105: ティヴァナへ5





 何故、ジェドがここに。

 船上に突然現れたジェドを、ユリアは信じられない思いで見詰めた。
 白昼夢でも見ているとしか思えない。ジェドは今、王都にいる筈なのだから。
「おい、邪魔だ。下がっていろ」
 ジェドは馬から降りると、ユリアを一瞥し、甲板の隅を指し示した。
 お前が何故ここにいるのだと問い質したかったが、声が出なかった。もしかして、助けに来てくれたのだろうかと微かに胸が躍ったが、直ぐにそんな訳がないと思い直す。
 国王軍総指揮官として、内通者であるユーグを捕らえに来たというのが、恐らく正しい答えなのだろう。
「ユリア様、こちらへ」
 船室へ続く扉の前にユーグが立っているため、船内へ逃げ込むのは諦め、バルドゥルはユリアを甲板の隅へ連れて行く。
 ユーグの視線は、既にユリアの姿など追ってはいなかった。突然空から降って来たジェドに、興味津々な目を向けている。
「ふうん、丁度良い。一度あんたと戦ってみたかったのさ」
 舌をぺろりとだして愉快気に笑うと、剣先をジェドへと向ける。そんなユーグに、ジェドはふん、と鼻をならした。
「そうか、お前は余程死にたいらしい」
 俺との戦いを望むということは、そういうことだ。ジェドの目がそう言っていた。
「……その傲慢な態度、気に入らないなあ。あんた本当に自分をケヴェル神だとでも思ってる訳? だとしたらとんだ勘違いだよ」
 気分を害されたというように、ユーグは眉間に皺を寄せる。
 そして左手でくるくると弄んでいた小剣を、ジェド目掛けて投げつけた。
「ジェド!」
 とっさに叫んだユリアの方をちらりと見たあと、ジェドは軽く小剣をかわし、更に襲いかかるユーグの剣をも難なく弾き返した。
 そして続けざまに、今度はジェドの方からユーグに斬りかかる。
「おっと」
 ジェドの剣を受け止めると、慌ててユーグは一歩距離を置いた。
「危ない、危ない。やっぱり速いな、あんた」
 そういうユーグの口調は、どこか楽しそうだった。

「凄いな……」
 ジェドの剣を何度となく弾き返してみせ、また果敢に攻撃も仕掛けて行くユーグの姿に、ぽつりとクリユスが呟く。
「ジェド殿とこれ程までに渡り合っている者など、初めて見た」
 剣技のことなどユリアには分からないが、それでもこの二人の戦いが常人ならざるものなのだということ位は、彼女にも分かった。
 二人が繰り出す剣は、速く、激しい。
 ユーグという男は、それ程に強いというのか。ジェドと対等に剣を使える程に?
 ユリアは思わず、彼女を背に庇いながらじっと二人の戦いを見詰めているクリユスの服を、ぎゅっと掴む。
「ジェドが負けるなんてこと、ある筈がないよな、クリユス」
 そんなこと、想像することさえ出来ない。だがそう思っていても、不安が胸を過ぎった。
 クリユスは微かに震えるユリアの手を握り締めると、彼女に微笑んで見せる。
「勿論です。こんな所で、たった一人の刺客の手にあっさりと倒されてしまうような方なら、彼を除軍させるのに私がここまで苦労してはおりません」
 確信を含んだその言葉にやっと安堵し、再び視線をジェドの方へ戻すと、剣がぶつかり合う鋭い音がして、戦い合う二人は間合いを取った。
 愉快そうな顔をするユーグに対し、ジェドは変わらず無表情なままである。
「ふん、成程な。それなりに腕があるようだ」
 そう言うジェドに、ユーグが嘲るように笑った。
「余裕ぶっちゃってるけど、本当は内心焦ってるんじゃないのか? 今まで自分に敵う奴などいないと思っていただろう、あんた」
 挑発するようなユーグの言葉を、ジェドは無視して続ける。
「ライナスを嵌めたのは、お前か」
 紡がれたその言葉に、驚いたのはユリアだった。ライナスは罠に嵌められたエルダを助けに行き、共に命を落としたのだ。それが本当ならば、二人を死に追いやったのは、この目の前で薄ら笑いを浮かべる男だという事になる。
 息が止まりそうな程に凝視していると、ユーグは口の端をゆっくりと吊り上げた。
「ああ、そうだよ。他人なんか放っておけばいいのに、誰もかれも他人を助ける為に己の命を落とす。皆馬鹿ばっかりだ」
 ユーグは一歩足を踏み込み、ジェドの心臓に向かって剣を付きだす。
 それを弾き横に逸らすと、今度はジェドの剣がユーグの頭に向け打ちおろされる。だがそれもユーグの剣が受け止め、二人はその場で睨み合った。
「あんたも同じ馬鹿だね、他人を助ける為に、こんな所にまでのこのこと現れるなんてさ」
「愚かなのはお前だ」
 ジェドもまた、相手を馬鹿にするように口の端を吊り上げてみせた。
「お前は吠えるだけの五月蠅い獣だ。確かに剣の腕はあるかもしれないが、それだけだ。あいつの首に相応しくも無い」
 剣が合わさったまま、器用にユーグの身体を蹴り倒すと、ジェドは身を翻し再び剣を構えた。
「は……何だって?」
 ユーグはよろける身体を足で喰い止め、だがそれよりもジェドの侮蔑的な言葉に目を剥いた。
「この俺にこうして手こずっているくせに、偉そうな口を叩くじゃないか。吠えるだけの獣だと? いいさ、ならご期待通り、お前のその喉元を喰いちぎってやるよ……!」
 遊びは終わりだとばかりに、今までの愉悦の表情が消えうせた。
 ユーグは低く剣を構えると、ジェドに向かって飛びかかる。今までよりも、更に俊敏で激しい剣だった。
 それをジェドの剣ははじきとばすが、着地しすぐさまひらりと軌道を変え、再びユーグの剣が彼を襲う。まるで牙を剥いた獣のような動きだった。
「死になよ……!」
 ユーグの剣が煌めいた。
 それと同時に、ジェドの剣が空を切る。

「ジェド……!」
 ジェドの剣は、ユーグに届かなかった。そう思った。
 だが、そうではない。
 血飛沫と共に、剣を掴んだままの腕が宙に飛ぶ。その腕は、ジェドのものでは無かった。
「な……」
 何が起きたのか解らない表情を一瞬ユーグは作り、そして己の斬り落とされた右腕を見ると、一気に顔を引き攣らせた。
「があ……っ! ぐあああぁああぁぁあ……!」
 ユーグはその場に崩れ落ちると、残された右腕の上腕を掴み、のた打ち回る。
「ひ……っ」
 血の恐怖に身体を固まらせるユリアを、クリユスが自分の胸に押しつけるように抱きしめた。狂ったようなユーグの叫び声だけが辺りに響く。
 例えロランやエルダ達の仇なのだとしても、流れる血を見て溜飲を下げることなど出来はしない。
 もう嫌だ、血が流れるのは嫌だ、戦いなどもう嫌だ。
「貴様ぁ……! よくも…よくも、この俺の腕をぉ……!」
 ぎらりと目をぎらつかせ、ユーグは真っ直ぐにジェドを睨みつける。
「許さない。貴様、許さないからなぁあ………!」
 クリユスが兵士達に彼を捕らえるよう指示を出したが、ユーグは左腕で剣を握ると、襲いかかる兵士達を退け船縁に立つ。
「覚えていろ、ジェド。トルバ暗殺部隊の名にかけて、どんな手を使ってでも必ず貴様を殺してやる、必ずだ!」
「待て、逃すものか、ユーグ……!」
 クリユスが再び弓矢を放つ。
 しかしそれより一瞬早く、ユーグは自らの体を海へと投げ出した。
 兵士達は弓をつがえ海面を見守ったが、ユーグの姿が再び現れる事は無かった。


「あの怪我で海に飛び込んだのでは、生きてはいないのではないでしょうか」
 バルドゥルがそう言ったが、クリユスは首を横に振る。
「いや、そう甘い考えは出来ないな。奴の死体を見るまでは、生きていると思っていた方が良い。だがどうやら矛先はジェド殿に向いたようだ、充分お気を付け下さい、ジェド殿」
「ふん……下らん事を言うな。俺があんな奴にやられるものか」
 ジェドは剣に付いた血を拭き取ると、それを鞘へと収めた。
「しかし、ユーグはどのような手を使ってくるのか分からぬ男です。正攻法ならば負けはしないでしょうが……」
「おい、ユリア」
 クリユスの進言を無視し、ジェドはユリアの方へ視線をやる。
「怪我はないか」
「え……あ」
 先程の流血で血の気が引いており、バルドゥルに支えられてはいたが、怪我は無い。ユリアはなんとか頷いてみせた。
「わ、私は大丈夫だ。皆が守ってくれたから」
「そうか」
 その言葉はどこか素っ気ない。やはりユーグを捕らえるついでに助けられただけなのだと思うと、礼を言わねばと思うのに、素直に口から出てくれなかった。
 そんなユリアを代弁するかのように、彼に頭を下げたのはクリユスだった。
「ありがとうございます、ジェド殿。貴方がいなければ、我々だけではユリア様をお助けする事は出来ませんでした」
「礼ならナシスに言え、俺は奴の先読みに従っただけだ」
「そうですか、ではナシス様に我々からの礼を伝えて頂けますか、ジェド殿」
「俺に伝言役をやれと言うのか。帰ってから自分で伝えろ」
 捕らえる筈のユーグを逃したせいなのか、ジェドは不機嫌そうにクリユスを睨み付ける。
 クリユスは少し肩を竦めると、再び頭を下げた。
「分かりました、少々礼を言うのが遅くなりますが、そうしましょう。それでは、船を岸まで一旦戻します。港までは引き返せませんが、宜しいですか」
「構わん」
 船を着けられる場所まで戻すよう、クリユスは舵手に伝えに行った。
 バルドゥルも船内へ戻ってしまい、ジェドと共に船尾に残されたユリアは、途端に所在無い気分になる。
 折角最後に会えたのだから、ともかく謝らなくては。そう思うが、ユリアに背を向け馬の体躯を撫で付けているジェドに、何と声を掛けていいのか分からなかった。
「あ……あの、ジェド。わ、私は、お前に、謝らねばならない事が……」
 ぼそぼそと言うユリアの言葉に被せるように、ジェドが口を開く。
「お前は、あの男が行くからティヴァナへ行くのか?」
「え?」
 唐突な問いかけで、意味が良く分からなかった。首を傾げると、ジェドは眉間に皺を寄せながら、ユリアの方を向く。
「十年も居たというのに、まだティヴァナへ行きたいのか。そんなにあの男の傍にいたいのか」
「は……何を言っているんだ? あの男と言うのは、クリユスの事か」
 責めるような口調で問うてくるジェドに、思わずユリアはむっとする。その言い方では、まるで私がクリユスにくっついてティヴァナへ行くようではないか。
 兄離れしていない妹だと馬鹿にされたようで、不愉快だった。
「何度も言っているように、私は王命を賜り同盟の使者としてティヴァナへ行くのだ。寧ろクリユスが私にくっついて来ているのだ、口を慎め」
 謝らねばならぬのに、喧嘩などしている場合ではなかったのだが、つんと顔を背けてしまったものは、もう取り返しようも無い。ジェドの様子を横眼で窺うが、何故か黙ったままである。
「おい……ジェド……?」
 再び所在無くなったユリアは、難しい顔をしたまま立ちつくすジェドの顔を覗き込んだ。
 この男が一体何を考えているのかは分からないが、謝るなら今しかない。
「あの……だな。私は、お前に」
「行くな」
 ジェドが呟いた言葉に、ユリアは息を飲み込む。聞き間違いだろうか。いや、しかし―――。
 動揺するユリアの二の腕を、ジェドが強引に掴んだ。
「痛……」
 思わず振りほどこうとしたが、力で抵抗出来る筈も無い。顔を上げると、すぐ傍にジェドの眼差しがあった。
 それは射るような眼差しだった。
「ティヴァナへなど行くな、ここにいろ」
 ユリアは目を瞬かせる。
「――――俺の、傍にいろ」
「え……?」
 頭の中が真っ白になり、そして苦しい程に心臓が早鐘を打った。












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