99: 友の声3





「最近隊長の元気が無いと、アレク様の部下が心配しておりましたよ」
 兵舎の渡り廊下の窓から、何をするでもなく遠くをぼんやりと眺めていたアレクに、ユーグが声を掛けた。
「無理もないことではありますが、暫らくロランさんの件は内密にすると決まったのですから、あまり顔に出されては……」
 言いにくそうに語尾を濁し、ユーグは言う。
「……分かってるさ」
 そう返答をしたものの、その口調は不貞腐れたものになった。
「それにお前に言われなくても、もう同じ事をクリユス中隊長に言われたよ」
 訓練中、今と同じようにぼんやりしていたアレクの所にやってきて、クリユスはこう言ったのだ。思っている事を一々顔に出し過ぎだと。
 不満があっても顔に出すな、一旦己の中に呑み込み消化し、ここぞという時に吐き出せ。ハーディロン領の次期領主ならば、それ位の芸当をしてみせろ。
 けどこんな時に平静な顔なんてしていられるかよ。まったく無茶を言う男だ、直属の上司でなくて良かった。
『―――――何を悩んでいる?』
 それでも、その直属の上司でも無いクリユスにそう声を掛けられた時は驚いた。
 確かにアレクは、ここ数日ずっとあることで悩んでいたのだ。
 どうしてそれが分かったのだろうか。ロランの死を伏せると彼が言った時、それに対して不満を口にしたアレクが、一人勝手な行動を起こさぬよう注視していたのか。
 良くは分からないが、なんとなく恐い男である。
「あ〜あ」
 アレクは両手を上に伸ばし、軽く身体を伸ばす。
「こういう時は、南街にでも遊びに行きてえなあ……」
「アレク様、何を言ってるんですか、こんな時に」
 ユーグが生真面目な顔で説教を始めたが、アレクはそれを無視する。
 開け放した窓の縁に凭れかかりながら、南街のデュ・リュラという名の娼館にいた、一人の女をアレクは思い出した。
 “ライナス殿の女”にお目に掛かりに行った時、娼館の店主が替わりにアレクに宛がった女である。少しぽってりとした唇と、瞳の左下にある小さな黒子が印象的な、可愛い女だった。名をマリーと言う。
 アレクはその後も彼女に会いに、何度かその娼館へ通っていた。
 ある日、いつも彼女が髪を括っていた赤いリボンが粗末な紐に替わっていた。聞くとその紐とリボンを友達と交換したのだと言う。
 本人が良いのだから口を挟むべきではないのだろうが、それでもやはりそれは少々みすぼらしく思えたので、アレクはマリーに替わりのリボンを買って行った。ピンクのリボンである。
 彼女はそれを凄く喜び、紐と一緒に髪を括った。それはマリーの甘い顔に良く似合っていた。
「冗談だ、行かねえよ。どうせ行っても意味ねえし」
 え? とユーグが首を傾げる。何でもない、とアレクは答えた。
 南街へ遊びに行った所で、もうマリーはいない。ある日突然姿を消したのだ。
 金持ちの男に買われていったと店主は説明したが、アレクはそれを信用してはいなかった。
 ライナス殿と“ライナス殿の女”が、共にトルバで命を落としたその同時期にマリーはいなくなったのだ。“ライナス殿の女”はマリーと同じ娼館に潜伏していたのである、二人の死とマリーの失踪が全く無関係だとは、アレクには思えなかった。
 あの店は恐らくトルバと繋がっている。そして多分、マリーが今生きている可能性は……低い。

「なあ、俺とお前、もう随分長い付き合いだよな」
「は…何ですか、急に」
「いいだろ、何か急に思いだしちゃったんだからさ。お前俺と初めて会った時、開口一番に説教したんだぜ。参ったぜ、ホント」
 ユーグは思い出したように、口元を綻ばせた。
「あれはアレク様が悪いのですよ、時間に一刻も遅れて来た上に、全く反省するそぶりも見せないのですから。これは私がしっかりと教育して差し上げねばと思ったのです」
「あの時は目付役なんて冗談じゃ無いと思ったからな、散々困らせりゃ辞めるだろうと思ったのさ。なのにお前って奴は一向に辞める気配を見せねえし、只の叱られ損だったぜ」
「アレク様……その言い方ではまるで、今は私を困らせてはいないかのように聞こえますが」
 生真面目な顔でそう言うユーグに、思わずアレクは噴き出した。
「悪かったな、どーせ俺は根っからの怠け者だよ」
 ユーグに向かって思い切り舌を出してみせると、子供では無いのだから、とユーグは笑った。
 護衛役であり、目付役であり、側近であり部下であり、そして兄のような存在であるユーグ。俺はお前が大好きだ。
「ユーグ」
「何ですか」
 アレクは空を眺めた。この空はどこまで続いているんだろう。
「ロランとマリーを殺したのは、お前だろう?」



「―――――――は」
 ユーグの身体が瞬時に固まったのが、振り返って奴の方を見なくても分かった。
「何を……何を言っているのですか、アレク様? そのような悪質な冗談を言われるなんて、おふざけにも程がありますよ」
「いくら俺でも、冗談でこんなことは言えねえよ」
 アレクは視線を空にやったまま答える。ユーグの顔を見てしまったら、こんな事はもう口に出来ないと思った。
「そんな、何を言うのですか、ロランさんを私が殺すだなんて、そんな恐ろしい事ある筈が無いではありませんか。だいいちマリーという名の女性など、私は存じ上げさえしません」
 ――――もっとだ。もっと否定しろ、ユーグ。
 俺の言葉全てをねじ伏せる位に、もっと否定してみせろ。
「それに何故私がロランさんを殺さねばならないのですか、私だってロランさんとは仲良くさせて頂いておりましたし、それに」
 それじゃ足りない。もっと、もっと、もっとだ。
「あのな、ユーグ」
 アレクはようやく振り返ると、ユーグの足へ視線を落とした。
「ライナス殿が亡くなった時、俺はロランにこう言ったんだ。裏切り者を見つけたら、そいつに目印を付けておけってな」
 ユーグの目が微かに見開いた。
「……目印……?」
「そうさ、目印だ」

 あの日そう提案したアレクの言葉に、うんざりという表現が一番しっくりくる表情をしてみせた、ロランのその顔を思い出す。
『―――目印って何だよ、鈴でも付けろってのか? そいつが大人しくその目印とやらを付けっぱなしにしてくれる訳が無いだろが、この馬鹿が』
『馬鹿とは何だよ、お前を心配してやってるこの俺の優しさが分からんとは、お前こそ大馬鹿者だ……!』
 そう言い舌を出してみせると、ロランは呆れたとばかりに肩を竦めた。
『じゃあ聞くが、敵が外してしまう事も無く、尚且つ目印だと気付かれず、だがお前には気付いて貰えるような目印って何だ』
『う……そ、それはだな、そうだな……』
『ほらみろ、そんなもん思い浮かぶかよ』
『――――あ、そうだ、そいつに噛みついて歯型付けるってのはどうだよ!』
 完全に苦し紛れに口にした言葉である。ロランの目が冷たいものになったが、だがもう後には引けない気分だった。
『そうだな、右腕に付けた歯型は“命の危機、至急助けろ”、左腕は“相手の出方を待て”、右足は……』
『分かった分かった、もういい。それで? 俺が内通者を発見したが掴まり、お前の言う通り歯型を残したとする。そうしたらお前は、何万もいる国王軍の兵士一人一人の腕と足を調べるわけだ。そりゃご苦労さん』
『くう………』
 これ以上言葉を続ける事が出来ないアレクには、ロランが勝ち誇ったようににやりと笑ったように見えて、無性に腹が立ったのだった。


「――――そんな、馬鹿な事を。つまり目印とはこの歯型の事ですか」
 ユーグは幾分呆れた顔になった。
「確かに国王軍兵士全ての腕と足を調べるなんて事、出来る訳がねえ。そんな話はその時限りの只の戯言だ。だがお前が内通者なら話は別だ、お前の怪我なら俺が気付く可能性は高い。いいや、必ず気付くとあいつは思ったんだ。例え戯言でも、俺ならその傷の意味が分かると」
「アレク様、冗談は止めて下さい……! この歯型は酒場で付けられたと、先日ちゃんと説明致しましたよね。たかがそんな戯言の為に、たまたま付けてしまったこの傷口一つで、この私を…九年間貴方にお仕えしたこの私を、貴方はお疑いになると言うのですか……!」
「ああ、そうだ……!」
 アレクは吐き出すように叫ぶ。ユーグに負けぬように、というよりは、ユーグを疑いたくない己に負けぬように叫んだ。
「俺だってこの数日散々悩んだんだ。けどな、たかが酒場の喧嘩くらいで、そんな肉が抉れる程に深い歯型なんか付くもんかよ! それに俺がその傷を、たまたま偶然の一致で済ませちまったら……それでやっぱりその傷がロランの残したものだったら、俺はあいつが死に物狂いで俺に託したメッセージを、踏みにじることになる」
「アレク様……そんなの、只の貴方の思い込みです。ロランさんはそんな戯言など覚えてはおらず、私の傷はただの偶然。貴方の言う事には何の根拠もありはしません。それが真実なのですよ」
 ユーグは優しい口調で、アレクの間違いをそう諭そうとする。九年間、何度こうやってユーグに過ちを諭されただろうか。時に厳しく、時に優しく。
「ああ……そうだな、そうかもしれない。こんなの、只の俺の思い込みでしかないのかもしれない」
「そうですよ、アレク様。分かって頂けましたか」
 アレクの肩にそっとユーグの手が伸ばされた。その腕を、アレクは掴む。
「―――――もしも……」
「え?」
「もしも、これが只の俺の妄想でしか無く、お前に無実の罪を追わせただけなのだとしたら、俺の命をお前にくれてやる」
「―――――は……?」
「お前が九年間誠心誠意で仕えてきた、ハーディロン領次期領主、アレク・ハーディロンの命をお前にくれてやると言ってるんだ。俺がそこまで覚悟を決めたんだ、お前も覚悟を決めて、俺と共に死ね……!」
「な―――何を言っているんですか、何を……そんな、馬鹿な……」
 ユーグは化け物にでも出くわしたかのような目で、アレクを見る。彼は掴まれた手を振り払うと、一歩後ずさった。
「逃げようとしても無駄だぞ、ユーグ」
 アレクは剣を引き抜く。
 それと同時に、アレクの背後にクリユスとバルドゥルが、ユーグの背後にフリーデルとハロルドが姿を現した。
「これは……」
 剣を手にユーグを囲む皆の姿を認め、ユーグは目を剥いた。
「ロラン程の男をああもあっさり殺しちまえるような相手に一人で対峙する程、俺は愚かじゃ無いんだぜ、ユーグ」
 数日悩んだ末、クリユスに話し掛けられたのをきっかけに、アレクはユーグを疑っている事を彼に打ち明けたのだった。

「………くく……」
 下を向き、両手を腰に当てながら、ユーグは低く笑った。
「まさかこれ程薄情な方だとは思っていませんでしたよ、アレク様。たかがこんな歯型一つで九年間お仕えしたこの俺を、こうもあっさり切り捨てなさるとはね。まあ、所詮主従の仲なんてのは、こんなもんかな」
「ユーグ」
 顔を上げたユーグは、今まで見た事も無いような、酷薄な笑みを浮かべていた。
「動くな」
 ハロルドが声を張る。
「抵抗しなければ殺しはしない、お前には聞きたい事が山ほどあるからな」
「はいはい」
 ユーグはあっさりと両手を上げた。その両脇を、フリーデルとバルドゥルが抑える。
「ユーグ……!」
 大声で叫び、暴れ回りたい衝動をアレクは必死に抑えた。この期に及んでも連行されて行くユーグを取り戻したいと思ってしまう。自分自身の手で、誰よりも大切な相手を谷底に突き落としたのだというのに。
 この選択が本当に正しかったのか、自分はこれで後悔しないのか、答えは全て闇の中だ。何一つ見えやしない。
 アレクは剣をぽとりと落とすと、床に崩れ落ちた。

 けれど、確信していることなら一つだけある。あのユーグの足に付けられた歯型は、ロランの“声”だ。
 最後の最後に、俺に送った奴の声なのだ。
 例え何を失ったとしても、それを無視する事だけは出来なかった。
「馬鹿野郎……俺にこんなことやらせやがって。お前、酷い奴だよなぁ……」
 窓の外を見上げ、アレクは空を眺める。

 それでも、俺受け取ったぜ。
 友の、声を。














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