95: 白い月1





 夢を見た。ユリア様の夢だ。
 何が悲しいのか、彼女はその大きな瞳から涙をぽろぽろと流し続ける。
 ――――どうか泣かないで下さい、ユリア様。
 口にした言葉は、しかし彼女には聞こえないようだった。
 せめてその涙を拭ってあげたいと願うが、まるで見えない壁に阻まれているかのように、体を動かすことが出来なかった。
 思い切り手を伸ばす。触れられそうな位置にいるというのに、その手は何故だかどうしても彼女には届かない。
 ――――ユリア様……!
 叫び声はやはり虚空に消え、彼女はただ、静かに泣き続けた。

 何が彼女をそのように泣かせているのだろう。どうすれば泣き止んでもらえるのだろう。
 貴女が笑ってくれるのなら、俺は何だってしてみせるのに。





 変な夢を見たものだなと、ロランは思う。
 どうせユリア様の夢を見るのならば、笑顔の彼女の夢を見たかったものだ。
 どうにも落ち着かず、ばりばりと頭を掻き毟る。何故だろうか。昨夜見たその夢に、ロランはどこか胸騒ぎを覚えていた。
 先読みの力なんぞがある筈も無いのだが、彼にはその夢が正夢に思えてならなかった。
 そして恐らく、その危惧はあながち外れてはいないのだろう。もしティヴァナでクリユスが殺されるようなことがあれば、彼女が泣かない筈がないのだから。
 夢を正夢にしない為にも、自分は裏切り者をこの手で捕まえねばならないのだ。そう決意を新たにした時、ことり、と聞こえた音に瞬時に現実に戻され、ロランは慌てて顔を上げた。
 いつものごとく見張っていた、トルバ暗殺部隊長が仮の住まいとしている家の戸が開き、中から一人の老人が出てきた。
(あいつが、トルバの暗殺部隊長、ベクトなのか)
 フードを深く被っている為顔は見えなかったが、背は低く、腰が曲がっている所から推測するに、随分と歳のいった老人のようだった。
 すぐ様後を追いかけようとし、ちらりと「一人で行動するな」と言っていたバルドゥルの言葉を思い出す。
 だがここで彼を呼びに行っていたら、あの老人の姿を見失ってしまうのだ。どうするべきか迷った時、再び今朝の夢が頭をちらついた。
 今回の好機を逃してしまったら、次に同じ好機が訪れたとしても、きっと二人のティヴァナ行きを止めるには間に合わない。
 ロランはバルドゥルの言葉を頭の中から消し去り、構わず老人の後を追いかけることにした。

 老人は中央区を抜け、西地区を通り過ぎる。西門から外へ出ようとしているのを察知したロランは、急いで近くの商家から馬を借りた。
 西門へ戻ると、丁度老人が門を通り抜けようとしている所だった。門番は特にその老人を怪しむ様子も見せず、手形をちらりと見ただけですんなりと通してしまう。
 外から中へ入るのに比べれば、中から外へ出る方が比較的警備は薄いものではあるが、それだけでは無く恐らく手形も巧妙に偽造された物を持っているのだろう。だからトルバの暗殺部隊の人間が、すんなりとこの王都へ出入り出来るのだ。
 これも何とかしなければならない問題だろう。クリユスに報告するべき件がまた一つ増えたなと、ロランは思った。

 再び老人の後を追うと、彼は門の外の木に繋いであった馬に乗った。先回りして馬を借りておいてよかった。ロランは自身も馬に跨ると、老人の姿を見失わないよう、しかし極力離れて後を追った。
 そして半刻程馬を歩かせた所で、老人は森の中へと入って行く。これ以上騎乗のままで後を追えば、追跡がばれてしまうだろうと判断し、ロランは森の入り口付近で馬を木に繋いだ。
 老人の姿は既に無かったが、人と馬とが通った痕跡を辿り森の中を進んだ。
 暫く歩き見つけたのは、小さな小屋だった。先程の老人が乗っていた馬が、小屋の脇に繋がれている。
 ロランはその小屋にそっと近づくと、息を殺し中の様子を伺う。
 中から話し声が聞こえた。どうやら老人と、他にもう一人若い男が居るようである。
 ――――アレクだろうか。
 そう思うと胃がきりきりと痛んだ。
 ここにいるのがアレクであれば、奴が裏切り者であることにもう間違いは無いだろう。話の内容をもっと聞こうと、ロランは扉の隙間に耳を押し付ける。
「―――様の命だ。ティヴァナとフィードニアの同盟を、なんとしても阻止せねばならぬ」
 こちらは老人の方の声である。
「そうですね、大国二つに同盟を結ばれては、流石にやっかいだ」
 そしてこっちが若い男の声である。アレクの声とは違う気もするが、だがそれにしてはよく知る声のような気もして、はっきりと違うという確証は持てなかった。
 しかし、声がどうこうというよりも、注目すべきはその内容である。トルバがフィードニアとティヴァナとの同盟を既に嗅ぎ付け、そしてそれを阻止しようと動き始めているのだ。
「近々フィードニアはティヴァナへ使者を送るようじゃな。ロドリグ、その船をティヴァナへ着かせるな。―――必要ならば、フィルラーン共々皆殺して構わぬ」
(―――――な……)
 ロランは驚愕に息を呑んだ。フィルラーンを、ユリア様を殺せと言ったのか。
 馬鹿な、神の子であるフィルラーンを殺すなど、そんな不遜は有り得ぬことだ。トルバは神の怒りを買っても構わぬというのか。
 神を神とも思わぬその行為は、ロランにとって狂気の沙汰であるとしか思えなかった。
「フィルラーンをね…それもハイラム様からのご指示ですか? 神に背くとは、あの方も必死というわけだ。別に俺は構いませんけどね、死ぬ瞬間は神の子も人の子と同じように恐怖で顔を歪めるのかな。楽しみだなあ」
 くくく、と男は笑った。

 狂っている。まるで血に飢えた獣ではないか。
 こんな奴にユリア様の命が狙われているのかと思うとぞっとした。だが今これを知る事が出来たのは幸運である。ならば我等は全力でそれを阻止するのみだ。
 今は裏切り者の正体など、もうどうでも良かった。兎に角一刻も早く戻って、ユリア様にこの事をお伝えせねば。そしてティヴァナ行きをなんとしても中止してもらうのだ。
「――――所でベクト様、貴方の家の周りをうろつく鼠は、結局一匹だけでしたよ」
 王城へ戻る為その場を立ち去ろうとしたロランは、だが小屋の中から聞こえたこの言葉に身体を固まらせた。
「エルダがあの家の存在をばらすことなんて、初めから予測していた。我らに誘き出されているとも知らずにのこのこと嗅ぎまわって、本当に馬鹿な鼠です。しかもどうやらたった一人の探索者のようですよ。何故だと思います? 内通者と疑わしき人物を、けれど確証が持てるまで己一人の心の内に納めておきたいんですよ。はは、笑っちゃうなあ。――――お陰でお前一人殺せば追跡者はあっさりといなくなる訳だ、ロラン」
「…………!」
 ロランは咄嗟に後方へ飛びずさると、剣を引き抜く。
「あれ、驚いてるの? お前みたいな素人の尾行に我らが気付かないだなんて、本気で思ってたわけかな。全くおめでたいね」
 きい、と扉が開く。薄暗い小屋の中から男の影が浮かぶのと同時に、ロランは地面を蹴って横に跳んだ。先程まで彼が立っていた地面に三本の小剣が突き刺さる。
 ロランはそのまま木の陰に身を潜め、小屋から出て来る足音に耳をすませた。
「なあ、隠れてないで出て来いよ。俺の正体が知りたいんだろう? こうして姿を現してやってるんだ、感動の対面といこうぜ」
 愉悦の声が響いた。何が感動の対面だ。
 足音が近づいて来る。一歩、二歩。
 そしてもう一歩――――。
 ロランは木の陰から躍り出て、目の前の敵に向かい剣を振り上げた。
 男と目が合った。男はにやりと笑う。

「な――――――」

 頭上に掲げた剣を、ロランは振り下ろす事が出来なかった。驚愕に目を見開き、彼はその場に固まる。
「お前……? 何で……」
 状況が理解出来なかった。何でお前が今ここにいるんだ?
 目の前の男はいかにも愉快そうに顔を歪めた。
「あははは、ほら、その顔を見たかったんだよ、その間抜け面をなあ。傑作だよ、ロランさん」
 男はそう言い目を細める。
 その顔はロランの良く知る男のものであるが、だがその笑みは全く別人としか思えぬ程に醜悪だった。そしてその声は確かに聞き覚えがあるものではあったが、これ程に悪意の籠ったものである筈がなかった。
「何で――――嘘だろう、ユーグ……」
 力無くロランは呟く。何かの冗談だとしか思えなかった。
「嘘ですよ、って言ったらあんたは信じるわけかい、ロランさん。愚かしい問いだよ、それ」
 ユーグの顔をした男は、嘲るように言う。愚かしくあろうとも、それでも問わずにいられないのだ。お前は本当にロランの知るあのユーグなのかと。同じ顔をした別人なのではないかと。
 もし別人だと言ってくれたなら、きっとロランはそれを信じただろう。顔は同じでも、それ程にこの男の持つ雰囲気は、ユーグの持つ優しさや生真面目さとは程遠いものだった。
「……アレクの命でこんなことをしているのか?」
 聞きたくない事だったが、ユーグの顔を見た時に一番に思ったことはそれだった。ハーディロン家に仕えるこの男が国を裏切っているというのは、むしろアレクに追従しての事に思える。
 だがその言葉にユーグは可笑しそうに笑った。
「あの能天気なお坊ちゃんが密偵なんて真似出来るわけないだろう。そんな事しようとしても、すぐにボロが出て捕まるのがオチさ」
「だけど俺は、あいつがお前達暗殺部隊の隠れ家へ入って行くのを見たんだぞ」
「ああ、あれ? あれはただ単に、アレク様に野菜のお裾わけを持って行ってもらっただけさ。あんたがあの家を見張ってるのが分ってたからな。面白かったなあ、たったあれだけの事でまんまと騙されてくれちゃって、喧嘩まで始めちゃってさ。可笑しくて笑いを堪えるのに必死だったよ」
「なん、だと」
 頭を殴られたような衝撃をロランは感じた。では全てはこの男の手の内で、ただいいように踊らされていただけだということなのか。
 剣を握る手が震えた。言いようの無い怒りが沸き起こる。
「やっぱり、お前はユーグなんかじゃない……」
 ユーグがアレクの事まで嘲り、侮蔑するわけがない。人の心を弄び、愉悦する筈が無い。
 この男は、同じ顔をした別人に過ぎないのだ。
 そうでなければ、ユーグの為にあれ程怒り、喜び、悲しむアレクの心はどうなるというのだ。
 兄のように信頼していた存在から裏切られていたと知ったら、アレクはどれ程衝撃を受けるというのか。そんなこと考えたくも無かった。
「ああそうだ、俺の名はロドリグ。ユーグなんて男は初めから存在してやしなかったのさ。けどその幻をまんまと信じちゃって、みんな馬鹿だよなあ。特にアレク坊ちゃんなんて―――」
「五月蠅い。もう、黙れ」
 ロランは剣を構える。
 この男だけは、許せない。
「あれ、怒っちゃったわけ?」
 ユーグ―――いや、ロドリグはそうけらけらと笑う。
「そうこなくっちゃな、呆けてる奴を殺しても面白く無い。せいぜい抵抗して楽しませてくれよ」
 まるで舌なめずりをするように唇をぺろりと舐めると、ロドリグはゆっくりと剣を鞘から引き抜いた。













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