―――グレナンド領兵軍隊長―――





 腹の中が、燃えるように熱い。
 無数の手が己の方へ向かい伸びてきて、身体を掴む。

 ――――――――止めろ、俺に触るな……!

 化け物、と罵る声が木霊する。化け物、化け物、この化け物が……!
 手が体中に纏わりつく。憎悪が奥底から沸き上がり、心を暗く支配する。

 ――――――――ああ、そうだ。俺は化け物だ。俺に近付くモノは、皆この俺が屠ってやる。
 悲鳴にも似た笑い声が辺りに響き、次の瞬間には辺りが血の海に変わった。
 己の手が、足が、体中が血に塗れている。無数の手は消え去り、そこには闇だけが残った。
 物音ひとつしない底知れぬ深い闇の中に、たった一人。“誰か”を求め力の限り叫ぶ声は、闇に溶けて虚しく消えた。





「――――――――――!」
 がばりと上半身を起こすと、ジェドは身体の脇に置いてある己の剣を掴み取る。
「うーん……どうしたんですか、ジェド殿……?」
 傍らで同じく横になっていたラオが、眠そうにそう問いかける。まだ夜明け前で辺りは暗いが、大きな天幕の中で、雑魚寝している複数の兵士達の気配がする。ここは戦場で、夜営をしている所なのだと彼は瞬時に理解した。
 頭から血の気が引いていく。ジェドは思わず手を伸ばし、ラオの胸倉を掴んだ。
「―――――おい、俺の名を言え」
「は? 何を言ってるんですか」
 困惑するラオを無視し、ジェドは声を低くする。
「いいから、答えろ。俺の名はなんだ」
「いや……あんたの名って……。そりゃ、ジェド殿でしょう。ジェド・グレンフォード」
 ジェド・グレンフォード――――。
 ほっとして、彼は手を離した。それはグレナンド領を与えられた時、爵位と共に与えられた名だ。今の己は国王軍総指揮官のジェドではない。ユリア・グレンフォードを妻とする、グレナンド領の領主なのだ。グレナンド領兵軍の隊長として、自分は今この戦場にいるのだ。
 ジェドが黙って再び横になると、ラオが困惑した声を出す。
「ちょっと、いったい何だったんですか、今の」
「五月蝿いぞ、さっさと寝ろ」
 理不尽に怒るジェドに不満そうな溜息を吐きながらも、これ以上問い詰めても無駄だと判断したようで、ラオは大人しく横になる。
 血生臭い匂いがした。戦場の匂いだ。これのせいで、あんな夢を見たのだ。
 ジェドは目を瞑ったが、もう眠りに堕ちることは無かった。

 大戦が終結し、ここハイルド大陸東の地全土がフィードニア国の傘下に収まってから、既に二年が経つ。大きな戦いは無くなったが、かといって全くの平和になったという訳でもない。敗国の残党が集まり反乱を起こしたり、傘下である個々の国同士が揉め始めたりと、争いの種は尽きない。そしてその度にフィードニアは兵を出し、それを鎮圧したり、なだめたりしなければならないのだ。
 とはいえ各領主が持つ領兵軍というものは、基本的には国王軍の出兵だけでは足りない大規模な戦いか、若しくは治める領地の近くで争いが起こった時にのみ借り出されるものだ。本来であれば、小さい領地しか持たぬグレナンド領兵軍など、そう頻繁に戦地へ行かされるものではない。だというのに何故か出兵命令は度々ジェドの元へ齎されており、実際の所彼が領地に居る時よりも、戦地に居る時の方が多いくらいなのである。これでは国王軍に居た頃と大して変わらない。
 どうりですんなりと軍から出させてくれたわけだ。忌々しい思いでフィードニア国王の顔を思い浮かべ、あの食わせ者めがと悪態をつく。文句のひとつも言ってやりたいところだが、ジェドの怒りなど、どうせ飄々とかわされるだけだろう。
「――――で、宜しいですかな、ジェド殿」
 天幕の上座に当たる場所に座るハロルドが、そうジェドに声を掛けた。聞いてはいなかったが、軍会議の最中である。今話し合われていた戦略の良し悪しに関して、ジェドに確認を取っているのだろう。
「今のフィードニア国王軍総指揮官はお前だ。いちいち俺に了解を取るな、好きにしろ」
 この答えを“良し”と取ったのか、ハロルドは破顔して皆に向き直る。
「では皆、抜かりなく準備をして、配置に着け」
「は!」
 これらのやりとりも、彼がフィードニア国王軍に居た時から何一つ変わっていない。知らぬものが見たら、この光景はさぞ異様に映ることだろう。いい加減、総指揮官であった己のことなど忘れてくれれば良いものをと、では逆に彼らに単なる領兵軍の隊長扱いで命令されたとして従うつもりもないくせに、ジェドは勝手にそう思うのだった。
「ところでジェド殿。皆には了解を得たのですが、俺は今回の内乱が収まり次第、国王軍を辞してジェド殿の下へ行くつもりです」
 ジェドの隣に座るラオが、そう彼に耳打ちする。
 そういえば、前々からそんな事を言っていたな。つまりはグレナンド領へやって来て、やっとダーナと婚姻を結ぶということだ、ユリアが喜ぶ姿が目に浮かんだ。
「丁度いい、だったらグレナンド領兵軍隊長の座はお前に譲ってやる。俺からの祝儀だ」
「はあ? 何言ってやがるんですか」
 この鬱陶しい出兵の数々から開放される良い案だと思ったのだが、ラオは思い切り顔を顰め渋面を作った。
「俺がグレナンド領兵軍に入るのは、あんたの下で働きたいからでしょうが。そのあんたがさっさと引退してどうするんだ。ふぬけたあんたの姿を傍で見る位なら、俺はこのまま国王軍に留まりますよ」
 言い張るラオに、ジェドは舌打ちをする。もし自分の所為でラオがグレナンド領へ来ないということになったら、ダーナだけではなく、ユリアにまでも恨まれる事になるではないか。勝手な奴だな、とジェドは自分勝手に思う。

 反乱軍を鎮圧する為、奴らが根城としている廃墟の城を、フィードニア軍がぐるりと囲む。敵は籠城するつもりらしいが、そんな長期戦に付き合うつもりは毛頭無い。
 ――――――――早くユリアの元へ帰りたい。
 ジェドはぐしゃりと己の黒い髪を掻き上げた。
 ふいに、彼の右手が小刻みに震える。ああ、またいつものヤツかとうんざりする。ユリアと暮らすようになってからは随分減ったが、こうして戦場にいると、たまにこんな風に震えだすのだ。
 恐らく不安が心に巣食うとこの右手に現れるのだろう。勿論戦場が恐ろしいとか、そんな気持ちは微塵も無い。ただこうして皆と馬首を並べていると、ユリアと心が通い、彼女と過ごす日々こそが夢であり、今でも己はフィードニア国王軍のジェドでしかなく、孤独のままなのではないかと思えてくるのだ。
 ぞっとして、彼は頭を横に振る。
 早くユリアの元へ帰ろう。帰って彼女を抱きしめるのだ。あの夢のような日々が幻ではないと、確かめるために。
「こんな詰まらん戦いをいつまでも続けていられるか、さっさと反乱軍を鎮圧し、とっとと国へ帰るぞ」
 ジェドが声を張り上げると、兵士達が鬨の声を上げる。誰が国王軍総指揮官なんだか、とハロルドが苦笑した。



「お帰り、ジェド……!」
 出迎えたユリアが花のような笑顔でジェドに飛びついてくる。彼は彼女の細い身体をぎゅっと抱きしめると、頭に口付けた。ああ、やはり夢ではなかったと、やっと心の底から安堵する。
「思っていたより早く帰って来られたな。無事で良かった」
「俺を誰だと思っている、統制の取れていない寄せ集めの反乱軍などに手こずるものか」
「自信家なのは相変わらずだな」
 ふふ、と笑うと、ユリアはジェドの手を取り屋敷に招き入れる。屋敷の奥から旨そうな匂いがした。
「軍が引き上げていると聞いたから、そろそろお前も帰って来ると思って、スープを作っておいたんだ。ダーナに教えてもらって、私が作ったんだぞ」
「お前が? 食べられるのかそれは」
 ジェドが真顔で言うと、ユリアは頬を膨らます。
「失礼だな、私だって料理くらい作れるよ。そりゃあ、ダーナにちょっとは……大分、手伝ってはもらったけど……」
「そうか、ダーナの監視付きならそう酷いことにはなっていなさそうだ」
「もう、なんだよそれ。そんな風に言うならジェドには食べさせてあげないからな……!」
 へそを曲げぷいっと顔を背けるユリアに、ジェドは肩を竦める。
 怒らせるのは分かっているのに、反応が面白くて、ついついからかってしまう。もう少し拗ねるユリアを見ていたい気もするが、本気で怒らせる前に止めておくことにした。
「嘘だ、お前の手作りのスープ楽しみだ」
 そう言うと、途端にユリアの表情が輝き出す。なんて分かり易いんだろうか。うっかり吹き出しそうになるのを、ジェドは何とか我慢した。
「じゃあ待っていろ、すぐ温めてくるから。味も期待してもらって良いぞ、クリユスだって絶賛していたからな」
 その言葉にジェドは動きを止める。―――誰が、何だって?
 ジェドの表情を見たユリアが、怯んだように一歩後ずさった。
 今回の反乱軍の鎮圧には、クリユスの隊は出兵していなかった。城の守りに残る隊も当然いるのだから気にはしていなかったが、本来出兵義務の無い戦いに自分が駆り出されている間に、あの男は何をしてくれているんだ?
「ほう……あの男は亭主が留守の間に、人妻の屋敷にのこのこと上がりこんでいるという訳か」
 冷ややかな声を出すジェドに、ユリアは慌てて言い繕う。
「な……なんて言い方をするんだ。クリユスはただ単に心配して顔を出してくれているだけではないか。いくらダーナや使用人達が居るとはいえ、屋敷の主人が度々不在にしていては不安だろうと」
「俺が好きで不在にしていると思うのか。だいたい、あの男が居ることの方が余程危険だろうが。お前も人妻なんだから、いい加減に自覚しろ」
 責められて、ユリアはむっとしたように口を曲げた。
「お前こそ、クリユスは兄みたいなものだって何度言ったら分かるんだ。変な疑いを掛けるだなんて、クリユスに失礼だぞ」
 何が兄だ。と怒鳴りたいところをぐっと我慢する。ユリア自身が本気でそう思っているのは分かっているのだ。問題はあの男の方だ。
 兄面をして彼女の信頼を勝ち取っているが、あの男が心の奥底ではユリアに対して妹以上の愛情を持っていることなど分かっているのだ。無害を装いながら、その実俺とユリアが別れるのを、若しくは俺が死ぬのを、虎視眈々と狙っているに違い無い。
 いっそさっさと殺しておくべきか。
 目をギラリと光らせるジェドだったが、いや駄目だと直ぐに打ち消した。もし手を下したのが自分だとばれた時の、ユリアの反応が怖い。泣いて怒るくらいで済めばいいが、今度こそ本当に憎まれでもしたらと思うとぞっとする。俺自身が手を下さずに、なんとかひっそり始末する方法は無いものか……。
 などと、ジェドが不穏なことを半ば本気で思案していると、その沈黙をどう解釈したのか、ユリアはほっとしたように笑顔に戻った。
「分かって貰えたようで良かった。そんなことよりも、ジェドに報告があるんだ」
 ユリアは急に顔を赤らめると、上目遣いでジェドを見る。
「本当のところを言うと、実はジェドの為にスープを作る練習をしていた訳ではないんだ。あ、勿論クリユスの為でも無いぞ。その……そのうち、子供に食べさせてあげたいと思ってだな……」
「子供?」
 何故いきなり子供という単語が出てきたのか分からず首を傾げると、ユリアは不満そうな目をする。
「もう、鈍いな。子供が出来たんだ。ここに、お前と私の」
 自分の腹を触りながら、ユリアがそう言った。
 ――――子供。俺と、ユリアの。
 そう頭の中で繰り返してみても、今一ピンと来ない。どう反応したら良いのか分からず視線を泳がせると、目を輝かせるユリアが、ジェドが喜ぶのを待っていた。どうやらここは喜ぶべきところらしい。
「――――そうか、それは嬉しいな」
「本当に? ジェド、喜んでる?」
 覗きこむように瞳を見詰められ、彼は頷く。
「勿論だ」
「良かった……!」
 嬉しそうに微笑むユリアを見て、己の反応が間違ってはいなかったことに安堵した。
 そうか、世の中の人間は、己の子供が出来れば喜ぶものなのか。母からも村人からも忌み嫌われていた自分には、初めて知る世界だった。
「今四ヶ月らしいんだ。ああ、子供が生まれたら、私のこの言葉遣いも直さなくちゃな」
「別に構わないだろう、そんな事は」
「駄目だ、もし女の子が生まれて、真似したら困るだろう」
「そんなものなのか?」
「そういうものなんだ」
 うきうきとしているユリアが幸せそうで、ジェドの心も温かくなる。
 子供の頃のユリアを思い浮かべながら、確かに彼女に似た子供が生まれたら、それは愛おしいかもしれない、とジェドは思った。
「でも男の子でもいいな。ジェドに似た男の子、可愛いだろうな」
 ユリアは言うが、それはどうかと彼は思う。そんなモノを、愛おしいと思える自信が無い。
 だが、待てよ――――。
「俺に、似た男……」
 ジェドはひとり呟く。ラオにはグレナンド領兵軍隊長の座を拒否されてしまったが、自分に似たような男が居れば、そいつに任せられるのではないだろうか。
「十歳くらいになれば、それくらい楽勝だよな……」
 未来の息子がとんだ危機に晒されているとも知らず、ユリアは己の腹をじっと見詰めるジェドに、にこりと微笑んだ。











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