91: ダーナ ダーナはクレンタール家五人兄妹の三番目の子供として生まれた。 上から順に兄に姉、そして妹と弟である。 彼らは皆一様に学術に優れており、それぞれが剣術や馬術など秀でた特技を持ってもいた。 優秀な子供達はクレンタール家の自慢でもあり、誇りであった。 そう、たった一人を除いては。 優秀な兄妹に挟まれ、しかしダーナ一人は何においても優れたところは無く、全てにおいて兄妹達に劣っていたのだ。 両親には努力が足らないのだと叱責され、そんな彼女に兄姉は同情し、そして妹弟は馬鹿にした。 (何故私はこんなに何もかもが駄目なのかしら) 自然と彼女は兄妹達に劣等感を抱きながら育つようになる。 しかしそれが一変する出来事が彼女に起こったのだった。ダーナが十七歳になったばかりの頃、今度新しくフィードニア国へお迎えする、フィルラーンの世話役に選ばれたのである。 フィルラーンの世話役というのは、大変名誉な仕事であるのと同時に、上級貴族と同等の身分が与えられるという高貴な仕事なのである。この大抜擢に両親は勿論、兄妹達も歓喜してくれた。 数多の候補者達の中から彼女が世話役に選ばれた理由は、フィルラーンの少女が歳の近い女性を希望していたというから、あるいはただ単にダーナが一番その条件に合っていたという、たったそれだけの理由なのかもしれない。だが彼女にとってはそれでも構わなかった。 両親や兄妹が初めて自分を誇りに思ってくれている。良くやったと褒めてくれる。それがダーナには嬉しくて堪らなかったのだ。 (きっと立派にお勤めを果たそう。クレンタール家の誇りとなれるように) 決意と共に、ダーナはフィルラーンの塔へと上がった。 フィルラーンの少女は、とても美しく優しかった。 まるでお伽話のお姫様である。この方に仕えるのだと思うと、胸が高鳴り、そして同時に緊張もした。 少し前まで優秀な兄妹の間で小さくなっていた自分が、今はこの華のように美しく、高貴な方の傍らで働いているのだ。どこか現実味が無く、夢うつつの中の出来事のような日々だった。 それが禍したのは、ダーナが塔へ来てから十日後の事だった。彼女はしてはならない失態を犯したのだ。 事もあろうに、ダーナは手にした水差しを、フィルラーンの少女の真上で取り落としたのである。 「ああ………!」 水はフィルラーンの少女の身体と、白い衣装をびしょびしょに濡らした。 「も……申し訳ございません、ユリア様……!」 言いながら、血の気が頭から一気に消え去った。やってしまった。なんて失態を……! これで自分は世話役を下される事になるだろう。たった十日のお勤めでお役目を下されるだなんて、いい笑い物である。クレンタール家にどれだけ恥をかかせることか。 やっぱりお前は駄目な子なのだと、両親はどれだけ落胆するだろう。折角初めて尊敬の目を向けてくれた妹や弟は、再び自分を見下すに違いない。 「申し訳ありません、申し訳……」 ぶるぶると手が震えた。謝って許してくれるとは思っていなかったが、彼女にはもうそれしか出来る事が残されていなかったのだ。 「ダーナ……それはいいから、何か拭くものを持ってきてはくれないかしら」 「あ…は、はい。今すぐ……!」 処刑台の上に上った囚人のような気分で恐る恐る顔を上げると、フィルラーンの少女は思いがけず、くすりと笑った。 「そこまで怯え無くとも良いのですよ。火傷したわけでもなく、幸い只の水なのですから」 「いえ、けれど、このような失態を、私は……」 未だ身体を震わすダーナに、フィルラーンの少女は少し肩を竦ませる。そして床に転がったポットを取り上げると、残りの水をダーナにぱしゃりとかけた。 「あ……きゃ……! ユリア様、何を」 「ふふ、うふふ……っ」 少女は突然、可笑しそうに笑いだした。 「これでお相子。これくらい何でも無いでしょう、服を着替えればいいだけなのだから。さあ、着替えに行きましょう」 笑いながら、少女はダーナの手を引っ張った。 そして勿論、この一件の後もダーナは世話役を下されたりはしなかったのである。 ユリア様。この時私がどれだけ安堵し、どれだけ救われたのか、貴女にお分かりになるでしょうか。 貴女にとってはほんの些細な出来事だったかもしれない。だけど私はこの時、ユリア様に一生、心からお仕えしようと心に決めたのだ。“フィルラーンの少女”ではなく、“ユリア様”に、貴女にお仕えするのだと。 それが私には心から嬉しく、そして誇りであったのだ。 王城の中庭で、ダーナはゆっくりと深呼吸をした。 (大丈夫、大丈夫……) そう己に言い聞かせても、ダーナの胸は依然早鐘を打っている。 (落ち着いて……) 再び息を吸い、ゆっくり吐き出す。 その時、背後からガサリと葉が揺らされる音がした。そちらへ振り向くと、形よく整えられた木々の間から、一人の男が姿を現す。 「待たせたな」 その男はダーナを確認すると、そばかすを蓄えた顔に笑みを作った。 「いえ、あの…私も今来たところですから。来てくれて、ありがとうございます。メルヴィン様」 「まさか貴女に呼び出されるとは思っていなかったな、ダーナ嬢」 そう言いながら、意味ありげな視線をメルヴィンは寄越す。ダーナはその視線を避けるように、思わず下を向いた。 「そう硬くならずとも良い、お前の気持ちに私も悪い気はしていないのだから」 緊張で赤くなっている頬と俯いたその様子を、恥らっているのだと思ったらしいメルヴィンは、ダーナに近づくと彼女の顎に手を掛け、顔を上げさせた。 「あ……あの」 メルヴィンからは香油の匂いがした。着ている衣服はとても高価そうで、皺一つない。 同じ軍人でもラオ様とは随分違うものだと、ダーナは心の中で思う。 「ほう……ユリア様の陰に隠れて目立たなかったが、お前も中々可愛らしい顔をしている」 「いえ、私はそのような」 ダーナは辺りに目を泳がせた。――――合図はまだだろうか。 メルヴィンを姦計に嵌める手伝いをしてほしいと、クリユスがそう彼女に話を持ちかけて来たのは、今から数日前の事だった。 彼の話によると、ジェドの酒に毒を盛った張本人はメルヴィンなのだという。彼をこのままにしておけばフィードニアに未来は無いとクリユスは言った。 国王の従弟だからというだけでは無く、人を姦計に嵌めるなどとても恐ろしい行為ではあったが、しかしダーナは首を縦に振った。 フィードニアの未来を思った訳では無い。ダーナは個人的に、ジェドを暗殺しようとした犯人が許せなかったのである。 あの日、フィルラーンの塔へ瀕死のジェドが運ばれて来たその夜、ダーナは彼が眠るその部屋で見てしまったのだ。そう、ユリアの涙を。 元々ダーナは、ユリアが口で言うほどにジェドを憎んではいない事に気づいていた。 ユリアが彼を軍から排斥しようとする理由はダーナには分らなかったが、彼女の考えを知ろうとは特に思わなかった。 自分はただ、彼女に寄り添い彼女の手伝いが出来ればそれで良かったのだ。 そして彼女がジェドの無事を祈り涙を流す姿を見て、ダーナは確信した。やはりユリアはジェドを憎む振りをしていたのだと。 その姿が痛ましく、胸が締め付けられるようだった。彼女の為に何かをしたい。こんな風に彼女を苦しめた存在を許せないと、ダーナは強く思った。 そんな時、クリユスから話を持ち掛けられたのだ。断る選択肢などダーナには最早残ってはいなかった。 目の端にちかりと光りが見えた。クリユスの寄越した合図である。 (―――――今だわ) 「メ……メルヴィン様。わ、私は……貴方のことを、ずっと……」 “慕っていた”という言葉は、どうしても口にする事が出来なかった。ダーナは固く目を瞑ると、思い切ってメルヴィンの胸に飛び込む。 「ダーナ嬢……これは、意外に大胆な事をする」 驚きつつも、メルヴィンの手はダーナの背中を抱きしめた。 そしてもう片方の手が、彼女の頬へ伸びる。 ダーナは顔を上げると、息を吸い込んだ。 「い―――――嫌……! 止めて下さいませ、メルヴィン様……!」 「な―――――」 突然叫びだしたダーナに一瞬呆気に取られ、そして次に我に返ったメルヴィンは、ダーナの口を慌てて塞ごうとした。 「だ、黙れ、突然何を……」 「助けて下さい、誰か―――――」 その声に答えるように、少し離れた場所から「何だ何だ」と訝しむ人の声がした。 メルヴィンは慌ててその場から逃げようとしたが、ダーナがしっかりと抱きついて動けない。 「この、離さないか……!」 彼の平手がダーナの頬を直撃した。彼女の小さな体は簡単に弾き飛ばされ、地面に倒れ込む。 痛さで目がくらんだが、それでもダーナは叫ぶ事を止めなかった。 「この……」 メルヴィンの手がダーナに再び伸ばされようとした時、彼の頬の横に剣先が突き付けられた。 「―――――そこまでです、メルヴィン殿」 彼の後ろには、第五騎馬中隊長フリーデルが立っていた。 「そちらにいらっしゃるのは、フィルラーン世話役のダーナ様とお見受けしましたが、どういう事ですかメルヴィン殿」 フリーデルはメルヴィンに剣を突きつけたまま、眉間に皺を寄せ不快気な顔をした。 「ち、違う。私は何もしていない、この女が一人で喚いていただけだ」 現在の己が置かれている立場を理解したらしいメルヴィンは、青褪めながら必死に弁解をしたが、しかしフリーデルは剣を下ろしはしなかった。 「言い訳は結構です。この状況を見れば何があったのか想像するのは容易いこと」 「だから違うと言っているではないか! ……あ、ク、クリユス……!」 メルヴィンの視線を追うと、その先の木の陰から、クリユスが姿を現した。 「これは…騒がしいと思えば、そこに居られるのはメルヴィン殿でしたか」 涼しい顔でクリユスは言う。 「良かったクリユス、フリーデルに説明してくれ。私は何もしていない、この女に嵌められたのだ」 救いを求めるようにクリユスに駆け寄るメルヴィンを無視し、彼はダーナの元へ向かう。 「さて……何もしていないとは、私には思えませんが。お可哀想に、このように頬を赤くされて。女性に手を上げるとは、感心致しませんね」 「いや、それは」 クリユスはダーナの顔を覗き込むと、幾分申し訳なさそうな顔をする。その目に思わず「大丈夫です」と返事をしそうになり、慌てて口を噤んだ。 「女ではあるが、しかしこの私を嵌めようとしたのだぞ、クリユス」 半ば叫びにも似た声を出すメルヴィンに、クリユスは同情的な視線を寄越す。 「ダーナ様があなたを嵌めて何の得があるというのです? 失態を犯しましたね、メルヴィン殿。フィルラーンの世話役はフィルラーンと同じく神に仕える者。その彼女を凌辱しようとしたのでは、いくら国王の従弟であらせられたとて、少なくとも国王軍からの除隊は免れますまい」 「凌辱だと? 何を言って―――」 言いながら、メルヴィンははっとしたように目を剥いた。 「お前―――お前か。これはお前が仕組んだ事か、クリユス。この私を裏切るのか……!」 「裏切る? 何を仰っているのか分かりませんね。さあ、状況証拠は揃っています。残念ながら言い逃れは出来ませんよ、メルヴィン殿」 「貴様、よくも……!」 掴みかかろうとするメルヴィンの前に、再びフリーデルの剣が突き出される。 「御免」 鳩尾を剣の柄で殴られたメルヴィンは、くぐもった声を出し、そのまま地面に崩れ落ちた。 |
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