72: ユリア4





 十年もの長い月日、あれ程ジェドに会いたいと願っていたというのに。ほんの数日前までは彼との再会に胸を弾ませていたというのに。今は彼に会う事が恐ろしくて堪らなかった。
 ジェドは私の事を恨んでいるかもしれない。いいや、きっとそうに違いないのだ。
 再会したジェドに憎しみの目を向けられたらと思うと、想像するだけで息が止まりそうだった。
 全ては自業自得なのだと分かってはいても、心がそれを受け入れようとしてくれないのだ。

 軍人とフィルラーンなど、通常であれば清めの儀式以外で接することは殆ど無いといえる。王城へ上がったとしても、そう直ぐに再会する事は無い筈だった。
 会いたいと思う時は会えず、会いたくないと思ったとたんに出会う事になるとは皮肉なものである。私は登城しその日のうちに、ジェドに再会する事になったのだ。

「この国に英雄と呼ばれる男がいるのを知っておるか?」
 御前で挨拶の言葉を述べていた私に、王はそう言った。
「はい、それは勇敢な方でいらっしゃるとか…」
 そう答えたものの、その時の私には『フィードニア国には英雄と呼ばれる男がいる』という程度の知識しか無かった。ラーネスは外の世界から遮断された場所である上に、フィルラーンは軍事などには無縁な為、そういった事は殆ど教えられないのだ。
 勿論、私は当時ティヴァナ国王軍の軍人であったクリユス達としばしば会っていたから―――ラーネスからこっそり抜け出していたのである―――多少外の事は見聞きしていたが、何分フィードニアとは遠い土地である。私の祖国について、彼らもそう詳しく知っている訳では無かった。
「うむ、あの男以上に強く勇猛な男など、この世におらぬであろうよ。今までも、そしてこれからもな。…その稀代の“英雄”を今ここに呼んである、会って行くがいいだろう。 名をジェドと言う」
 な――――――――!
「お待ち下さい。今、なんと……」
 私は驚き目を見開いた。
 ジェドと言ったのか。あの、ジェドなのか。
 私が知るあの幼かった少年が、他国にまでも名を轟かせる英雄なのだという。ほんの数日前までは、国王軍の兵士になっている事さえ知らなかったのだ。唐突に突きつけられたそれらの事実に、頭が付いて行かなかった。
 しかも王は今これから、彼がこの場所に現れると言ったのか。そんな、馬鹿な。まだ彼に会う為の心の準備など出来ていないというのに。
「お…お待ち下さい、クルト王。私は到着したばかりで幾分疲れております。今日の所は下がらせて頂き、そのジェドというお方には後日お目通り願いたいと……」
 何とか来るべく再会の日を引き延ばそうと、私が必至で言い訳を並べていると、後方の扉が開く音がした。
 ジェドだ。
 瞬間、全ての血の気が下がった気がした。
 
 ――――――――会いたい。

 会うのが恐ろしくて堪らないというのに、ジェドの存在を感じたとたんに湧き出た感情はそれだった。
「来たか、ジェド」
 王がにやりと笑い、それに答えるかのように、かつんと靴底が床を鳴らす音が響いた。
「エンリクトスの刻(午前十時)にここへ来いと言うたと思うがな。既に半刻近く過ぎておるぞ」
 王は私の後方へ向かって話しかける。
「――――申し訳ありません、訓練に熱が入り時間を忘れておりました」
 私はすぐ後ろで発せられた声に、びくりと肩を震わせた。
 低い声。
 これが、今のジェドの声。
 
 会いたい、会いたい、会いたい。
 けれどその想いと同じ位に、会う事が恐ろしいのだ。

「王の御膳に遅れて来るなど、お前くらいなものだ。まあいい、ジェドよ。お前を呼んだのは他でもない、今日登城したフィルラーンをお前に会わせようと思ったのだ」
「は…」
 低い声が、短くそう答えた。そして武具が擦れる音と床に固い物が当たる音がする。具足が床に当たった音だろう、彼がその場に跪いたのだという事が分かった。
 姿は見えないが、背中に視線を感じた。ジェドは今、どんな表情で私を見ているのだろう?
 その顔が憎しみに歪められていたらと思うと、恐ろしくて振り向く事が出来なかった。
 ―――――怖い。
 怖い、怖い。怖い。
 振り返るのが、怖い。
「フィードニア国王軍総指揮官、ジェドと申します」

 ―――――――――――けど、会いたい。

 私は恐る恐る振り返った。
 茶色い武具に、黒に近い程深い朱色のマントを身に付けた青年が、そこに跪いている。彼は今、頭を軽く下げていた。
 心臓が、壊れてしまうのではないかと思う位に、強く鼓動していた。
 黒い髪、そして下を向いていても分かる、精悍な顔付き―――。
 ああ、ジェドだ。
 十年間ずっと会いたかった人が、ここに居る。
「ジェ……」
 思わず名を呼び掛けて、だがそのまま息を呑んだ。
 顔を上げたジェドの、懐かしいその黒い瞳が、冷たく私を見上げていたのだ。
「クルト王、もう宜しいか。訓練があるので失礼させて頂く」 
 ジェドは立ち上がると、私の方を見もせずにそっけなく立ち去って行った。これが私とジェドの、実に十年ぶりの再会である。
 憎まれている事は覚悟していたつもりだったが、それでも身が竦んだ。
 馬鹿だ、私は。分かっているのに、なのにまだ心のどこかで期待していたのだ。私に微笑みかけてくれるジェドを。
 それはもう有り得ないのだと、私はこの時(ようや)く悟ったのだった。


 自分が一番大切に思っている存在に憎まれているという事実は、余りに辛いことだった。
 彼の冷たい視線を受けるたびに身が竦み、冷たい言葉を投げかけられるたびに、心の一部が壊れて行く。
 それは当然の報いであるというのに、私はそれに耐える事が出来なかったのだ。
 その辛さから逃れる為、私は己に自己暗示をかけた。
『目の前に居る男は、あの懐かしい少年では無い。そう、あの少年は死んだのだ』と。
 そう自分に言い聞かせる事は容易な事だった。実際、私にぎこちなく笑いかけてくれた、あの幼い日の少年はもうこの世に存在しないのだから。
 そして私はジェドの事を、『身分で言えば格下であるくせに、フィルラーンであるこの私を跪かせる無礼で傲慢な男』なのだと思い込むようにした。
 身勝手な事は百も承知である。けれど己もこの男が憎いのだと思っていなければ、ジェドの前に平気で立っていられなかった。
 もしかすると、そうまでしてでも彼の傍に居たかったのかもしれない。それは己を余計苦しめるだけだというのに。

 私にとって贖罪は、苦しみから解放される事でもあった。それはつまり、彼をあの村へ返す事、である。
 だがジェドが噂に名高いフィードニアの“英雄”であった事は、それすらも不可能なのではと思える程の、大きな問題だった。彼は英雄も英雄、だったのである。
 国王軍だけでなく、フィードニア全軍をジェド一人の力で支えていると言っても過言では無かった。そもそもが軍組織自体が彼に頼り切る形で形成されているのだ。現状ではジェドを軍から離脱させる事など、不可能に近い事だった。
 もしもその英雄が国に反旗を翻したらどうするのだと、私は王に問うた。
「無用な懸念だな」と王は答えた。
 軍政にフィルラーンが口出しするなという意味なのか、ジェドが謀反を企てる事など有り得ないという意味なのか、それは分からない。
 だがそれが「無用な懸念」であることは、私自身が一番分かっていた。 そうだろう、ジェドはそもそも地位など望んではいなかった、ただあの小さな村で暮らす事だけを望んでいたのだから。
 けれど「英雄が国に反旗を翻したら」という言葉は、私がジェドを軍から離脱させる為の大義名分になった。
 それが一番他人を納得させやすい理由であり、ジェドを傲慢な男だと思い込みたい私自身にも、都合の良い理由だった。
「傲慢な英雄を軍から失脚させる」という大義名分は、「彼を憎むフィルラーンのユリア」のままで当初の目的を実行するのに、実にしっくりと馴染むものだったのである。

 ジェドがそもそも野心など持っていない事は、ライナス達には分かっていたのだろう。私が一人ジェドを糾弾したところで、相手にさえしてもらえなかった。けれど例え微風さえ吹かぬ場所であろうと、私はどうしてもそこに波を起こさなくてはならなかった。
 そんな時に、クリユスとラオが私の前に現れたのだ。







「ジェドがこの国に反旗を翻したら―――そんなまやかしに過ぎないものに、私は彼らを付き合わせているのだ」
 言いながら、ユリアは悲痛な表情をした。
 ジェドの事だけでなく、結果的に味方である筈のクリユス達をも騙しているという事にも、彼女は苦しんでいるのだ。
「けれど、ユリア様。それはジェド殿や、彼の母上の為に決断された事ではありませんか」
 今まで黙って彼女の話を聞いていたエルダだったが、我慢できずに口を挟んだ。
 勿論誰かの為に成す行為なら、何をしても良いなどと言うつもりはないが、それでも彼女がこれ程に苦しまなくてはならない罪とは思えなかった。
「それにジェド殿に野心が一切無いと、本当に言いきれるのでしょうか。幼い頃は無かった野心も、この十年の間に芽生えているかもしれない。英雄と持て囃され王の片腕とも言われる男が、その名声以外他に何も望まないなど、私には考えられません。……もしほんの少しでも野心があるのであれば、彼が反旗を翻すという危惧はまやかしではありません」
 少なくともエルダには、そんな聖人君子のような人間が居るとは思えなかった。エルダ自身が今まで死に物狂いで戦ってきたのは、国王軍へ入軍したいという野心以外に有り得はしない。ユリアの心が清いがうえに、周りの人間の心の内まで清いように思うだけなのではないだろうか。

 そもそも彼女をここまで苦しめる罪とは一体何なのだ? 確かにジェドが軍に徴兵されるきっかけを、彼女は作ったかもしれない。だがそれは幼い少女がただただ母親を喜ばせたい一心で、少し回りが見えなくなっていただけのこと。ここまで背負わねばならぬ罪とは到底思えない。
 納得出来ないエルダの表情を見てとったのか、ユリアは苦笑した。
「――――エルダ、もしジェドに少しでも野心があるのなら、私はこれ程彼に憎まれてはいないだろう」
「それは……けれど」
「それに、私はジェドや彼の母の為に、彼を村へ返そうとしている訳ではないのだ」
「…己の贖罪の為だから、それはつまり自分の為だと仰るのでしょう。けれどそれは、結果的にジェド殿の為なのです」
「そうでは無い……」
 ユリアは首を小さく横に振る。
「ジェドを愛していると、気付いて分かった。国の為だのジェドの為だのと、己に色々理由を付けてきたが、そんな事では無い。私はただ、たった一度でいいから、幼いあの頃のように再びジェドに笑い掛けて貰いたかった。それだけなのだ」
 ふふ、とユリアは自嘲し、そしてエルダを真正面から見詰めた。
「ジェドを村に返す事が出来たからといって、それが叶うかどうかなど分からない。そんな事の為に―――たったそれだけの為に、私はこの国に無用な戦いを呼び、そしてそれが分かっていながら止めるつもりもない。そういう醜い女なのだ、私は」
 そう言うユリアの瞳の中には、迷いのようなものは微塵も感じられなかった。
 何故だろうか、彼女の心内にある醜い想いを今吐露しているのだというのに、今まで自分が知り得た、清純で儚くあったどのユリアよりも、一番美しいとエルダは思った。











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