106: ティヴァナへ6





 ――――ティヴァナへなど行くな。俺の、傍にいろ。
 
 ジェドは確かにそう言った。
 それは、どういう意味なのだろう。
 ユリアは高鳴る胸の鼓動を、必死で抑えつけようとする。言葉通りに受け取る事など出来ない。何故ならジェドは、ユリアを憎んでいる筈なのだから。
 ではどうして? 何故ジェドはこのような事を言うのだろう。
 からかっているのだろうか。それとも、その言葉には何か別の思惑が隠されているのだろうか。
「何故」
 当惑する思いが、そのまま口をついた。
「それは、どういう意味だ。お前が私を引き止める理由はなんだ」
 あのリョカでの日々のように、俺の傍に居て欲しいのだと、そう言って欲しかった。そんな言葉をジェドが口にする筈が無いと分かっていはいたが、ほんの少しの期待を心に抱かずにはいられない。
「フィードニアを離れる者を、守ってやることは出来ない。お前は国の宝だ、死なせる訳にはいかない」
 ユリアの腕から手を離し、不機嫌そうにジェドはそう言う。
 国の宝だから。
 そうなのだ、ジェドが止めているのは“フィルラーン”であってユリア自身ではない。つまりはそういう事なのだ。
 それはユリアの期待する答えでは無かったが、彼女を傷付けるものでもなかった。
 国王軍総指揮官の責務からとはいえ、私を守ろうとしてくれているのだ。それだけで充分ではないか。
 己の過失でジェドを不幸に追いやっておきながら、それでも愛情を欲するだなんて、虫が良すぎるというものだ。
「エルダにライナス、ロラン、他にも多くの兵士達が己の信ずるものの為に戦い、そして命を失った。一日でも早くティヴァナと同盟を結び、この戦いを終わらせねばならない。それが彼らの死に対して、唯一私が出来る花向けなのだ。私一人が、ぬくぬくと守られていて良い筈が無い」
 そうだ、ジェドの答えが何であろうと、どのみちティヴァナへ行く決心が変わる事は無い。だからこれで良かったのだ。
 ユリアは真正面からジェドを見詰めた。これ程素直に彼に向きあったのは、いつ以来の事だろうか。
「今までお前には、何度も助けてもらったな。ありがとう、感謝している。し足りぬ程だ。……だが、もういいのだジェド。もう私を守らなくとも、良い」
 憎む相手を守らねばならないという呪縛から、お前を解放してやる。
 そしていつか、戦いからも、国王軍総指揮官という重責からも、必ず解放してやる。
 そうしたら、それが実現出来たならば、私も少しくらいは期待してもいいだろうか。少年の頃のようなあの笑みを、お前がいつか再び私に向けてくれると。
「―――――そうか」
 ジェドは一言そう呟くと、ユリアの頬にその手を伸ばした。
「お前にとってはフィルラーンとしてでさえ、この俺はもう必要ではないということだな」
「え?」
 問うような眼差しを向けたが、ジェドの表情からはどんな感情も読み取る事が出来なかった。
 私にとってお前が必要ではない? そんな事、ある筈が無いではないか。これ程強く、お前を求めているというのに。
 けれどそれは、今のユリアには口にする資格さえ持たない言葉なのだ。
「戦場などで死ぬなよ、ジェド。私はお前にも、死んでもらいたくは無いのだ」
「余計な危惧だな。だれがこの俺を殺せるというのだ」
 いつもの自信に満ちたその言い様に、ふとユリアは笑みを漏らす。
「確かに。お前を殺めることが出来るのは、神のみだ。……元気でいろ」
 良かった、笑みを向けて別れる事が出来た。険悪なままの別れでなくて良かった。
 そう思った時、ジェドの手が再びユリアの頬に宛がわれた。今度は何だと思う暇も無く、彼女の額にジェドの唇が押しつけられる。
「な……っ、何を……」
 顔を赤くし抗議しようとすると、船が何かに当たった衝撃でがくんと揺れた。船が岸の脇に着けられたのだ。
 兵士達が来て、岸に渡し板を掛ける。
 別れの時が、来た。
 
「おい、ユリア。ティヴァナで酒は飲むなよ、お前は酒癖が悪い」
 愛馬の手綱を引きながら、ジェドが振り返りそう言った。
「何を言っている」
 別れの言葉に、何を無礼な事を言いだすのかと、ユリアは憤慨する。
 確かに飲み過ぎると一部の記憶は曖昧になるが、それでも次の日には自分の部屋でちゃんと目覚めているのだ。誰にも迷惑は掛けていない筈である。
「こっちこそ、余計な危惧だ」
「どうだかな」
 肩を竦める仕草をし、そのまま渡し板を馬と共に越える。その背中に何か声をかけたかったが、言うべき言葉が思い浮かばなかった。
 ユリアが口を噤んでいる間に、ジェドは岸へと降り立ち、兵士達の手により渡し板は取り外された。
 もう、これが本当に最後なのだ。
「ジェド」
 思いきって名を呼ぶと、馬にひらりと飛び乗ったジェドは、ユリアの方へ顔を上げた。
「わ、私が、無事役目を終えてフィードニアに帰ってこれたら……その時、お前に話したい事があるのだ」
「なんだ」
「それは、帰って来たら話す。その時は、聞いてくれるか」
 ジェドは軽く肩を竦めたあと、頷いた。
「何を勿体ぶった事をと言いたいところだが、いいだろう。帰って来たら、恨み事でも何でも聞いてやる。――――必ず帰って来い」
「ジェド……」
 ジェドは馬の横腹を軽く蹴ると、そのまま馬を走らせた。「さらば」の一言もありはしない、そっけないが、ジェドらしい別れだと思った。
「帰って来たら」
 ユリアは小さく呟く。
 お前は迷惑かもしれない。伝えた所で、嫌悪の目を向けられるのは変わらないかもしれない。けれど。
 無事ティヴァナとの和平を結ぶ事が出来、そして無事フィードニアの地へ再び帰ってくることが出来たなら。その時、私はお前に己の想いを伝えよう。
 ずっとずっと、ただお前だけを、愛していると。













「別れは告げられましたか」
 いつのまにか横に立っていたクリユスが、そうユリアに声を掛ける。
「別に……永遠の別れという訳でもあるまいし、いや例えそうだったとしても、私達はしみじみと別れを告げねばならぬような間柄ではない」
 ユリアは離れて行く岸辺から、慌てて目を離した。
 兄のような存在であるクリユスに、己の想いを知られるのは気恥ずかしいという気持ちもあるが、それ以上に、ユリアが政治的な意味合いでジェドを軍から排斥しようとしていると思っているクリユスに、私心を知られてはならなかった。
 そんな詰まらぬことに協力させられていたのだと知れば、クリユスはもうこれ以上手を貸してはくれないかもしれない。それだけは避けたかった。
「それよりも、お前は一人ベスカで船を下りるというのは本当なのか」
「はい、ベスカへ潜入し連合国の動向を探ってくるという名目で、同船する事を王に許可して頂きましたから、降りぬわけには参りません。それに、そもそも私が御使者の船で堂々とティヴァナへ入る訳にも行きませんからね」
 それは、確かにそうだろう。クリユスはティヴァナを追われる身なのだ。だというのに、こうして王を謀ってまでもティヴァナへ行こうとしている。どういうつもりなのか、クリユスの意図が全く掴めなかった。
「クリユス。危険を冒してまでティヴァナへ行き、お前は一体何をするつもりなんだ? ティヴァナ側の人間に見つかったら捕らえられる立場のお前が、今回の同盟に何か手伝える事があるとも思えないが」
 ユリアの問いかけに、しかしクリユスは笑顔で返した。
「私の事は心配なさらずとも大丈夫ですよ。捕まりはしません、ティヴァナの警備体制には詳しいですから、警備兵の目を掻い潜ることくらい、楽なものです」
「いや、しかし……」
 答えになっていない答えだが、クリユスがこうやってはぐらかす以上、問いつめても何も話してはくれないに違いなかった。何か考えがるのだと思うしかない。
「分かった、お前を信じる。ともかく、危険な事だけはするなよ」
「勿論です、ユリア様」
 “勿論です”という言葉の前に、一拍間があったことがほんの少し心にひっかかったが、にこやかに笑顔を向けるクリユスに、気のせいかと思い直す。
「あ、ユリア様っ!」
 名を呼ばれ振り返ると、船内へ続く扉の前に不安そうな顔をしたダーナが立っていた。
「ここにいらしたのですね、ユリア様。船室にいらっしゃらないので、お探ししましたよ」
「ああ…すまない、ダーナ」
 駆け寄ってくるダーナの顔が、ほっとしたように和らいでゆく。
「随分甲板の方が騒がしかったようですが、一体何があったのですか、ユリア様」
 騒ぎが気になり甲板へ行こうとしたダーナだったが、兵士に止められ出させて貰えなかったらしい。あの時、ダーナが甲板へ上がって来ようとしていたのだと知り、ユリアは内心冷や汗をかく。その騒ぎの場にはあの狂気の暗殺者が居たのだ、その兵士の判断には、全く感謝せざるを得ない。
「何でもありませんよ、ダーナ様。私が兵士達に剣の稽古を付けていたのです。このような窮屈な船でじっとしていては、腕が鈍ってしまいますからね。ただ、真剣を使っての稽古でしたので、その兵士は貴女のようなか弱き女性が近づいては危険だと思ったのでしょう」
 ユリアを狙って刺客が現れたのだと正直に伝えたら、ダーナは卒倒しかねない。クリユスが機転を利かせて口にした嘘だったが、その言葉にダーナは目を吊り上げた。
「まあ、それならばユリア様とて危険ではありませんか! 何故クリユス様はユリア様を船室へお戻し下さらなかったのですか」
「あ……いえ、それは。……参ったな、私はどうあってもダーナ嬢に叱られる事になるらしい」
 珍しく困った顔をするクリユスが可笑しくて、ユリアは思わずくすりと笑う。
「まあ、いいじゃないかダーナ。私はこうして傷一つ負わず無事でいるのだから」
「当然です、ユリア様に掠り傷一つでも付けるような事があれば、こんなものでは済みません!」
 ぴしゃりと言うダーナに、ユリアが反論できる訳も無い。大人しく反省の言葉を述べるクリユスを見ながら、この冷徹、策略家と皆に目される男に唯一勝てるのは、もしかしたらダーナだけなのではないだろうかと、ユリアは笑いを堪えながら思った。


「ユリア様、そろそろお部屋へ戻りましょう」
 ようやくクリユスを開放したダーナは、ここは少し冷えますから、とユリアを船室へ入るよう促す。
「ああ、そうだな」
 戻ろうと足を踏み出した時、ふと潮風が額を撫でた。
(――――なんだろう、この感覚は)
 先程、ジェドの唇がユリアの額に触れた時、何故だか妙に懐かしい感覚がしたのだ。
 幼い日々の遠い記憶ではなく、もっと最近。同じように“誰か”がユリアの額に口づけたような。
 心の奥底で、何かが蠢いた。だが――――。
「ユリア様?」
「あ、ああ。何でも無い」
 ダーナに促されるまま、再びユリアは歩き始める。
 そんなことある筈が無い、きっと気のせいなのだろう。

 岸は既に遥か遠くである。
 船はティヴァナへ向け、ゆっくりと進み始めた。












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