに、アレクは嫌そうな顔をする。
「ちっ…筋肉達磨と一緒にするなよ。いいから、どけよ。重いんだよくそ!」
 アレクはラオの体を腕で押しのけ這い出ると、その場にごろんと転がった。
 まあ、確かに最初は十回にも満たない程度しか出来なかったのだ。それに比べれば、進歩したというものか。
 ラオはアレクがジェドに弟子入りしてからの、この二ヶ月余りをしみじみと思い出す。
 ジェドの指導は正直ラオの目から見てでさえ、常軌を逸していた。通常の訓練でさえ理由を見付けてはサボっていた男が、よくも逃げずに堪えているものだ。
 相変わらず常にへらへらとしている男だが、ロランの死にユーグの裏切りと続いたあの事件が、その実それだけこたえているということなのだろう。
「おい、そろそろ起きろ。まだジェド殿に言いつけられた基礎訓練の、半分もこなしてないぞ」
「ああ、くそ! 毎日毎日筋肉作りだの体力作りだの、ホント嫌になるぜ。なあ、たまには少しくらいサボってもばれないんじゃないかな。この後更にジェド殿のしごきが待ってんだぜ、体力温存しておかなきゃ死んじゃうよ」
「何言ってるんだ、サボったのがばれたらそれこそジェド殿に殺されるぞ」
「ジェド殿だって千里眼じゃないんだからさ、ちょっとくらいサボったってばれる筈が……うわわっ!」
 奇声と共に、アレクは慌てて立ち上がる。遠くから駆けてくる馬の蹄の音に、ジェドがやってきたのかと勘違いし焦ったようだが、その馬はラオの部下、アルマンのものである。
 ラオが手を上げると、馬はこちらに向かって進路を変えた。
「ラオ隊長、探しましたよ。ティヴァナ国から同盟の証書を持ってバルドゥル殿が戻られました。軍会議が開かれますので、至急お戻りを」
「やったあ!」
 アレクがぱちんと指を弾き歓声を上げたが、これは同盟の締結を喜んでいる訳ではない。今日の訓練はこれで無くなると喜んでいるのだ。だが、そんな甘いものではない。
「お前は軍会議に出ないだろうが、俺がいなくても一人で続きをやっておけよ」
「はいはい、それは勿論」
 絶対にやらないなと、清々しげな顔のアレクを見てラオは思った。どうなっても知らないからな、一応俺は忠告したぞ。
 ジェドの恐ろしさを、まだアレクは分かっていないのだ。軍会議が終わりジェドに捕まった後、アレクに降りかかる不幸を思い、ラオは深く同情した。


 軍議室には既に上級将校の面々が勢揃いしていた。
「これで皆揃ったな」
 ふた月前にフィードニア国王軍副総指揮官に就任したばかりのハロルドが、最奥の上座からラオの顔を認めると、早く席に着くよう促した。
 本来そこに座る筈の総指揮官であるジェドは、相変わらず関心なさげに窓際に坐している。
「厳密には皆ではありません。クリユス殿が戻っておりませぬ故」
 フリーデルがいつものごとく生真面目に返す。
「そうだな、クリユスには新たに編成した弓騎馬大隊長として皆を纏めて貰わねばならん。早々に戻って貰わねば困るのだが」
 眉間に皺を寄せるハロルドに、ラオは心配ないとばかりに軽く手を振る。
「あいつの事だから多分どっかでこの同盟の締結を聞きつけていますよ。そろそろ戻ってくるんじゃないですかね」
 どっかで、というより、クリユスがティヴァナの王城で中心となってこの同盟を進めているであろうことを、ラオは知っている。無論口には出せないが、恐らく二、三日の間には戻ってくるだろう。
 ユリアは我々の裏切りを知っただろうか。憤怒するユリアの姿が容易に想像出来て、ラオは思わず苦笑する。クリユスが必要以上に悪役を演じていなければいいが。
 実のところ、ラオ自身は更にティヴァナをも裏切っている。
 隣国との小競り合い程度の戦いしかなかった当時のティヴァナ国王軍よりも、各国を偵察して回った方が楽しそうだからクリユスにくっついて旅に出ただけだったが、行き着いたこのフィードニア国でジェドと出会い、彼に心の底から心酔した。
 己が付いていくべき者は、この男を除いて他にはありえない。故にラオは故国を捨てフィードニアに骨を埋める決意をしたのだ。
 それ故にいずれティヴァナと戦う事になるかもしれないことも、恐らくクリユスと袂を別つ時が来ることも、覚悟している。共に自分にとって大切なものだったが、だが躊躇するということは一切無かった。そうまで惚れ込める相手に出会えた自分は、なんと幸運だっただろうか。
 そしてそのジェドを、クリユスは国王軍から排斥しようとしているのだ。
 ラオは軍議室に集っている面々を見渡した。そうなったとき、ジェドに味方する者はいったいどれくらいいるのだろうか。
 副総指揮官ハロルドは、辺境の国境警備隊から抜擢されここまで出世することが出来た恩が、クリユスにある。尚且つジェドが失脚すればハロルドが総指揮官の座につくことも夢ではないのだ。出世欲の強い男である、その時は間違いなくクリユスに付くだろう。
 歩兵大隊長ブノワはドゥーガル失脚の一件以来、クリユスを高く評価しており好意的である。
 それに元々古参の尊貴派である。ジェドの実力は認めているものの、平民出身でしかない彼に対する忠誠心は、そう高くはないだろう。クリユスならばいざという時、彼を味方に付けることは容易い筈だ。
 あとは騎馬隊大隊長フリーデル。どう丸め込んだのかこの男もやはりドゥーガル失脚の一件以降、何かとクリユスに対して協力的な態度を取っている。
 つまりは国王軍の要である男達は、ことごとくクリユスの手中にあるという事だ。
 だがそれに対し、ジェドの味方に付くものは恐らく少ないだろう。
「こりゃ、参ったな」
 ラオは片手で己の頭をがしがしと掻き回す。全く、あいつを敵に回すのは骨の折れる仕事だ。
「なんだ?」
 ラオの呟きに、隣に座るフリーデルが怪訝な顔をする。口に出したつもりは無かったが、知らず口から出ていたらしい。
「いや、なんでもありません」
「なら軍議に集中しろ、戦いが始まってから作戦を聞いていなかったでは済まされんぞ」
「は、申し訳ありません」
 素直に詫びると、ラオは軍議に耳を傾けた。いつの間にか話は今後の連合国との戦いに向けた戦略について論じられている。
 そうだ、まずは連合国との戦いに勝利せねばならない。フリーデルの言う通り、今はこの戦いにだけ集中するべき時だ。
 ジェドと共に剣を取り、馬を並べ戦うことを想像すると、それだけで胸が躍った。
 早く戦場へ出たい。軍議に耳を傾けながらも、ラオの心は既に戦場の中にあった。






 それからきっちり三日後、クリユスはフィードニアへ何食わぬ顔で戻ってきた。
「私はこのふた月、ベスカ国からトルバ国へ渡り連合各国の状況を偵察して参りましたが、どうやら例のトルバ国王軍総指揮官変死の一件以来、一旦は強固になった連合も揺らぎつつあるようです」
 クリユスが帰国し正式にフィードニア国王軍弓騎馬大隊長に任命された後、改めて開かれた軍議の場で、クリユスは皆を見渡しそう告げた。
 連合国偵察は表向きの理由であり、実際クリユスはティヴァナにいたのである。これらの情報は、恐らくティヴァナが既に得ていたものを持ち帰ったのだろう。
 例の件というのは、トルバの罠に嵌り殺され、更には広場処刑台の上に晒されたライナスの首の横に、数日後には何者かの手によりトルバ国王軍総指揮官であるアイヴァンの首までもが晒されていたという事件の事である。
 警備の強固なトルバ王城の国王軍兵舎へ、誰に見られることも無く、何の痕跡も無く忍び込み、更には剣の腕に関しては間違いなくトルバ随一であったアイヴァンの首をあっさりと取ることなど、人外の力が働いたとしか思えない。また、広場脇に住む靴屋の男が、当日夕刻に死の神を見たと口にしていることも合わせ、トルバは神の怒りを買ったのだと民の間で噂されているとか。
「その噂は連合各国にも知れ渡り、今やトルバが買った神の怒りに巻き添えを喰う事を恐れ、連合から外れようとする国も出ているのです。その筆頭が、カベル国です」
 ふうむ、とハロルドが考え込むように顎に手をやり、そして目を光らせた。
「コルヴァス国から東の国々の援軍は、ティヴァナが抑えると言ったな、バルドゥル」
「は、そのように約定致しました。ティヴァナ周辺の国々はティヴァナとの戦いが本格化すれば、必然的にこちらへ援軍を寄越す余裕など無くなります。万一寄越したとしても、ティヴァナも援軍を送りそれを防いでくれる手筈です」
「ならば直ちにカベルを攻め降伏を促す。カベルが動かぬのなら、トルバ、グイザードの援軍さえ押さえてしまえばスリアナはもう黙するしか無くなる」
 ハロルドは広げたハイルド東大陸図の上に置かれた、軍隊に見立てた駒を動かしながらそう指示する。
「するとカベルへ向かう軍と、トルバの援軍を抑える軍、フィードニアは両軍に分かれることになりますな」
「ああ、だがカベルの方にあまり時間をかけている暇はない。スリアナとトルバ本軍が出てくる前に何としても降伏させるのだ、まずは大軍をもってカベルに向かう」
「――――その必要は無い」
 思いがけぬその声に、皆が窓際に座るジェドへ顔を向けた。
 注視の中ジェドは立ち上がりハロルドの横に立つと、地図上のカナル国の部分に置かれた駒の一つを取り上げる。
「カナルへは俺が行く。連れて行くのは第三と第四騎馬中隊だけでいい。後は皆、トルバ本国を攻めろ」
「たった二個中隊でカベルを降伏させると? そんな、馬鹿な」
 その部屋は驚愕でざわめいたが、ジェドは既にもう興味を失ったとばかりに再び窓際に座り込む。
 ジェドの行動には慣れたつもりだったが、未だにこうも驚かされるとは。本当に無茶苦茶な事を考える男だ。
 ラオは苦笑しながらも、しかしその無茶に付き合わされることに喜びを感じてもいた。一体、どうやってたった二個中隊でカベルを降伏させるつもりなのか、早く知りたくてならなかった。
「俺は構いませんよ、ジェド殿に従います」
 ラオは立ち上がるとハロルドにそう告げた。第四騎馬中隊長ヴェルナーに顔を向けると、彼は引き攣った顔ではあるがジェドには逆らえぬと判断したのだろう、不承不承といった体で頷く。
 楽しくなってきた。そう思う反面、最近ジェドに何か心境の変化でもあったのだろうかと、ラオは一人首を傾げる。
 アレクを鍛えてみたり、軍議に口を挟んでみたり、全てにおいて関心なさげだった今までのジェドであったら、とても考えられない行為である。何故急に、やる気を出したのか。
 さっさと戦いを終わらせたがっているのだろうか。
 何を見ているのか、窓の外をぼんやりと眺めているジェドの横顔を見ながら、ラオはそんな風に思った。













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