76: 恋慕 ハイルド大陸東の地全土の地図を壁に貼り、ライナスはその中の一点を指し示した。 「一度目は落城間近にしながら取って返す事になり、二度目は仕掛けられた攻撃を撃退するのみで追撃は叶わず、更に三度目は奇襲を読まれ撹乱されるだけされ終わった。だが次は必ず、ボルテンを落とす。五度目は無いと思え……!」 「は……!」 場所はフィードニア国王城の軍議室。ライナスの目の前に座る男達は、国王軍大隊長及び中隊長の上級将校達である。 皆一様に神妙な面持ちでそこへ座している。それはそうだろう、これ以上ボルテンにしてやられる事は、今後のフィードニアの士気にも関わる。どうしても勝たねばならぬ戦なのだ。 「ボルテンを下せばグイザ―ドとコルヴァスの動きを牽制する事が出来る。我々はそのまま北のリュオードを一気に叩く!」 「さすれば、我がフィードニアとティヴァナが北で繋がり、連合国の国々を囲い込む形となりますな」 歩兵隊大隊長ブノワが、顎にたっぷり蓄えた髭を撫で付けながら言う。 「しかしながら……我が軍に入り込んでいる連合国の密偵が明らかになっていない今、攻撃をしかけた所で先の戦いと同じ結果になりはしまいか。密偵は未だ尻尾も掴めていないのであろう、フリーデル」 そう渋い顔をしたのは、第二騎馬中隊長マルクである。四十になったばかりの、軍の中ではやや古参に入り始めた男だ。 彼に名を呼ばれたフリーデルは、眉間に深く縦皺を寄せる。 「は……我が第五騎馬中隊が勢力を上げて捜索しているのですが」 「ふん、わざわざ人員を費やして探す事もあるまい、どの隊に密偵が潜んでいるかなど、知れた事ではないか」 マルクはちらりとハロルドを見やった。この男が来てから、軍の内情が敵に筒抜けになったのだからとその目が言っている。 一個中隊丸々が旧シエン軍の兵士達で形成されている第七中隊は、未だに猜疑の目で見られる事が多い。特に今回のように密偵が軍内に潜り込んでいるとなった場合、真っ先に疑われるのは必然であるとも言えよう。 「我が隊に裏切り者などいない」 ハロルドはそれだけを言うと、あとは何も申し開きせずに、ただ腕を組みながら黙すのみである。反論した所で疑いが晴れる訳でもない。無実は戦場で活躍することで晴らせばよいと考えているようだった。 「馬鹿な事を言うな、マルク。今は味方内で言い争っている時ではないぞ」 叱責の言葉を口にしたのは、意外な事にブノワである。ラオとクリユスがフィードニア軍へ入って来た時、一番に彼らを「余所者が」と騒ぎ立てていたのは他でもないこの男だと言うのに、一体どういう心境の変化であろうか。 そういえばブノワがいつの間にか二人を敵視しなくなっていた事に、今更ながらにライナスは気付く。 「しかし、ブノワ殿。敵にこちらの策が全て筒抜けになっていては、勝てる戦も勝てません」 「それはそうだが、証拠も無いのにここで騒ぎ立てていても仕方あるまい。裏切り者探しは第五騎馬中隊に任せておけばよいと言っておるのだ」 「証拠などと悠長なことを言っていては、次の戦も負け戦となるだけです」 喧々諤々としてきた室内を一度収めようと、ライナスが口を開きかけた時、今まで黙って窓の外を眺めていたジェドが声を張り上げた。 「―――――ごちゃごちゃと五月蠅いぞ、密偵がいようがいまいが、勝てば良いのだろうが」 皆の視線が一気にジェドに集まる。ジェドは立ち上がると、皆を見渡した。 「こちらの動きは全て相手に読まれていると最初から覚悟しておけば、恐れる事など今更ある筈もない。読まれてなお、それ以上の動きを我々がすれば良い事だ。圧倒的な力の差でボルテンを凌駕して見せよ……!」 それはいかにもジェドらしい意見だった。確かに、この男の動きの先が読めたとしても、それを止める事が出来るかといえば、また別問題なのである。 圧倒的な力の差で勝てとは、よくも簡単に言ってくれるものである。 その言葉に乗せられ、意気揚々と力の籠った目をする部下達を眺めながら、次の戦いも骨が折れそうだなと、ライナスはひっそり溜息を吐いた。 ユリアはエルダと共に王に目通りを願い出、そして彼女を護衛として傍に置く許しを求めた。 ロランとも話し、彼女は今まで傭兵を生業として来たのだと説明をする事にしたのだが、クルト王がそれをすんなり信用するとも思えなかった。 しかし予想に反し、王は二、三の質問を投げかけただけで、すんなりとエルダの戦場への動向を許したのだった。気負っていた分拍子抜けはしたが、恐らくクリユスが先に話を通していたのだろう。つくづく根回しの早い男である。 面会の間を退室し塔へ戻ったユリアは、上階から階段を下りてくる一人の男の姿を認め、足を止めた。 「これは、ジェド殿」 エルダがその場に片膝を付き、跪く。 「王城へ行っていたのか。……成程、その女を戦場へ連れて行く事にしたか」 ジェドはエルダをちらりと見ながら言った。彼女は初めてこの塔へ来た時に着ていた、細身のズボンに腰巻を付け、上着は何の飾りも無いシャツだけという、男のような衣服を着ている。そして腰には剣である。彼女をユリアの護衛とする為に王の許可を貰いに行ったのだと、容易に想像が付いたようだった。 「……何の用だ」 微かに体が震えた。 「ナシスに用があっただけだ。お前に用など無い」 自惚れるなと言われたようで、ユリアは思わず顔を背ける。 「そうか、では用が済んだのならさっさと兵舎へ戻るがいい」 視線を逸らしたまま、そそくさと横を通り過ぎようとするユリアの腕を、ジェドが掴んだ。 「待て。次の戦い、お前は来るな」 「な――――何を、今更」 腕を振りほどこうと、ユリアはもがく。掴まれた所が焼けそうに熱い。 「離せ、ジェド。今更私が同行しない訳にはいかない。それはお前にも分かるだろう」 もがく程に力が込められるジェドの手に、何故かユリアは泣きたくなった。 嫌だ、嫌だ、嫌だ。離して。 「戦女神などという無用な幻想など、兵士達には必要無い。フィードニアはお前などがいなくとも連合国と互角に戦えるのだ、それを解らせてやれば良いだけだ」 ジェドの視線が苦しい。触れられる事がこれ程に辛い。 今まで抑えていた感情が、ユリアの心の中に溢れ出てぐるぐると渦を巻いた。 ―――――愛してる。狂おしい程にお前を愛している。 これ程に恋焦がれている事に、どうして私は今まで気付かずにいられたのだろう。 「人はお前のように皆強くあるわけではない。何かに縋る事で支えられる事もあるのだ」 「そんなものが無くては戦えぬ兵士など、俺の部下にはいらぬわ」 その胸に抱きつきたい。抱きしめられたい。込み上げるその衝動を、ユリアは必死に押し留める。 「話にならんな、いいから離せ……!」 ユリアはジェドの腕を振りほどき、彼に背を向けた。 どれ程恋焦がれたところで、この男は自分を憎んでいるのだ。深く渦巻く感情を抑える為、彼女は己にそう強く言い聞かせた。 こんな気持ちに気付きたくは無かった。自分もこの男を憎んでいるのだと、そう思い込んだままでいたかった。それが出来ればどれ程楽だったことだろう。 ユリアはジェドの視線から逃れるように、足早に塔の階段を駆け上った。 駆け去る少女の後を追おうと立ち上がったエルダを、ジェドの声が止めた。 「おい、あの女の護衛をしようと思うなら、今回の戦いには来させるな」 エルダは振り返りジェドを見る。 「今回の、とは…。もしや今度の戦いは勝てぬとお考えなのですか」 「何を言っている。この俺がいて勝てぬ筈があるか」 ジェドは馬鹿にしたように鼻を鳴らした。負ける筈が無いと豪語する理由が、己がいるからだとは、なんという自信家なのだろうか。ライナスといい、上に立つ者というのはこういう男達が多いのかと、エルダはひっそり苦笑する。 「フィードニアは負けはしない。だが、次の戦いには悪い風が吹くとナシスが言っている」 言いながら、すっと真剣味を帯びた顔になった。 「何ですか、その風というのは」 「ナシスの先読みだ。フィードニアにとって何か良くない事が次の戦いで起きると言っているのだ。だがそれ以上のことは分からん。全く、あいつの力は中途半端で役にたたん」 「役に……」 その言葉を他の人間に聞かれてはいないか、エルダは思わず辺りを見渡した。ナシス様といえば、他国にも名が聞こえる程の高名なフィルラーンである。そのような方に対し、なんという不遜な口を利くのだろうか、この男は。 「しかし何か良くない事…と言われましても、それがユリア様に危害が及ぶ事だとは限らないのではないでしょうか」 敵とは言え、フィルラーンの命に手を掛ける事は流石に躊躇われる筈である。そもそも後陣に居ることになるユリアより、先陣で戦うジェドやライナスのほうが危険度は遥かに高いのだ。寧ろ自分の心配をするべきではないだろうかと、エルダは思う。それを言うと、ジェドは再び人を小馬鹿にしたような顔付きになった。 「この俺の命を誰が奪えると言うのだ。つまらん冗談を言うな」 「じょ……冗談?」 戦場では常に命の危険と隣り合わせなのである。更には軍の総指揮官といえば、敵の一番の標的になるものなのだ。エルダの危惧はいかにも真っ当なものであり、どこが冗談だったのか全く解らなかった。 「とにかくユリアを戦場へ連れ出すな、いいな」 首を捻るエルダを無視し、ジェドはそれだけを言うとくるりと背を向けた。 「あ、待って下さい、ジェド殿」 エルダは慌ててジェドの前に先回りする。 「………何だ」 「あの、つまりはジェド殿は、ユリア様の心配をなされていると……そういう事なのでしょうか」 エルダの問いに、ジェドは何を言っているんだとばかりに、眉間に皺を寄せる。 「フィルラ―ンに死なれる訳にはいかんだろう。おかしな事ばかり言う女だな」 そう言い捨て、ジェドは再び背を向ける。エルダの呼び掛けにはもう答える事無く、今度こそ塔から出て行った。 フィルラーンだから? そうなのだろうか。 ナシス様の力でさえ役に立たぬと切り捨てる男が、果たしてこうまでフィルラーンの事を危惧するのだろうか。 しかもユリアの話を聞く限りでは、その相手は「憎んでいる女」であるというのに。 そうなのだろうか、とエルダは思う。 ―――――本当に、ジェドはユリアを憎んでいるのだろうか。 |
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