61: 剣と血と 





フィードニア国王軍と領兵軍の間を割くように、突如として現れたボルテン兵の討伐に、本軍は出撃した。仮に敷かれた陣に残された兵士達は、不安げに囁く。――――何故フィードニアの侵攻が敵に知れたのか。もしやフィードニアに裏切り者がいるのか、と。
「何を言うのです。フィードニアに裏切り者などいる筈がありません。仲間に疑心を持つなどお止めなさい、そのような事を神が知ったら、さぞお心を痛める事でしょう」
「あ、ユリア様……!」
 慌てて兵士達は平伏する。少女を戦女神と崇める彼らは、まるで神そのものに苦言を頂いたかのように、恥じらう様子を見せた。
 「何故」という言葉はユリアの心の中にも繰り返し現れてはいたが、しかしこうして一人一人が皆必死に戦っている姿を間近で見ていると、彼らの中に裏切り者がいるなどとは、到底信じられる事では無かった。いや、そのようなことは考えたく無い、というのが本音だろうか。

「ユリア様、外に出られては危険です。どうか天幕へお戻りください」
 兵士の一人がユリアに声をかけた。
 この兵士は知っている。ここに来るまでの道のりで、名を訊ねた事がある兵士だ。彼の名は、そう確かフランクと言った。
 目は幾分か小さく鷲鼻をしており、顎は尖っている。髪は黒く、短く刈り上げていた。多くの兵士達の中に混ざれば、左程目立つ事も無い男であろうと思えた。
「いいえ、危険と言うならば皆同じこと。私一人が隠れている訳には参りません」
 戻れと言う言葉に、ユリアは顔を横に振る。
 今ここに己が立っていた所で、彼らの役に立つとは微塵も思えなかったが、それでも前の戦いのようにただ隠れているだけということは、もうしたくは無かった。何も出来ぬと嘆き、戦いから目を逸らすような事はしまいとあの時誓ったのだ。
「しかし、貴女の身に万が一の事があっては」
「フランク」
 名を呼ばれ、フランクは驚いたように目を見開いた。
「あなたの命と、私の命。どちらがより大切などという事は無いのです」
「ユリア様……! いいえ、それは違います」
「違いません」
 ユリアはきっぱりと言い放つ。
 イアンにしろ、前の戦いでユリアの目の前で死んでいったサイモンにしろ、命の重さに違いなどある筈がないのだ。もしどうしても優劣を付けねばならぬのだとしたら、それはきっと今この場で一番役立たずであるユリア自身の命が、一番軽いに違いなかった。
 ユリアは不安げな表情をしていた先程の兵士達の前に、進み出た。
「――――我らの頭上には神が付いているのです。大丈夫、ボルテンの策などに嵌るフィードニアではありません」
 大丈夫。
 ユリアが今彼らに対し出来る唯一の事。それは彼らにこの言葉を捧げること、それだけなのだ。だがたったそれだけの為に、ユリアは今ここに立っていた。



「報告します、新たなボルテン兵が、後方に出現しました……!」
 一人の兵士の甲高い声が、辺りに響いた。
「その軍はこちらへ…本軍では無く、我らの居るこの陣営へ向かって来ております……!」
「なんだと……!」
 俄かに陣営がざわついた。新たなボルテン兵はおよそ三千余りだという。片やこの後陣に残っている兵士は一千に足らぬ程である。
「ユリア様、天幕の中へ。お早く……!」
 フランクの形相が切羽詰まったものに変わった。
「しかし、私は……」
「今ならばボルテンも、まさかフィルラーンの貴女がこの地へ同行しているとは思っていない筈です。隠れて、息をひそめてじっとしていて下さい」
 フランクは「失礼します」と断りを入れ、ユリアの二の腕を掴むと、天幕の中へ彼女を強引に押しこんだ。
「フランク……!」
「どうぞ本軍がここへ戻ってくるまで、声をお出しにならぬように」
 天幕越しのその声は、幾分くぐもって聞こえた。
 ――――本軍がここへ戻ってくるまで。
 その言葉は、自分達の生は既に諦めたものとしているようにも聞こえた。
「ユリア様……私の名を覚えていて下さった事、嬉しかったです」
 小さく聞こえたその声を最後に、足音が遠ざかる。
「フランク……!」
「駄目です、ユリア様……!」
 追いかけようとするユリアの身体を、誰かがしがみ付くようにして引き止めた為、身動きが取れなかった。
 戦い殺し合うのが戦場というものであるというのに、それでも誰一人傷付いて欲しくないと願う事は、愚かであろうか。
 多くの人間が傷つき倒れている中で、目の前にいる一握りの人間の死を回避したいと願う行為は、だたの感傷に過ぎないという事も分かってはいる。だがそれでもユリアは願わずにはいられなかった。
 どうか、どうか無事でいて下さいと。


 戦いの喧噪が次第に近づいてくるのを聞き、ユリアは己の荷物が入った袋を取り出した。
 ――――敵に、捕らえられる訳にはいかない。
 袋の中にはクリユスに貰った片腕程の長さの小剣が入っている。久しぶりに手に取ると、それはずしりと重かった。
 万が一囚われの身となってしまったら、恐らく自分はフィードニアに対して大きな枷となるであろう。役立たずどころか、これ以上の足手纏いになる訳にはいかなかった。
 ――――この剣は、己を殺す為の剣だ。
 最初にクリユスからこの剣を受け取った時、ユリアはそう決めたのだった。
 そしてそれは、今この時の為の剣だったかもしれない。
「ゆ――――ユリア様……! 何をしているのです……!」
 叫ぶ声が身近で聞こえ、ユリアははっとなる。
「ダーナ……」
「そのように物騒な物を何故ユリア様がお持ちなのです? 危ないですわ、お放し下さいませ」
 ダーナは頭を横に振ると、剣をユリアの手から奪おうとする。
 なんて事―――そうだ、ここにはダーナもいたのだ。
 もしここで自分が自害したとして、そうしたらダーナはどうなる? 敵にとらまえられでもしたら、どのような目に会うのか。それは想像するにかたくない事だろうと思えた。
 しかしだからといって、今ここで自分と共にダーナを死なせる訳にはいかない。そんな事は絶対に駄目だ。
 彼女だけは無事にここから帰さなくては―――――。
 ユリアは剣を鞘から抜くと、ロランに教わったように構えてみせた。
「ダーナは私の後ろに下がっていろ」
「まあ、何を仰っているのです? 私がユリア様の後ろになど……」
「いいから」
 ユリアは無理矢理笑みを作った。
「実は以前こっそりロランに剣を教わったのだ。それにクリユスも、剣を持って対峙するだけでも、多少は相手も怯むものだと言っていた。本軍が到着するまでの時間稼ぎ位はしてみせる」
 教わったと言っても数回習っただけで、剣を扱えるようになったとはとても言えない腕前である。時間稼ぎすら出来るかどうか疑問だったが、それでもやらねばならないと思った。
 もしこの天幕の入口を開く者が敵ならば、自分は何としても―――例え相手を傷つける事になろうとも、ダーナを守らなければならない。
 敵とは言え、この手で相手を傷つけたくないという想いは勿論捨てきれなかったが、その心を押し殺してでも、どうしても彼女を失いたくは無かった。
 先程「命の重さに違いなど無い」と言ったその口で、今は敵の命より友の命を優先させたいと願う。その身勝手さにユリアは思わず苦笑した。フィルラーンでありながら、やはり己は神とは縁遠い存在なのだ。

「けれどそれでは立場が逆ですわ、時間稼ぎならば、私が―――」
 自分が盾になってみせると、ユリアよりも前に出ようとするダーナを、ユリアは制した。
「し……黙って……」
 先ほどよりも戦いの音が近い。敵がもう、すぐ近くにまで迫って来ているのだ。
 剣の響く音がはっきりと聞こえた。馬の蹄の音、兵士が叫ぶ声。
 両手できつく握りしめていた剣ががたがたと震えるのを、止める事が出来なかった。全身から汗がにじみ出る。
 足音が近づいてくる。その足は明らかにユリアがいるこの天幕に向かっていた。

(クリユス、クリユス――――)
 助けてと、心の中でユリアは叫ぶ。

 天幕の入口の前で、足音が止まった。
 それを開く者は、味方なのか。それとも、敵なのか――――。

 ユリアは息を呑んだ。
 天幕の戸が、開く。









「――――無事だったか」
 吐き出すように呟かれたその声は、敵のものでは無かった。
 それは彼女が助けを渇望したクリユスのものでも、先程別れたフランクのものでも無い。
 今ここに現れるとは想像だにしていなかった、黒い髪の男―――それは今戦場の最前線で戦っている筈の、ジェドのものだった。
「何故」
 ユリアは崩れ落ちるように床に手を付いた。
「何故お前が」
 私を助けに来るのだ。
 ジェドの呼吸が、この男には珍しく少しだけ荒くなっている。駆け付けてくれたというのか。そんな、まさか――――。
「――――何だ、その剣は。神の真似ごとの次は兵士の真似ごとか?」
 嘲るようにそう言うジェドの態度は、いつもと変わらぬものだった。
「う、五月蠅い……! 必死だったのだ、私は……!」
 真似ごとでも何でも、ダーナを守りたくて必死だったのだ。ジェドの登場に「良かったですわね」と笑むダーナが、崩れ落ちたユリアの背中を支えるように回された彼女の手の暖かさが、それらが失われずに済んだ安堵感に、泣きそうになった。
「ああ……良かった、ダーナ」
 助かったのだと、思った。
 何故この男がここへ現れたのかは分からないが、兎も角ダーナが笑っている。それが何より嬉しかった。
 ジェドの登場に安堵感を抱いたという事実が悔しくもあったが、それでもこの男が現れなければ、きっと己もダーナも無事ではいられなかっただろう。
 緊張が溶け崩れた今、素直に感謝の気持ちが沸き起こった。
 礼を言うべきか、と顔を上げたユリアは、ふとジェドの右手が微かに震えている事に気付いた。
「その手―――どうしたんだ」
 立ち上がり、ジェドの方へ一歩足を踏み出した。その時。
「………近づくな………!」
 思いがけずジェドに怒鳴られたユリアは、びくりと身体を震わせ足を止めた。
「な―――――」
 ジェドのはっきりとした拒絶に、ユリアはその場に固まる。こんな事は、初めてだった。
 普段では嫌がらせのようにユリアへ近づいてくるのは、この男の方だと言うのに。
「わ、たしは別に、お前になど好き好んで、近づきたい訳では」
 何を弁解したいのか、自分でも分からなかった。
「血が………」
「え?」
 ジェドがぼそりと口にしたその言葉が、ユリアにはよく聞き取れなかった。聞き返す少女の問いに、だがジェドは答えない。
「フィルラーンを敵に奪われる訳にはいかぬ、無事ならいいのだ。―――お前も戦場などにのこのこと付いて来るから、このように恐ろしい思いをする。自業自得だ」
 ユリアと目を合わそうともせず、素気無すげなくそう言うと、ジェドは天幕から出て行った。
「何を……勝手な事を………!」
 突然現れ、一方的にものを言い、そして己一人で完結しさっさと去っていく。いつもいつも勝手なのだ、この男は。
 そう、いつもの事だというのに、何故このように自分は動揺しているのだろうか。
 ―――――――礼を言おうと思ったのに。
 過ったその思いを、ユリアは心の底に飲み込む。礼など言わなくて良かったのだ。余計あの男を図に乗らせるだけだったに違いないのだ。そう、ユリアは無理矢理己を納得させた。


 その時、ジェドと入れ違うように天幕の中へラオが駆け込んできた。
「ダーナ―――ユリア、無事か?」
 汗を大量にかき息を弾ませたラオは、二人の少女の姿を確認すると、安心したように胸をなでおろした。
「私達は大丈夫だ。戦況はどうなっている?」
 戦いの音はほぼ止んでいた。一応それなりに決着はついたのだろう。
「ああ、二つのボルテン軍は何とか蹴散らしたさ。全体的に大した相手じゃ無かったな。―――それよりも、参ったぜ」
 ラオは己の頭に手をやると、がしがしと掻き毟った。
「緑鷲旗の領兵軍を俺達の隊は狙ってたんだが―――その軍隊長を目前にして、なんとジェド殿がそいつに背を向け駆け去っちまったんだからな。驚いたのなんの」
 ラオは話しながら、大仰に目を丸くして見せた。
「何だって……?」
「まあ、慌てて俺が相手をしたんだけどな。あの男が敵前逃亡なんぞする筈が無い事はわかっちゃいるが、皆呆気に取られてしまってな……ちょっと片付けるのに手間取っちまったぜ」
「まあ、それはきっとユリア様を助ける為にお戻り下さったのに違いありませんわ……!」
 ダーナがポンと手を叩き、喜々としてそう言った。
「何を言っているんだ、ダーナ。そんな訳無いではないか」
「けれどユリア様、一番にここへ駆け付けて頂いたのは、ジェド様ではありませんか」
 馬鹿な。
「例えそうだとしても――――。そう、己がこの場におりながら、みすみす敵にフィルラーンを奪われたとあっては英雄の名折れだと、そう思っただけに過ぎないだろう」
『フィルラーン』を保護する為に、敵を目前にしながら取って返す羽目になったのだ。さぞ腹立たしい事であったに違いない。
 故のあの態度かと思えば、得心が行くではないか。
 だからといって、どうでも良い事ではあったが。

「それより…皆は無事か?」
 外の様子が気になり、ユリアは天幕から抜け出した。
 クリユスが顔を見せないのも気になったし、フランクを含め、ユリアの護衛をしてくれていた兵士達の安否も気になったのだ。
 辺りを見回していると、ふと、こちらへ駆けて来る一人の兵士の姿が目に入った。黒く、短く刈り上げた頭―――フランクだ。
「ユリア様、ご無事で何よりです」
 目の前まで来ると、彼は片膝を折り跪いた。
 ああ、無事だったのだ。
「あなたこそ――――無事で良かった……」
 あのように去って行った姿が、最後の別れにならなくて良かった。
 安堵し、ユリアの顔に笑みが浮かんだ。
「そのような、私などに勿体無い……」
 フランクはつられたように、そして照れたように笑った。 









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