83: 喪失





「何という事だ……」
 ライナスを追いトルバへ潜入した兵士がもたらした報せは、フィードニア兵士達を重い空気に包み込んだ。
 連合国へフィードニアの情報を流していたのは他でもない、恐らくフィードニア国王軍内で一番皆が信用していたであろう、ライナスその人であったのかという疑惑。そしてそれにも増して、彼の弁明を聞く機会さえ与えられずに知らされた、ライナスの死である。
「何という事だ」
 再びブノワが呟くのを、クリユス含め軍務室に集まるフィードニア国王軍上級将校の面々は、皆一様に黙り込んだまま沈痛な面持ちでそれを聞いていた。
 ライナスの首は現在、トルバ国の王都中央にある広間に置かれ、民衆の前に晒されているらしかった。共に死んだエルダの首はそこには無い。ライナスに比べ、所詮名も無き一兵士である。恐らくどこかへ打ち捨てられたのだろう。
 無論女性の首を人前に晒すなどという行為はクリユスにとって許せるものでは無かったが、愛を貫き通した二人なのである、せめて彼らの躯を同じ土に埋めてやりたかったと思うと、ただそれだけが無念でならなかった。

 あの日、エルダの後を追って行ったバルドゥルが、ボルテンに駐屯するフィードニア軍の元へ戻り来て、彼女がトルバ国に捕まった事をクリユスに伝えた。
 エルダを捕らえ去っていた者は、恐らくトルバの暗殺部隊の人間だろうという事である。直ぐさま港を閉鎖し、国境の検問を厳しくしたが、その者を捕らえる事は出来なかった。
 次にバルドゥルは部下をトルバに潜入させて、王都を探らせた。その兵士はエルダが国王軍に罪人として捕らえられ、二十日余りの後には処刑されるという情報を掴んできたのだった。
「そういう事か」
 クリユスは彼ら二人しかいない天幕の中で、小さく呟く。トルバが暗殺者としては不出来な彼女をライナスの元へ寄こしたのは、つまりはライナスの名を汚す為だったのである。トルバの女兵士とフィードニア副総指揮官が密通していたという話が広まれば、国王軍内に疑心暗鬼を沸き起こす。敵は内部分裂によるフィードニアの自滅を狙っていたのだ。
「この事は他言無用だ。特にライナス殿とユリア様の耳には絶対に入れるな」
「は……」
 エルダの処刑まで、既に残り十日足らず。今すぐ駆け付ければ間に合うかもしれないが。一人の女性の為にフィードニア軍を動かす訳にもいかないのだ。どう考えても助ける術など有りはしないのだから、伝えるだけ酷というものだ。
 そう思い彼女の所在については黙っているつもりだったのだが、
「―――悪いな、話は聞かせてもらった」
 天幕の外から顔を覗かせたのは、当のライナスだった。
「これは……副総指揮官ともあろうお方が、部下の話を盗み聞きとは感心しませんね」
「そう言うな。エルダが姿を消し、それと同時に軍から居なくなったバルドゥルが、一人ひっそりと戻って来たのだ、何か知っているに違いないと思ってな……」
 ライナスは苦笑する。
「あいつが死ぬまで十日足らずか、そうか」
 緊張感のまるで無い様子で、顎を擦りながら呟く。
「済まないが、後を頼む」
「―――――まさか、トルバへ一人で行かれるおつもりですか」
 天幕を出て行くライナスを、クリユスは追い掛けた。それがどういう事を意味するかは、火を見るよりも明らかである。
「貴方が死んだら、このフィードニア軍はどうなるのです」
 後を頼むとはどういう意味だ。頼まれてもこの男の背負うものなど、自分には荷が重すぎて抱えきれない。
「止めてくれるな、クリユス。―――お前にも分かるだろう、俺にはもう他の選択肢など、選べんのだ」
 ライナスはクリユスの心臓の上を軽く小突くと、自分の馬に跨った。そのまま馬の腹を蹴ろうとし、だがふとクリユスの方へ首を向ける。
「――――クリユス、ジェド殿を頼むぞ」
「ライナス殿……」
 それだけを言うと、クリユスの返事は聞かずに馬の腹を蹴る。走り去る彼は、もう振り返ることはなかった。
 ――――お前にも分かるだろう。
 ああそうだ、分かり過ぎる程分かってしまう。一人の女性の為だけに全てを捨て命を掛ける、そんな男の愚かさが。
 ライナスが今のフィードニアにとってどれ程失われてはならない人物か、それは充分解っていたが、クリユスにはもう彼の後を追うことは出来なかった。




「死んでしまったものは仕方が無いだろう、次の副総指揮官を早く決めるんだな」
 沈黙を突き破り、ジェドが言った。
 ジェドの一番の理解者であったに違いないライナスの死に、しかし彼は顔色一つ変える様子を見せない。それは幾分冷酷とも取れる態度だった。
 死を覚悟しトルバへ向かったライナスが、最後まで気にかけていたのはジェドの事だというのに。それを伝えてはいなかったが、それでもクリユスの中で小さな反発を覚えた。
「そうですな、いつまた連合国から攻撃を受けるとも限らんのだ、早急にライナス殿の穴を埋めておかねばなるまい」
 ジェドの言葉に唯一嬉々として頷いたのは―――表面上では神妙な態度ではあるが―――メルヴィンだった。
 次の副総指揮官を決めるも何も、現状では国王の従弟であり、現騎馬隊大隊長であるメルヴィンが後を継ぐのが一番自然な流れなのである。当然本人もそう思ってのこの台詞であろう。
 だがライナスの穴を埋められる人物など、ここにおりはしない。いや、ラオならば彼の変わりも務まるであろうが、当の本人はジェドの直属部隊を辞めるつもりは毛頭無いようであるし、そのラオの代わりにジェドの直属部隊を率いる事の出来る人間もまた、いないのである。
 それに例え本人がやる気になったとしても、今現在中隊長でしかないラオが一足飛びに副総指揮官になるのは、総指揮官であるジェドの指名でも無い限りやはり難しい事であろう。
 つまりは現状副総指揮官の座に一番近いのはメルヴィンであり、だが彼にその責務が全う出来るとは、この部屋にいる者誰一人として思ってはいないのである。だから皆一様に黙り込んでいるのだ。

「次の副総指揮官には、やはりメルヴィン殿が相応しいとわしは思う」
 ブノワが重厚な声を出した。
 どのみちライナスの後任という重責を担える者がいないのだ、ならば例にならい、副総指揮官に一番相応しい血筋の者を据えるのが良いだろうと、ブノワは判断したようだった。古くからの慣例に重きを置くブノワにとっては、極めて順当な判断である。
「誰か、これに異を唱える者はいるか」
 その問いに、部屋は静まり返ったまま誰も口を開かない。例え異を唱えたくとも、唱えるだけの理由も代替案も用意出来ぬのだ。
「私もそれが一番良いと思います」
 クリユスはその場にかたりと立ち上がると、そう静かに口にした。
 それを皮切りに一人、また一人と、賛同の意を示す為に片手を挙げてゆく。
 その場に居る殆どの者の手が挙がった時、満足そうな顔をするメルヴィンと目が合った。クリユスはその視線を軽く頷いて返す。
 いいだろう、暫くは良い夢をみているといい。だがそれもそう長くない夢だ。
 クリユスは立ち上がったまま、更に続ける。
「―――そして、メルヴィン殿の後任職である騎馬隊大隊長には、私はハロルド殿を押したいと思います」
 今度は流石に、皆が一様にざわついた。未だ「裏切り者」のそしりを完全には払拭出来ていないハロルドである。先の戦いでハロルド率いる第七騎馬中隊が孤立した原因を作った第二騎馬中隊長マルクなどは、あからさまに不服の表情をしている。名の挙がった当の本人でさえ、当惑の顔になっていた。
「ハロルド、とは。それは幾らなんでも無茶な話だ。まだ皆の信頼を勝ち得てもいない新参者に、誰が付いて行こうと思えるのだ」
 メルヴィンが顔を顰めながら言う。
「さて、無茶な話でしょうか。ハロルド殿は先の戦いでボルテン国王軍総指揮官の首を上げられました。敗戦色の濃かった二度目のボルテンとの戦いで、敵軍の主力部隊を叩き我が軍を勝利へ導いたのもハロルド殿です。功績からすると、大隊長の座に相応しい者は彼の他にはいないかと思われますが」
「それは、そうかも知れぬが……」
 渋い顔をするメルヴィンは、助けを求めるようにブノワを見る。古参の老兵であるブノワなら、フィードニアで余所者がそのような要職に就く事を良しとする筈が無いと思ったのだろう。
「ブノワ、歩兵隊大隊長のお前の意見はどうだ、同じく大隊長として肩を並べる事になるのだからな」
「さて……」
 同じく渋い顔をするブノワだが、口にした言葉はメルヴィンの求めるものとは違っていた。
「確かにクリユス殿の言われる通り、その力は我が軍に大きく貢献していると言えましょうな。大隊長職を担うには些か時期尚早にも思われますが、まあそれも経験不足から来る懸念でありましょう。ハロルド殿なら直ぐに実力が追いついて来るのではと、わしは思いますな」
「なんと……」
 予想外のブノワの言葉に、ハロルドが感じ入ったように呟いた。先の戦いで孤軍となった状況そのままに、フィードニア国王軍で孤立しているように思えていた彼に対する温かい言葉に、ハロルドは思わず目頭を熱くさせる。
「ブノワ殿、私は反対です……! まだその男が内通者であったという疑惑も拭えてはいないのです。第一、これ以上余所者をのさばらせるのはフィードニア国王軍の沽券に関わる問題ですぞ。寄せ集めの国王軍など、聞いた事も無い……!」
 机を拳で叩きながらマルクが抗議をし、その横で第五騎馬中隊フリーデルは「私はハロルド殿が大隊長となられる事に異存はありません」と何時ものように眉間に皺を寄せたまま、冷静に言った。
 喧々諤々となり始めた軍務室の中で、やはりジェドは無関心に外を眺めている。
「――――分かった、クリユスの進言は進言として考えておこう。私の後任として誰が相応しいのか、副総指揮官として一番相応しい人物を充分考慮する」
 メルヴィンがそう皆に言い、今回の軍法会議は終了となった。

 皆が解散した後、メルヴィンは予想通りクリユスの元へやって来た。
 何故突然ハロルドを推挙したのか確認に来たのだ。
 クリユスは笑みを作り彼にこう説明する。
「これはメルヴィン殿。私がハロルド殿を大隊長へと推挙したのは、ひとえにメルヴィン殿の為なのですよ。確かに貴方以上に副総指揮官の座に相応しい者などおりはしません。ですがいつ何時、我もまたとその座を狙う者が出て来ぬとも限らないのです。マルク殿などは上級貴族というその身分からしても、貴方にとって変わろうと思っても不思議はありません。そういう危険のある方々が大隊長を務めるよりも、敢えて人望の無いハロルド殿を大隊長に据えておけば、彼がどう画策しようとも、それに協力しようという者は現れぬでしょう。さすれば貴方の副総指揮官という地位も、安泰したものとなりましょう」
 ううむ、とメルヴィンは唸る。
「なるほど、そうか。それも一理あるな」
 クリユスの舌先三寸に簡単に丸め込まれるメルヴィンである。彼ををすっかり信用しきっているメルヴィンは、既にクリユスに逆らう術を持っていなかった。
 それでも本人自身はクリユスの思い通りになっているという自覚は全く無いのである。自分が決定を下すのだと誇示するように、「それも考慮しておこう」と言い残し自分の館へ戻っていった。
 そして二日の後にメルヴィンが次の騎馬隊大隊長に任命した男は、果たしてハロルドに他ならぬのである。










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