66: その名を知らず3





 トルバの訛りを指摘されたのは、初めての事だった。
 身元がばれぬよう、暗殺部隊へ入った時に訛りを消す訓練を散々受けたのだ。どこの国へ行っても、今までそれを指摘された事など一度も無かった。だというのに、たかがほんの少し言葉を交わしただけで気づかれてしまうとは―――。
 しかもこのクリユスという男、記憶違いでなければ、元はティヴァナ国出身の筈である。
 ティヴァナの国王軍弓騎馬大隊長が国を出奔し、今はフィードニア国王軍にいるという噂は耳にしていた。その男も随分と美形であるらしかったから、恐らくこの目の前の男がそうなのだろう。王の娘に手を出し国外追放にされたという不名誉な噂も、この男ならばなにやら頷けるものがあった。
 ならば元々フィードニアの人間では無いというのに、フィードニアの人間にさえ気づかれなかったその僅かな違和感を読み取ったという事なのだ。トルバの暗殺部隊から逃げた今となっては感心する気持ちさえ沸き起こってくるが、少し前の自分だったらさぞ脅威な存在に思えた事だろう。

「それでは、私はこれで失礼致します」
 クリユスは優雅にお辞儀をすると、にこやかな笑みを残したまま部屋から出て行った。
「彼は女性とみるとすぐ口説き始めるのです。全く困ったこと…」
 ユリアは言いながら苦笑する。
 口調がまた「フィルラーンのユリア様」のものに変ってしまった事を、エルダは少し残念に思った。クリユスと会話していた時の口調の方が、自然で彼女に似合っていると思ったのだ。
「けれどそれは彼の挨拶のようなものなのでしょう。本心は貴女が心配で様子を伺いに来たのですから」
 その言葉に、ユリアはぱちぱちと瞬きをした。どうしたのだろうとその様子を眺めていると、ユリアははっとしたようにエルダを見詰める。
「ああ…ごめんなさいエルダ、なんて事…! クリユスはあなたを疑っているのでは無いのです。私が、どうも日頃から不用心な所があるようで、よく皆に怒られるのです。だから今回も様子を見に来たというだけで、あなたがどうこうという訳では無いのですよ」
 あなたが気分を害していなければ良いけれど…と心配そうな目を向けられた。
 どうやら先程の会話の内容が、「身元の知れぬ人間を塔へ招いた」云々であるために、そのことでエルダが傷ついてはいないかと心配しているようだった。
「いえ…そんな。フィルラーンの塔に入る者に神経質になるのは当然のことです。そのようなこと、気に病む筈がありません」
 今度はエルダが慌てて言った。
 実際、その通りなのである。出実も事情も分からない人間が「国の宝」であるフィルラーンの住まう塔へ招き入れられたのだ。回りの人間が神経を尖らせない筈がない。
 当然であることを、一々気に病む程の細い神経など持ち合わせてはいなかったが、しかし己の為にこのフィルラーンの少女の心を僅かにでも痛めてしまったのかと思うと、その方が遥かに心苦しかった。
 楽しくも無いのに笑顔を作ることはエルダの苦手とする所だったが、「気にしてなどいない」という意思表示の為、無理やり笑ってみせた。
「そうですか…? なら良いのですが」
 我ながらぎこちない笑みではあったが、一応成功したようである。安心したように微笑むユリアは、野花のように可愛らしかった。

『残念ながら私はユリア様のように、ライナス殿が信用している方だという理由だけで相手を信用できる程、お人好しな人間では無いのです』
 密やかに囁かれた、クリユスの言葉を思い出した。
 それは至極当然の言葉だとエルダは思っている。 逆に、何故ユリアがエルダを受け入れてくれたのか、そちらの方こそ理解することが出来なかった。
 勿論自分には彼女を害するつもりなど神に誓って一切無いが、それでも万が一この私が何か裏心のある人間であったなら、一体どうするつもりなのだろう。
 ただライナスが連れてきた人間だというだけで、この少女はエルダを受け入れたが、他人などどれだけ信用していた所で所詮は他人。絶対に裏切らないという保証など、どこにもないというのに。
 危うい少女だと、急に不安になる。
 彼女を取り巻く回りの人間の心中は、いかばかりのものか。
 もし彼女を害するものが、この花のように清らかな少女に近づいたらと思うと、会って数日のエルダでさえ、胃が痛むような気分になるのだった。





 次に現れた男は、クリユスよりもはっきりと敵意の目をエルダに向けた。
「出実も事情も聞くなとは、一体どういう事なのです? しかもそれを咎めもせず、受け入れてしまうとは―――」
 いい加減にエルダも慣れたが、やはり国王軍小隊長がフィルラーンに対する態度ではない。この男は名をロランと名乗った。
「前にも散々言ったはずです、貴女は人を信用し過ぎると。もし、また再び貴女を騙そうとする人間が現れたらどうするのですか……!」
 言ったあと、ロランは「俺の言う事でも無いですが」とごにょごにょと呟いた。
「けれどロラン、彼女はライナスから預かったのだ」
「―――ライナス殿に」
 ロランはエルダにちらりと目をやった。
「すると、お前がライナス殿の―――」
 じろじろとエルダを見ると、ロランは不快気に顔を歪めた。
「ユリア様。ならば尚更この女をここへ置く事には反対です。この女は貴女の傍には相応しくない」
「何を言う、私の客に対し無礼なことを言うな」
 ユリアの顔に怒りが混じったのを見てとったロランは、慌てて言い繕う。
「いえ―――貴女はこの女の正体をご存じでは無いから……」
「お前はエルダを知っているのか? では聞こう、彼女の何が不満なのだ」
「あの……いえ」
 口ごもるロランを見ながら、エルダはほんの少し意地の悪い気分になった。
 つまりはこの男は「ライナスの女」が娼館で働く女であった事を―――まあ、実際それは本当では無いが―――知っているのだ。
 そういえば、マリーが「ライナスの女」を訪ねてきた国王軍兵士がいたといっていた。もしかするとこの男がそうなのかもしれない。
 自分は娼館で楽しんでおきながら、そういう女をフィルラーンのユリア様に近づける事には嫌悪するのだ。勝手なことである。
 マリーの笑顔を思い浮かべ、エルダは腹が立ってくるのを抑えられなかった。
「ロラン様と申しましたね、この私をご存じだと仰る。まあ、では貴方は私のいた店のお客さんだったのでしょうか。顔を思い出す事が出来ず、それは申し訳無い事です……」
 何か含みがあるようにぱちりと目配せをしてみせると、ロランは顔を引き攣らせた。
「なっ――――ち、違う。俺は客などでは―――お前のことなど知らん……!」
「何を言っている、先程知っていると言っていたではないか」
 訝しげに言うユリアに、ロランは顔を青褪めさせた。
「いえ、それは噂で……」
「噂? どんな噂なのだ?」
「それは、あの……ユ、ユリア様にお聞かせする事では……」
 今度は顔を赤くさせる。
「あら、私は構いませんよ。私はね、ユリア様」
「言うな…! ユリア様にそんな事をお聞かせになるな……!」
 ロランは慌てたようにエルダの腕を掴むと、強引に面会の間から外へ連れ出す。もとよりあの清いフィルラーンの少女に色事など話すつもりは更々無かったが、必死の形相をするロランが少しばかり楽しかった。
「ちょっと…折角ユリア様から頂いた衣装を、そんなに強引に掴まないでくれないかしら」
 廊下へ連れ出されたエルダは、ロランの手を払いのける。
「――――何だと?」
 再びロランはエルダの姿を凝視した。
 今エルダが着ている服は、ユリアから借りたものだった。勿論ユリアの服を借りるなどと恐れ多いことだと丁寧に辞退したのだが、着替えらしい着替えというものを持って来ていなかった事と、ダーナの衣装では小さ過ぎて着られない事。そして何よりユリアが用意してくれた衣装を着ないでいると、彼女が寂しそうな顔をするのでそれが耐えられず、結局お借りしてしまっているのだ。
 服に皺や汚れを付けてしまわないか、これ程に緊張して暮らした事は無いと、エルダはしみじみと思うのだった。
 ロランは唐突にはっとした表情をした。エルダが今着用しているこの白い衣装に見覚えがあったのだろう。
 頭に血を昇らせたロランはエルダの肩を掴み、大声で叫んだ。
「何故お前がユリア様の服を着ているのだ……! 脱げ、今すぐその服を脱げ……!」
 ――――馬鹿か、この男は。
 当然部屋の中にもその叫び声は聞こえたのだろう。面会の間が内側から開けられ、ユリアが顔を覗かせた。
「………ロラン、お前……何をしている………」
「は――――いえ、いえ、違います。今のは―――」
 慌ててロランは口を押さえる。聖女から軽蔑の眼差しを向けられたロランは、青褪めるのを通り越しもはや土色になっていた。
「お前、暫くこの塔へは来るな」
「ユ…ユリア様……!」
 違うのです、とただ繰り返すロランに彼女は背を向け、上階にある自分の部屋へ戻っていく。
 がくりと床へ膝を付く哀れな男の姿を見、エルダは流石に同情する気持ちと、そして幾分すっきりした気分になった。
「言っておくがお前が馬鹿なのだ。私の所為ではないぞ」
 こんな簡単に挑発に乗る男がフィードニア国王軍の小隊長であるとは。ライナスといい、この国の先がついつい心配になってしまうような人間ばかりである。
「き…貴様」
 立ち上がる気力がまだ起きないのか、地面にしゃがみ込んだままロランはエルダを睨みつけた。
「お前、いつか絶対にここから追い出してやるからな……!」
 何故だろう。燃えるような怒りの目を向けるこの男を見下ろしながら、エルダは何故かひどく愉快だった。





 そして最後に現れた男は、彼女がフィードニアの地で出会ったどの人間よりも、不遜であり、傲慢であり。
 そう――――。

 変わった人間だった。










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