1: 英雄の帰還





 男は、立派な武具を身に纏い、赤毛の馬に騎乗していた。髪は黒く、精悍な顔だちをしている。
 歓声を上げる群衆の中を、男は悠然と進む。
 群衆は男の名を叫び、男は彼らへと手を振る。至極満足そうに。
 ―――英雄の帰還だった。

「……何が、英雄だ」

 群衆から少し離れた場所でその様を見ていた少女は、ポツリとそう呟いた。
 その視線は冷ややかだ。

 少女は全身を覆う程の白く長い布を、頭から被っている。
 生地は軽く滑らかで、施された刺繍は見事なものである。
 それはラティと呼ばれる、フィルラーン(神に仕える者)にしか許されていない装いであった。

 少女は、重なり合うように群れながら、英雄の名を叫び続ける民人たちの元へと歩き出した。
 彼女に気づくと、彼らは瞬く間に道を開ける。
 新たに作られたその道を少女は進み、英雄の前へ歩み出た。

 男は少女に気づくと、ゆっくりと馬の歩みを止める。
 いつの間にか群衆は叫ぶのを止め、二人をじっと見守っていた。
 辺りは荘厳な空気に満ちる。

 少女は男へ向け、うやうやしく跪く。
 布の隙間から、金の長い髪がサラリと流れ出た。

「大義である。ユリア」

 馬上から、男が声をかける。
 歓声が再び沸き起こった。










「―――茶番だな」

 フィードニア国の王都ルハラ。
 その地を一望する事の出来る、小高い場所に据えられた王城の脇には、フィルラーンの住まう塔がひっそりと建てられている。
 『フィルラーンの塔』と呼ばれるその建物の一室へ戻ったユリアは、頭から被っていた布を脱ぎ捨てると、そう吐き捨てるように言った。
 豪奢な布地の下は、簡素だが、これもまた上等な生地を使った白い衣装である。

「何だ、そのまま身につけていれば良いものを…。その豪奢なラティは、お前の美しい顔によく似合うというのに」
 背後から声が掛けられたが、少女は振り返りもせず答える。
「そのラティを身につける存在が、お前に跪く。さぞやお前の虚栄心を満足させる事だろうな」

 ラティを身に纏う事を許された者、即ちフィルラーンは、国の唯一無二の宝とされている。
 神に仕え、神に最も近い存在とされる彼らは、その力を持って不浄を浄化する。
 フィルラーンのいない国は穢れ、滅びるとさえ言い伝えられていた。

 王が権力を、フィルラーンが権威を持つ。それは数百年も前から続いてきた、このハイルド大陸全土に渡る国々の体制であった。
 つまり、フィードニア国王軍総指揮官であるこの男であっても、本来フィルラーンであるユリアを跪かせる事など出来ないのだ。
 本来なら。

「確かに、茶番だ。だが民衆はこれで歓喜するのだ。我等の国には、フィルラーンでさえ跪く英雄がいると」
「思ってもいない事を口にするな、ジェド。お前が民衆の為にだと、笑わせるな。 民が喜ぶのは良い。その為なら私は何度でも、誰にだろうと跪こう。だが、お前は私を跪かせて喜んでいるだけではないか」
 くく、とジェドは意地悪く笑った。
「その通りだな。汚らわしいと思っている存在に跪く。お前の屈辱を思うと、愉快で堪らないな」
「………このっ!」
 ユリアはラティを掴むと、ジェドへ投げつけた。
 権威の象徴であるラティでさえ、この男に利用されたと思うと汚らわしい。

「おい、どこへ行く」
 立ち去ろうとするユリアの腕を、ジェドが掴んだ。
「何をする…! 無礼な、離さないか」
 振り解こうと抗ったが、掴まれた腕はびくともしない。

「まだお前には仕事が残っているだろう。早く“清め”の用意をしろ」
「“清め”だと? 死者を悼む気持ちも無いくせに、清めの儀式が必要なものか。お前など、死者に呪い殺されるがいい」
「それが聖女の言う台詞なのか? 全く、民にも聞かせてやりたいものだな。フィルラーン信仰などそれで消え失せるというものだ」
 ジェドは面白そうに笑う。そうなれば見物だと、本気で考えているのだろう。この男は。

「英雄などとはやされて喜んでいるお前に、言われたくなど無い。何が英雄だ。こんな傲慢で気分屋の英雄など、いてたまるか」
「何を言う、数々の城を落して来た男に相応ふさわしい呼び名ではないか。性格など民にはなんの関係も無い事だ」
「関係無くなど…」
 あるものか、と言おうとするユリアの言葉を、ジェドは片手を振ってみせる事により遮った。この話題にはもう興味が無いという顔をする。

「ともかく俺は、己の仕事を全うして来たのだ。お前もフィルラーンとしての仕事をしろ。それを拒否するのであれば、お前がこのフィルラーンの塔にいる資格など無い」
 ジェドは冷たくユリアを見下ろす。
「忘れるなよ、ユリア。この国にはもう一人…しかもお前より数段高位のフィルラーンがいるのだ。つまりはお前などいなくとも、この国が滅びることは無い。……いいか、お前など、この国の英雄であるこの俺にとっては、どうとでもなる存在なのだ。―――――俺に、逆らうな」

「く……っ!この……!」

 それが傲慢だと言うのだと、ユリアは言ってやりたかったが、だがそれは事実でもあった。

 フィルラーンとしての最高位を持つ、フィードニア国のもう一人のフィルラーン、ナシス様は、王でさえ侵すことの出来ない高い地位を持っている。しかし低い能力しか持たないユリアの地位は、王には到底及ばなかった。 
 だがジェドはその自身の能力により、今や王の右腕――いや、ともすればそれ以上にまで登りつめている。
 故に本来ならジェドより格が上の筈のユリアが、実質はこの男に逆らえずにいるのだ。
 よりにもよって、こんな男に。

「……分っている、清めの儀式の準備は…既に済ませている。私は清めの場に先に行っていよう。お前も、着替えたら来い」
「ふん。いつもそう素直だと可愛いのだがな」

 勝ち誇った顔が憎たらしい。
 可能であれば、死者に呪い殺される前に、自分がこの男を殺してやりたい位だ。
 だが、そんな事が出来る筈も無い。

 ふと、ユリアは自嘲した。
 ―――誰かを殺してやりたいなどと、そんな恐ろしい事を考えるフィルラーンは自分一人だけであろう。

 何故神は、こんな男の存在を許すのだろう。
 そして何故この私の前に寄越したのだ。

 清く生きねばならぬフィルラ―ンの、この私に憎悪を抱かせる。

 その事実に、私は更にこの男に憎悪を抱くのだ。









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