65: その名を知らず2





 ライナスはエルダの腕を掴んだままフィルラーンの塔へ入ると、出てきた侍女らしき中年の女に、ユリア様への取次ぎを頼んだ。ユリア様というのは確か、フィードニア国のフィルラーン二人の、どちらかの名ではなかったか。マリーがその名を口にしていたのを思い出し、エルダはさっと青褪める。
 フィルラーンという存在に、エルダは今までその傍に近づくどころか、遠目にさえもお目にかかったことなど無いのだ。 それをこんなに突然、このように無礼とも思える格好で会えというのか。
 いや、そもそも格好がどうのというよりも、この余りに突然な訪問自体が無礼極まりないではないか。国王軍の総指揮官であるライナスならば、あるいはこのように面会を求める事も可能なのかもしれない。しかし己のような得体の知れぬ女を連れ、事前に伺いも立てずなどという不遜が、いくら国王軍の身分を持ってしても許される筈など無いのだ。
 この男は何を考えているのだと、通された「面会の間」の椅子に座り涼しい顔をしているライナスを、エルダは腹立たしい思いで睨みつけたが、当の本人は素知らぬ顔である。

 処刑を待つ罪人のような気分で今後の成り行きを待っていると、暫くの後に扉が叩かれた。そして開かれた扉から、茶色い髪をしたやや背の低い侍女―――にしては他の侍女達より身なりは良いが―――が現れた。
「ライナス様、お久しぶりですわ」
 少女は己のドレスの裾を持ち上げ会釈をすると、ライナスににこりと笑いかける。そして次に「ユリア様がお越しです」と告げた。
 ライナスは立ち上がるとその場に片膝を付いた。エルダも慌てて床へ両膝を付き、頭を深く下げる。 その直後に衣崩れの音がし、この部屋の中に「フィルラーンのユリア様」が入ってきた事が分かった。
 このような無礼な訪問に対し代理の者を寄越すでも無く、本当にフィルラーンご本人が直々にお会い下さるのか―――。
 エルダは思わず息を呑む。正直な所、「ユリア様」は面会を拒否なされるだろうと思っていたのだ。
「貴方が私を訪ねてくるなど、珍しいことですね、ライナス」
 その声はエルダとそう歳が離れていないのだろうと思える、まだ幼さが抜けきらぬ少女のものだった。だがその声には気高さが感じられた。凛としていて、そして柔らかな声だ。どこか心地の良い響きがする声だとエルダは思った。
「本日はユリア様にお願いしたい事があり、参上致しました。突然の訪問の無礼、お許し下さい」
 そう言うと、ライナスは更に両膝と両手を床に付け、頭を下げた。
「私の後ろに居るこの者、名をエルダと申します。名以外の出実や一切の事情はどうかお聞きにならず、この者をどうかユリア様の下で預かって頂けませぬか」
「な――――――」
 驚きの声を上げたのは、エルダだった。余りに無礼なライナスの言い分に、フィルラーンの御前である事も一瞬忘れ、思わず頭を上げそうになる。
「事情を一切聞かず、彼女を……ですか」
 頭を下げているため、フィルラーンの少女の姿はエルダには見えていないが、彼女が恐らく今エルダを見詰めているだろう事は分かった。その眼が自分をどれ程恥知らずな人間だと思いながら見ているのだろうかと思うと、恥ずかしさの余り眩暈がした。
 このような思いをさせられる位なら、どうしてあの場で死なせてくれなかったのか。ともすればライナスを実際に殺そうとしていた時以上の殺意を、エルダは心に抱いた。

 暫くの沈黙の後、フィルラーンの少女は再びその口を開いた。
「――――分かりました。ライナス、貴方が信頼している者ならば私も信用致しましょう。彼女を私の客として、この塔で預かります」
 驚愕し今度こそ顔を上げてしまったエルダは、フィルラーンの少女と目が合い慌てて頭を下げる。金色の、輝く髪をした少女だった。
「ありがとうございます、ユリア様。貴女ならそう言って頂けると思っていました」
 飄々と言うライナスに、エルダは己の耳を疑った。 この私がフィルラーンの客? そんな、馬鹿な。
「エルダ、良いのですよ。顔を上げて頂戴」フィルラーンの少女の凛とした声が、エルダの名を呼んだ。
「い、いえ……そのようなこと……!」
 頭を下げたまま、横に頭を振る。何の身分も持たぬエルダがフィルラーンの御前で顔を上げるなど、そのような無礼が許される訳が無い。頑なに頭を下げたままのエルダの前に、細く白い腕が伸びた。 その腕がエルダの肩を掴むと、無理やりに上体を上げさせる。
 目の前にフィルラーンの少女の金色の瞳が有った。
「貴女は既に私の客人です。私の前で頭を下げる必要はありません」
「いえ、けれど」
 とまどうエルダだったが、既にその眼は目の前のフィルラーンの少女に釘づけになっていた。
 ――――――なんて綺麗な少女なのだろう。
 透き通るように白い肌。大きく、強い光を持った金色の瞳。鼻筋は綺麗に通り、唇は小さく赤い。
 これ程に綺麗な少女を見た事は初めてだった。美しく、そして一切の穢れを知らぬであろう少女は、眩しいほどに清浄だった。
『ユリア様って女神のように美しいひとだと聞くよ』とマリーは言っていたが、まさにその通りの美しさだ。そして『エルダだってきっと負けていない』という言葉は非常に正しくないのだった。




 ユリア様はフィルラーンの塔の一階にある客室の一室を、エルダに与えてくれた。陽が差し込むその部屋は明るく清潔で、そして見たことも無いような高価そうな調度品が置かれていた。
 このように上質な寝具に、己のような下賎の者が横たわる事に罪悪感を覚え、彼女は脇にあるソファーの上で寝る。
 何がどうなって自分がフィルラーンの塔で寝起きをしているのか、エルダは数日経った今でも理解出来ずにいた。
 その日も落ちつかず、部屋の中を意味も無くうろうろしていると、部屋の扉が叩かれた。返事をし扉を開けると、そこにはティーセットを持つダーナ―――彼女はユリア様の世話役だった―――と、その少し後方にユリアその人が立っていた。
「ゆ、ユリア様……!」
 目を見開くエルダに、ユリア様はにこりと微笑む。まさか彼女がわざわざ自分の部屋まで訪ねてくるなどと、想像だにしていなかった。慌ててその場に跪こうとすると、少女はエルダの前に手を伸ばしそれを制した。
「跪かずとも良いと言ったでしょう。それより貴女と一緒にお茶を飲もうと思ったのです。迷惑でなければ」
「迷惑だなんて、そんな事がある筈ありません……!」
 そう言ったものの、フィルラーンとお茶を飲むなどという行為が、現実のものとして直ぐに理解することは出来なかった。
 一人動揺している間にも、ダーナがてきぱきと茶と菓子をテーブルに並べる。ユリアは椅子に座ると、再び嬉しそうにエルダに微笑みかけた。
「さあ、エルダも座って頂戴。ダーナも」
「ここは若い女性が少ないから、ユリア様も私も貴女が来て嬉しいのですよ」
 そう言い、ダーナもユリアの横に座った。

『出実も事情も一切聞かず』とライナスが頼んでいた為か、二人はエルダについて何か問いただすような事はせず、ただお茶を飲みながら他愛の無い話をするのだった。勿論何かを聞かれたとしても、フィルラーンの少女に「暗殺」だの「娼館」だのという言葉を、口が裂けても言える筈が無いのだ。ライナスには感謝せざるを得ない。
 緊張のあまり茶の味など全く分からなかったが、このように茶と会話を楽しむ事などエルダにとって初めての経験であり、全く不思議な空間だった。ただ、恐らく高級な茶葉を使っているのだろうこの紅茶を、マリーにも飲ませてやりたいなと、エルダは思った。
 そうして一刻程過ごした頃、再び部屋の扉が叩かれた。エルダがライナスに連れられ初めてここに来た時に、面会の間まで通してくれた中年の侍女だった。
「お話中の所を申し訳ございません。ユリア様、国王軍のクリユス様がお目通りを願いたいと」
「クリユスが」
 ユリアは今までの穏やかな顔を、急に固まらせる。そして「どうしよう」とつぶやいた。
 どうしたのかとエルダが怪訝な顔をすると、ユリアは困った顔をしながらもエルダに微笑みかけた。
「分かりました、面会の間に参りましょう。エルダ、あなたも一緒に来て頂戴」
「私も、ですか」
「クリユスの事だから、今更隠した所で既にあなたを知っているのでしょう。今日来たのはその為の筈です。……仕方が無い、大人しく怒られましょう……」
 ユリアはそう言うと溜息を一つ吐いた。
 ―――――フィルラーンを、怒る?
 何が何だかエルダには状況が良く解らなかった。フィルラーンを怒ることなど、例え相手が王であろうとも、彼女には想像する事が難しかった。


 面会の間に現れた男は、これまた今まで見た事も無いような、美しい男だった。
 恐らく肩より少し長いであろう金色の髪を頭の後ろで結び、白を基調とした、清潔感のある衣服を身に付けていた。腰に剣を佩いてはいるが、エルダが知るその他多くの軍人の武骨さなど何処にも見られない、洗練された全てのものがその男にはあった。
 女神のように美しい少女と、彼女の前に跪くその男の構図は、まるでマリーの言う所の『姫』と『騎士』だ。
 そう思い、とっさにそんな考えが頭に浮かぶ己はマリーに感化され過ぎているなと、ひっそりエルダは苦笑した。
「ところでユリア様、貴女がこの塔へ客を招いたとお聞きしました。是非、この私にも紹介して頂けませんか」
 一通りの挨拶を述べた後、その金髪の男は微笑みながらユリアにそう言った。
「あ……ああ、エルダ、こちらに……」
「はい」
 脇に控えていたエルダは、数歩ユリアの元へ近づく。男の視線がエルダに移ったが、しかし何と言っていいのか分からず、ただ名だけを名乗った。
「これは美しい方ですね。私はフィードニア国王軍第二弓騎馬中隊長を務めております、クリユス・エングストと申します。以後、お見知りおきを」
「こちらこそ……」
「―――それで、ユリア様。 エルダ様とはどういったお知り合いなのでしょうか」
「いや……」
 ぎくり、という顔をユリアはした。
「先日の舞踏会にはいらっしゃらなかったお方ですね。エルダ様というお名前を初めて伺いました、どちらのお家の方なのでしょうか?」
 クリユスはエルダにではなく、ユリアに向かい問う。
 その高圧的とも取れるクリユスの態度に、エルダは驚いた。国王軍中隊長という身分は、フィルラーンに対しこのような態度など間違っても取れる筈が無いというのに。
「クリユス、エルダはだな……」
「貴女ご自身が客として招いているのです、まさかご存知ないなどという事はありませんよね、ユリア様」
「………それは……その」
 ユリアは明らかにおろおろと言葉を濁す。素性を話していないのはエルダの都合なのである。だというのに己の事でこのフィルラーンの少女が責められるというのは不本意であった。
「クリユス様、私はライナス様に縁があり、彼の口利きにより恐れ多くもこちらへ一時身を寄せて頂いております。ユリア様が私の素性をご存じでは無いのは、こちらがどうぞお聞きになさるなとお願いしたからで…」
「ライナス殿の、そうですか……」
 クリユスはエルダの言葉を途中で切ると、その場に立ち上がった。そんな彼にびくりとユリアは身を縮める。その姿が可愛らしいと、不謹慎にもエルダは思った。
「―――――ユリア様。それでは貴女はどこのどなたともご存じない御婦人を、事情もなにもお聞きにならずに預かられたと」
「いや、わ、私だとて少しは考えたぞ…! けれどライナスが私に…フィードニアのフィルラーンに何か害を及ぼすような人間を預けて行く筈が無いと、そう私は判断したのだ……!」
「全く、困った人だ」
 クリユスはユリアに近づき、彼女の顔を覗き込む。
「私もライナス殿は信用しております。……しかし貴女に万一の事があった時、私がどれ程苦しむのか、貴女はご存じでしょうに……」
 そう言い、ユリアの金の髪に青年は口付けた。
 もしかするとこの二人は恋人同士なのだろうかと、エルダは思った。
 いつの間にか口調か変わっていたユリアは、今までのフィルラーンの威厳のようなものが消え去り、まるでその辺に幾らでも居る、ごくありふれた町娘の一人のようだった。

「分かった、再び同じような事になったら、お前に相談する事にするから。しかしエルダをこのまま預かるのはいいだろう? 私に危害を加える気があるのなら、とっくに加えられている」
「………仕方が無いですね。貴女は一度決めたら譲らない方ですから」
 諦めたように言うと、クリユスはついとエルダの方へ歩み寄り、そして己の胸に手を当て一礼した。
「ユリア様のお客人となられたからには、このクリユス、命に代えても貴女をお守り致しましょう」
 優雅に微笑むと、彼はエルダの手を取った。
「しかし、これ程に美しい女性と懇意であるとは、ライナス殿も中々憎い方だ」
「また、お前は……私の客人を口説くな」
「私も流石に上官の愛しい方に手を出す程野暮な男ではありませんよ。しかしそうでなければ口説きたい所、残念でなりません」
 呆れた様子のユリアを尻目に、クリユスはエルダの手に軽く口付けた。そして顔を上げると、小さく呟く。
「―――――貴女の言葉には、僅かにトルバの訛りがありますね」
「――――え」
 目を見開いたエルダに、クリユスは続けた。
「残念ながら私はユリア様のように、ライナス殿が信用している方だという理由だけで相手を信用できる程、お人好しな人間では無いのです。――――失礼だが、貴女には監視を付けさせて頂く」
 変わらず涼やかな笑顔のままではあるが、眼の奥には剣呑としたものが潜んでいた。
 フィルラーンの少女に万一の事があれば、害した者を必ずや見つけ出し八つ裂きにしてみせると、そうその眼が無言のまま語っているようにエルダには思えた。その眼は背筋が凍りそうな程に恐ろしくも、またそれ程に大切な存在がいる事が、羨ましくもあった。










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