96: 白い月2 強い。 剣を合わせながら、ロランは思う。 ユーグとして軍に居た時とは全く違う。剣さばきも、速さも、何もかもが。 彼に対する皆の評価は、剣や弓、槍を全てそつなく器用にこなすが、逆に特出したものもなく全て平均点、といったものだった。 ロラン自身も今までに何度となくユーグと剣を合わせたが、負けた事は一度も無い。 それが今は、目の前のこの男のペースに乗せられ、ただ剣を弾き返すだけで精一杯なのである。しかも相手は薄ら笑いを浮かべ、余裕の表情であるというのに、だ。 「おいおい、どうしたんだよ、息が乱れてるぜ」 そう楽しそうに笑うロドリグの顔が腹立たしかった。 「黙れ!」 放った剣は、しかし簡単に弾かれる。 この男を倒し、そして早くユリア様の元へ戻らねばならないのに――――。 ロランの心の中に焦りが生まれる。それが更に彼の剣筋を鈍らせた。 剣を合わせた時、ほんの一瞬ロランは体勢を崩した。その隙をロドリグが見逃す筈も無く、彼の剣がロランの脇腹を掠める。 「く……!」 そして返す刃でロランが手にする剣を弾き飛ばす。剣はあっさりと空を飛び、少し離れた地面に突き刺さった。 「なんだよ、これで終わりか? 詰まらないなあ」 しゃがみ込むロランの首に剣を付きつけながら、ロドリグは残念そうに肩を竦める。だが見下ろすその目は、これからこの獲物をどう嬲ろうかと、嬉々と思案する獣のそれだった。 「ロドリグ、遊んでいないで早く始末しろ」 その時小屋の入り口から、そうロドリグに声を掛ける老人の声が聞こえた。咄嗟にそちらへ目をやると、扉の隙間からちらりとその姿が見えた。 その酷薄な台詞とは裏腹に、細く目尻の垂れた、優しそうな目をした老人だった。一瞬だが間違えようも無い、ユーグにそっくりな顔をした老人である。 「じーさん、か……」 もう今更驚きも感じなかった。ユーグはトルバの暗殺部隊の人間であり、人の良さそうであったあのユーグのじーさんは、その暗殺部隊長だったという事だ。 それならそれで、むしろ良かったとロランは思う。ユーグの裏切りに心を痛める人間が、これで少なくとも一人は減ったのだから。 「やれやれ、ベクト様に怒られちゃったよ。もうちょっと遊びたかったけど、仕方が無いな……」 ロドリグは剣を握りなおした。瞬時にその瞳の中に殺意が宿る。 「―――――――!」 殺される。 立ち昇る圧倒的な闘気にロランは息を呑む。 自分の腕ではこの男には敵わない、そう悟ったロランは、とっさに土を掴み目前の男の顔に向かって投げつけた。 「う、わ……!」 避けそこなった僅かな土が目の中に入ったようで、ロドリグは身体を折ると、痛そうに目を押さえた。ロランはその隙に木々の隙間に飛び込むと、森の中に身を潜ませる。 「痛た……酷い事をするなあ。おーい、無駄な足掻きをするなよ、どうせお前はここから逃げられねえよ」 後ろから嘲る声が聞こえたが、無視してロランは森の中を駆けた。 逃げてみせる。何としてでもユリア様の元へ帰るのだ。 ただ逃げるしかない己の力量の無さが腹立たしい。出来る事なら、刺し違えてでもこの手であの男を倒したかった。だが今は己の憤懣などよりも、ユリアに御身の危険を告げる事の方が重要だった。 それに―――――それに、アレクに一言謝まらなければ。 敵の罠にあっさりと嵌り、裏切り者だと疑った事をあいつに謝らなくちゃならない。 それまでは、敵に捕まる訳にはいかないのだ。 走る度に脇腹からじわりと血が滲み出る。先程ロドリグに付けられたばかりの傷である。傷自体は深くはないが、出血は思ったよりも多い。このまま流れるに任せていてはやっかいだった。 何か止血出来る者は無いか、と思い。ふとロランはあるものに気が付いた。あるではないか、例のお守りが。 ロランは一旦茂みの中に身を潜ませ、腰に付けている小さな荷袋から包帯を取りだした。お守り代わりにずっと持っていた包帯だった。 いつかユリアがロランの頬の傷を手当てしてくれた時に、彼の顔をぐるぐる巻きにしたものである。 こんな時だというのに思わず口が笑みを作ってしまう。 ――――やっぱり貴女は月の女神だ。 美の神であると同時に、癒しの神でもあるフィリージュ。貴女の事を考えるだけで、心がこれ程に穏やかになるのだから。 戦場でユリアに傷の手当てをしてもらった兵士達の間で、その包帯をお守り代わりにして持ち歩く事が流行っている事を、彼女は知っているだろうか。 何の役にも立つことが出来ないと彼女自身は思っているようだったが、ただそこに居るだけで皆の希望になっているのだ。それで充分ではないか。人質同様にティヴァナへ行く必要なんか、ありはしないのだ。 掌で包帯をぎゅっと握りしめたあと、手早くそれを腹に巻きつける。そして再び腰を上げたその時、すぐ横の木に弓矢が刺さった。 「おーい、いい加減に観念して出て来いよ、ロラン」 左程遠くない距離からロドリグの声が聞こえた。彼は弓を手にしている。だが、こっちの正確な居場所が知れたわけでは無いようだった。 森の出口まであとひと走りだ。このまま飛び出しても木々が邪魔をして、そう簡単には射抜かれる事もないだろう。森を抜ければ、馬を繋いである。それに飛び乗ればロドリグが森を抜け出た時には既に射程圏外まで逃げ遂せている。 いくか―――――。 腹の包帯に手を当て目を閉じると、もう一度ロランはユリアの顔を思い浮かべた。女神フィリージュよ、どうかご加護を。 ロランは意を決して飛び出した。 「お、そこかよぉ」 愉快そうな声と共に、矢継ぎ早に弓矢が飛んでくる。 一つは肩を掠め、もう一つは木の枝が阻んでくれた。 もう少し、あと少しで出口だ。 足場の悪い道を、ロランは全力疾走する。 その右太腿に矢が刺さった。 「く………っ!」 思わずよろけたが、直ぐに体勢を立て直す。 馬に飛び乗ってしまえば足なんて関係ない。今、あともう少しの間だけ走れればそれでいい。 前方に光りが見えた。森の出口はもうすぐそこだ。 アレク、ユリア様、イアン―――――。 既に走っている感覚が無い右足を無理に前へ前へと押し出し、ロランは森を抜けた。 「はあ、はあ……や、やった」 待たせていた馬は無事にそこに居る。木に繋いである紐を解くのももどかしい、ロランはそれを小剣で立ち切ると、急いで馬の背に飛び乗った。 「はっ」 手綱を取り馬を走らせる。馬はロランを乗せ、森からどんどん離れて行った。 ちらりと後ろを振り返ると、丁度ロドリグが森から出て来た所だった。 だが既にもうロランは弓矢の射程範囲外に出ている。ロドリグの姿など、もう豆粒程の大きさにしか見えなかった。逃げ切れた、助かったのだ―――。 ほっと安堵の吐息をもらし、視線を前方へ戻した時、突然背中に衝撃を受けた。 「え……?」 その衝撃はロランを馬から弾き飛ばした。 何が何だか分からない。分からないまま、彼は地面に転げ落ち、そのまま何度か転がった。 (何だ、何が起こった――――?) 身体が止まった所で、ようやくロランは背中を確認する。矢である。転がった時に折れてしまっていたが、確かに矢が彼の背中に喰い込んでいた。 (そんな馬鹿な――――) そんな筈が無い。これだけの距離がありながら、矢がここまで届く筈が無い。例え届いたとしても、これほど正確に射抜ける筈が無い。 ロラン自身己の弓の腕には充分自信を持っていたが、それでもこの距離で、こんなに小さな的を射抜くことなど不可能なことだった。多分、それはクリユスでさえ難しい事だろう。 だというのに、あの男はそんな難事をあっさりとやってのけるというのか。そんな、馬鹿な。 「く……」 力を振り絞り、ロランはなんとか立ち上がる。馬は走り去ってしまった。もう自力で逃げるしかないのだ。 再び歩き始めるロランの肩に、衝撃と共に次の矢が突き刺さった。今度は倒れる事無く、一、二歩よろけただけで必死にその場に踏み止まる。 もう間違いなかった。その矢は偶然ロランを捕らえた訳ではない、ロドリグはこの遠距離でも獲物を射抜く事が出来るのだ。 ならば尚の事ユリア様の元へ戻らなくてはならない。ロドリグに命を狙われたら、恐らくクリユスがユリアの傍に付いていたとしても、彼女を守る事は出来ないだろう。 伝えなくては、命が危険に晒されている事を。這ってでも、なんとしても城へ戻るのだ。 「ぐ……っ」 更にもう一本背中に矢が喰い込む。身体の内側に燃え滾るような熱さを感じ、次の瞬間ロランは大量の血を吐きだした。 「はあ…っ、はあ……」 王都はまだ遠い。鉛のように重い足を、もう一歩前へ動かした。 「―――――必死に無駄な抵抗してる人間って楽しいけどさあ、そこまで泥臭く頑張られると、ちょっと引いちゃうよなあ」 呆れたように言うロドリグの声が、直ぐ後ろから聞こえた。 「………!」 荷袋から短剣を取りだし慌てて構えようとしたが、それよりも早く足を払われ、その場に倒れ込む。 うつ伏せになっているロランの腰をロドリグは踏みつけた。 「あーあ、まるでハリネズミだな。痛々しくて見てらんないなあ。そうだ、俺が抜いてやるよ」 くすくすと笑うと、ユーグは無造作にロランの背に突き刺さった矢を引き抜く。 「ぐ……あぁ………………ぁ!」 肉を裂く激しい痛みが彼を襲った。気が遠くなりかけ、だが次の矢が引き抜かれる痛みでまた正気に戻った。 ――――こんなところで、俺は死ぬんだろうか。 苦痛に耐えながら、彼の心に絶望が過ぎる。こんなところで、こんな奴にあっけなく殺されてしまうのか。そんな馬鹿なことがあってたまるかよ。 死にたくない、まだ死にたくない。まだ俺は何も成し遂げてやしないんだ。イアンの復讐も、ユリア様の願いを叶える事も、何一つ……! イアン、助けてくれ。まだお前に会いに行く訳にはいかないんだよ。 アレク、会ってお前に謝らせてくれ。ユリア様、貴女に危険を報せなくては。 こんな所で死ぬわけにはいかない。戻らなくては――――。 ロランは少しでも王都へ近づこうと、出来る限り手を伸ばした。その手はロドリグに踏みつけられる。 「だから無駄に足掻くのはよせって。この状況で俺から逃げられる訳無いだろう、それくらい理解しろよ」 愉悦だけだったその声に、少しばかり苛立ちが混じった。 「お……まえ、なん、かに……。俺が……殺せる…かよ」 顔だけロドリグの方へ動かすと、ロランは口の端を上げてみせる。 「は? 何言ってんのお前? 血を流し過ぎて、頭がイカれちゃったのか?」 へらへらと笑っているロドリグの靴に、ロランは唾を吐きかけた。 「お前に、俺は殺せねえ、よ」 今度ははっきりと、ロドリグの顔に怒りが滲む。 「ふうん、面白いな。お前がその強がりをどこまで言えるのか、試してやるよ」 そう言うが早いか、ロドリグはロランの肩にある矢傷を踏みつけた。 「ぐ………!」 抉られるような痛みに、だが声を上げるものかと歯を食いしばる。全身から油汗が滲み出た。 「痛そうだなあ。ほら、意地はってないでみっともなく命乞いでもしなよ。そうしたら苦しまずに死なせてやるかもしれないぜ」 「誰、が……お前に命乞いなんか、する、かよ……」 お前に俺は殺せない。俺の想いを、俺の心を、お前なんかに殺せやしない。 「ふん、そうかよ」 傷口をただ踏みつけるのにも飽きたのだろう、ロドリグはロランの肩から足を離した。その瞬間に、ロランは渾身の力でその足にしがみつくと、脛に思い切り噛みついた。 「ぎゃぁあ………!」 ロドリグは悲鳴を上げた。噛みちぎるつもりで噛みついている。傷口からは血が流れた。 「貴様あ……!この、つまらない真似をするなよ、死にぞこないが……!」 憤怒の形相で、ロドリグはロランを何度も蹴りつける。 まるで人形のように彼の身体は撥ね、地面を転がった。 「―――――は、は」 ロランの口から乾いた笑みが漏れた。 仰向けで地面に寝転がった時、彼は空が青い事に気付く。全く、今日はいい天気だった。 肋骨が何本か折れただろうと、他人事のように彼は思う。もう起き上がる事も出来ない。 目だけをロドリグの方へ向けると、肩で息をしている彼の姿が見えた。やはり何度その顔を眺めてみても、ユーグとロドリグが上手く結び付かない。同じ顔をした別人のように思えてならなかった。 ―――それにしても、ユーグがハーディロン家に仕えるようになって八年、じーさんが王都へ居を構えたのが七年前。その頃はまだ他国にとってフィードニアは取るに足らない小国だった筈だ。だというのにそんなに前からフィードニアに目を付けていたのだとしたら、トルバは随分と先見の明を持つ者がいたものである。 いや、もしかしたら国の大小に関わらず、全ての国に密偵をちらばしているのだろうか。そして着々と中枢部に喰い込み根回しをしていったのだとしたら、連合がこれほど迅速に結ばれていったことも頷ける。 (これも早く、クリユス隊長に報告しなくちゃな……) ふと、空に白い月が浮かんでいるのが目に入った。昼の空に浮かぶ、白く細い三日月だった。 ロランは唯一動く左腕を動かし、その月に向かって手を伸ばした。 ―――――ユリア様に、逢いたい。 綺麗な月だと思った。今にも消えてしまいそうに、細く頼りなさげに見えるのに、どこか悠然としている。 「許さねえ。お前、楽に死ねると思うなよ……!」 叫ぶその声は、彼の耳には遠いもののように聞こえた。 ロランは目を瞑る。 ―――――イアン、ごめん。 お前の仇を討てなくてごめん。 そのうえ俺は、お前の仇に祈ろうとしている。 けどロドリグを倒す事が出来るのは、きっとあの男しかいないんだ。憎いお前の仇であるあの男しか。 情けない兄貴でごめんな、イアン。 (ジェド殿、どうか―――ユリア様を守って下さい。彼女を、何者からも守って下さい。どうか、お願いします) けどお前も解ってくれるよな。お前にとっても、彼女は最愛の人だったんだから。 兄弟そろって月の女神に恋するなんて、ほんと馬鹿だよなあ。 |
TOP 次へ |