63: 広がる疑惑





 トルバ国王軍総指揮官であるアイヴァンは、王城の一室である宰相室の扉を叩いた。
 中にいる人物からの返答を待ち、彼はその扉を開ける。
 その部屋の窓は北向きにあり、光が十分に差し込まぬ為、昼間でも薄暗い。陰鬱な部屋だとアイヴァンは思った。
 部屋にはトルバ国の宰相である老爺が、ハイルド大陸図を広げた大きな机に両肘を付き、窓を背にして座っていた。
「何か御用でしょうか」
 挨拶もせずに、アイヴァンは早々に切り出した。元々振りまく愛想など持ち合わせてはいなかったが、この男が相手となると余計に眉間の皺が濃くなるのだった。
「ボルテンとフィードニアの戦いの報告をまだ聞いていなかったものでな」
 男は大陸図から目を離すとそう言った。痩せこけて枯れた倒木のような体に、だが眼だけはぎらりと光っている。
「ああ……ボルテンは貴方の指示通り動いたようですよ。しかし、折角袋の鼠に出来る所をみすみす見逃すとは……我らも出陣し一気に叩き潰してしまえば良かったのではありませんか」
 面白くもなさげにアイヴァンは答えた。
 どこから仕入れた情報かは知らぬが、折角フィードニアの奇襲の情報を得たのだ、しかも少数の兵の中にあの『フィードニアの英雄』と呼ばれる男がいたのだという、あれはフィードニアを叩く千載一遇の好機では無かったのか。
 それをボルテンの少数の兵のみで、フィードニアを撹乱するだけしてさっさと撤退させるとは。この男が何を考えているのか解らず苛立ちを感じた。
 いや、そもそも腹立たしいのは戦略がどうこういうよりも、宰相であるこの男が一々軍に口出しをしてくる事自体が我慢ならなかった。宰相ならば大人しく政務のみを行っていればいいのだ。それを己で戦いも出来ぬ男に一々指図されねばならんとは。
 しかし他でもない、近隣諸国との同盟を成功させたのが、この痩せこけた老爺―――トルバの宰相ハイラムである為、今やトルバのみならず、連合各国の国政、軍部にも睨みを利かせられるほどの立場にこの男はおり、故に国王軍総指揮官であるアイヴァンでさえ、表立って逆らう事が出来ぬのだった。

 そんなアイヴァンの不満など意に介す様子も無く、ハイラムは再び大陸図に目を落とした。
「確かに今回フィードニアは奇襲戦の為、少数での侵攻だったかもしれぬ。だが今まででも他国への侵攻に大軍を成していた事は無いと聞くぞ。ならばボルテンに多少我がトルバの軍が加わった所で勝てるとも限らぬ。逆に我らが大軍を成せば、近づく前にこちらの動きが知られ、直ぐ様逃げ帰ってしまった事であろうよ」
『我がトルバの軍が加わった所で』という言葉が気に入らなかった。
「フィードニアが少ない兵で今まで勝ち続けていたのは、単に周りの国が腑抜けだったに過ぎぬのではありませんか」
 フィードニアなど、小国同士の小競り合いに勝ち続け、たまたま大国になったに過ぎぬのだ。東の大国ティヴァナとは大違いなのである。そこまでフィードニアに執着するハイラムの気が知れなかった。
『フィードニアの英雄』の噂もどこまでが本当の事なのか分からぬ。いや、噂が独り歩きしているに過ぎぬだろうと、アイヴァンは思っていた。
「策など弄さずとも、フィードニアなど我がトルバが叩き潰してみせますよ。それより、ティヴァナ攻略に力を入れて頂きたいものですな」
 その言葉にハイラムは口の端を僅かに吊り上げた。
「フィードニアの英雄を倒す自信があるというか。これは笑止。お前では太刀打ち出来ぬよ」
「な―――何を、無礼な………!」
 目を吊り上げたアイヴァンに構う事無く、老爺は続ける。
「ティヴァナにもフィードニアにも、今の我がトルバでは太刀打ち出来ぬ。だから近隣諸国との同盟を結んだのだ。それ位の事も理解出来ぬ男が国王軍総指揮官の座に据えられているとは、この老人がいつまでも隠居出来ぬわけよ」
「何だと、黙っておればこのアイヴァンに対し非礼の数々、許せんぞ……!」
 思わず腰に佩いた剣に手が伸びる。だが王の覚えの良いこの男を激情のまま切って捨てたとあれば、己自身の身も危ういだろう。伸ばした手を握りしめ、彼は必死で怒りを抑えた。
「そのように直ぐ頭に血が上る所が、既に駄目だと言っておるのだ。まあ、剣を抜かなかった事だけは褒めてやるがな」
「く…………」
 総指揮官の職に付き既に十年、四十を少し超えた歳であるアイヴァンに対しての、この若造扱いである。矜持に傷が付き、彼は怒りで腹が煮えたぎった。
「ならばこの浅はかな私めにお教え願いたい。あのボルテンでの奇妙な戦法にはどのような戦略があったのか」
 アイヴァンにしてみたら、これは精一杯の厭味であった。宰相が軍に口出しし、どれほどの高尚な策を考え付いたのだと、このトルバ国王軍総指揮官である己が吟味してやろうというのだ。
「戦略……戦略か」
 くく、とハイラムは笑った。
「あれに戦略などありはせぬ。ただ暗にフィードニアの行動はこちらに洩れているのだと、あやつらに示してやっただけの事よ。つまりは貴様たちの内部に裏切り者がいるのだとな」
「なんと……それはどういう」
「内部に裏切り者がいるとなれば、兵士達は疑心暗鬼を募らせる。互いが互いを疑い始め、それは次第に内部分裂を呼びこむのだ。 ここが成り上がり国の弱い所よ、寄せ集めの兵士達は一枚岩には成り得ぬ。ほんの少し亀裂を入れてやるだけで、あとは勝手に崩れてくれるのだ」
 正攻法で戦う事だけが戦いでは無いと、ハイラムは言った。
 それは確かにそうかも知れぬが、根っからの武人であるアイヴァンにとっては胸糞悪い手段である。
 彼は再び眉間に皺を寄せ、黙したまま陰気なその部屋を後にした。










 フィードニアに内通者がいるのではないかという噂は、瞬く間に軍内に広まった。
 その話題の中で、最も噂されるのが旧シエン国カリア領領兵軍の副軍団長であったハロルドと、彼が連れてきた一個中隊の兵士達である。
「先の戦いで少しは活躍し、フィードニア兵士達にも受け入れられつつあったというのに、またもや最初に逆戻りといった所か」とハロルドは苦笑していた。
 それだけでは無い。内通者のそしりを受けているのは、元々はティヴァナの軍人であったクリユスやラオにも及んでいるのである。これはロランにとって、同じフィードニア兵として情けなく、腹立たしくてしかたがなかった。
「クリユス隊長も、ラオ殿も、フィードニア国王軍の中でどれだけ活躍されていると思っているんだ……!」
 ロランは酒を片手に叫んだ。
「分かった分かった、何度同じ事を叫べば気が済むんだ。二人の事を言ってる奴なんぞ、ほんの一部じゃないか。疑いの目で見ればどいつもこいつも怪しく見えるもんだぜ」
 鬱陶しそうにアレクが言う。 同じフィードニアの国王軍、いわば仲間が仲間を疑っているこの事態に対して、そのように他人事のような態度を取るとは何という薄情な奴だと、今度はアレクに対し腹が立ってきた。
 そもそも何故この男とこうして酒を酌み交わさなくてはならないのだ。前のように娼館へ無理矢理連れだされないだけましではあるが、どうにもこの男の調子にいつの間にか巻き込まれている。
 今夜もその「内通者」を調べるため、他の兵士達に探りを入れてみようと思っていたというのに、何故かこうしてアレクなんかと差し向かいで酒を煽っていた。
 まさかこいつが実は内通者で、この俺をわざと撹乱しているのではあるまいな。
 じろりとアレクをめ付けながら酒を口にし、そして妙に納得したのだった。
「成程。確かに疑いの目で見れば、どいつもこいつも怪しくなるものだな」

 二人は今、西門近くの馴染みの店で飲んでいた。
 ―――馴染みの店。いつの間に、こいつと飲む為の馴染みの店なんてものが出来上がっているのだ。
 ロランは酒を煽りながら、憮然とした。
「俺はもう戻るぞ、お前もユーグに説教されん程度で戻るんだな」
 金を机に置くと、ロランは席を立つ。いつもならユーグの事を口に出すと、子供のように膨れるアレクであるが、今日は何故がにやにやとしていた。
「今日はどうせ、あいつもまだ宿舎に戻っちゃいねえよ」
「何だ、出掛けているのか? 珍しいな」
 あの頭の固い男が、アレクを野放しにしたままどこかへ行くとは珍しい。
「あいつの、じーさんの所にな」
 アレクはへへ、と笑いながら、鼻の頭を掻いた。
「あいつの生き別れのじーさんが最近見つかってな。ま、見つかったのは俺のお手柄ってやつなんだけどよ」
 得意げに言うアレクによると、その『じーさん』はここ王都ルハラの東地区に住んでおり、十七年間孫の『ユーグ』を探していたのだそうだ。そして最近、偶然アレクと街でぶつかり、彼の側近であるユーグとその『じーさん』の孫が同じ人物であると分かった。
「最初はユーグも会うのを渋ってたんだけどな。無理矢理会わせてみたら、お互い何か感じるものがあったんだろうな、すぐ打ち解けちまってよ。いやあ、中々感動的な再会場面だったぜ」
 へらへら笑うアレクに、ロランは脱力感を感じた。
「―――――――お前、馬鹿か……?」
「何だと」
 笑みを消したアレクの前に、ロランは再び座る。そして周りに聞こえないよう声を低くして言った。
「連合国軍との戦いが始まり、敵の密偵に目を光らせているこの今、偶然十七年前に生き別れたじーさんに出会っただと? そんな都合のいい話がある訳無いじゃないか……!」
 目を吊り上げるロランに、アレクはむっとしたような顔をする。
「じーさんが密偵だっていうのか?」
 アレクはロランの胸倉を掴んだ。
「そんな事なあ、そんな都合のいい話があるかなんて事は、俺もユーグも散々考えたさ。けどユーグを騙す為にあれ程似たじーさんを用意なんて出来るもんか。顔だけじゃ無い、雰囲気だって似てるんだ。会ってみればお前だって分かる、絶対血の繋がった本物のユーグのじーさんだよ」
 ――――これだから苦労知らずの坊ちゃんは。
 ロランは思わず舌打ちした。日頃とんがって見せていても、本質は育ちのいい上級貴族の坊ちゃんなのだ。あれ程普段憎たらしい男だというのに、こんな所で人が良い。
「馬鹿野郎、どれだけ似てようが知った事かよ。内通者が誰なのか軍内がぎすぎすとしている今、そんな怪しいじーさんに会っていて、ユーグ自身が怪しまれる事にもなりかねないって、お前分からないのか……!」
 はっとしたようにアレクは目を見開いた。
 だが直ぐにロランから眼を逸らすと、「それでも、あのじーさんを疑う気にはなれねえよ」と呟いた。「良いじーさんなんだ、本当に」
 ロランの胸倉を掴んでいた手を離すと、アレクは椅子の背に凭れるように座る。
「――――だがもし万が一じーさんが連合国の密偵だったとしても、ユーグは例え身内が相手であろうと、軍内部の事をぺらぺらと話しちまうような奴じゃねえ。内通者がいるのなら、別の人間だ」
 頑なな眼が、これだけは譲れないとロランを睨みつける。
 確かにユーグはそんな浅はかな男では無い。ロランは頷いた。
「何にしてもこの騒ぎが収まるまで、あまりユーグにはそのじーさんの所に会いに行かせない方がいいな」
「………十七年ぶりに会えたのに、会いに行くななんて言えねえよ……」
 珍しくしょげるアレクの姿に、ロランはひっそり苦笑する。普段もこう殊勝な男だといいんだが。

「内通者は俺が必ず見つけてやる。それまでの辛抱だって言っておけ」
「内通者を見つける? お前が?」
 驚いたように瞬きをすると、アレクはロランの目を覗き込むように見詰めた。そしてにやりと笑う。
「―――それ、俺も一枚かんでやるよ。お前一人じゃ危なっかしくて見てられねえからな」
「……何だと?」
 アレクは二人分の酒を注文すると、酒の注がれた器を目の前に掲げ持った。
「それにお前一人、ユリア様に良い所を見せようったってそうはいかねえよ」
「ば…馬鹿な事を言うな、何故ここにユリア様が出てくるんだ……!」
「まあまあ、怒るな相棒」
「相棒――――?」
 俺が、こいつと? 馬鹿な、有り得ない。
「ほれ、乾杯……!」
 ロランの持つ酒器に、アレクは己が持つ酒器を押しつけるように合わせてきた。
 かちんと音がし、なみなみと入った酒が揺れる。

 思わす滑らせたたった一言の言葉をこれ程に後悔したことは無いと、ロランは頭を抱えながら深く思うのだった。











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