54: 溶けゆく想い





 ユリアはフィルラーンの塔にある客間の扉を叩いた。
 返答が聞こえるのを確認し、中へ入る。そこには光が差し込む出窓に、ゆったりと腰掛けるクリユスの姿があった。
「突然呼び出して済まなかったな」
 ユリアの言葉にクリユスはいいえと首を横に振る。
「貴女がお呼びとあらば、いつでもどのような所へでも喜んで参りますよ」
 クリユスはにこりと微笑みながらうそぶく。この男のこういう所は未だに苦手だと、ユリアは思った。
 彼は座っていた出窓から腰を上げると、ユリアの前で片膝を付き跪く。
「さて、この私に如何なる御用でしたでしょうか、ユリア様?」
「……よさないか、お前まで」
「いいえ、貴女はフィードニアの戦女神。これまでと同じという訳には参りません」
 その‘戦女神’に仕立て上げた張本人が何を言う。うやうやしく頭を下げるクリユスを見下ろしながら、ユリアは溜息をついた。
 こんな茶番にいつまでも付き合っているつもりは無いのだ。
「もういいクリユス、いいから立て。今お前がこの場に立たねば――――今後あくまでも私を偽りの神として利用しようとするのならば、私はもう二度とお前を兄とは思わない、友人とも思わぬ」
「――――――――」
 クリユスは黙ったまま、ただユリアの前に頭を垂れるのみである。微動だにしないその姿には、ほんの少しの迷いさえも感じられなかった。
「―――――それでいいという事だな。お前は、ただ私を利用していただけなのだと、そう認めるというんだな?」
「………そう思って頂いても構いません」
 クリユスはそうはっきりと口にした。
「そうか………」

 なんと頑なな男だろうかと、ユリアはクリユスの頭を眺めながら苦笑する。
 少女は跪く彼の前にしゃがみ込むと、両手をクリユスの頬に当て、無理やり顔を上げさせた。
「――――馬鹿、そんなの私が嫌だ」
「――――――は?」
 感情の籠らぬ無表情を作っていた顔が、呆けたようになるのを見て、ユリアは満足したように笑った。
「ふふ、やっとお前の顔を崩してやったぞ」
「ユ……ユリア様……?」
 何を言っているのか分からぬというように、クリユスは眉間に皺を寄せる。
 こんな風に困った顔をする彼を見るのはどれくらいぶりだろうか。幼い頃はよく、我儘を言って彼にこんな顔をさせたものだ。
 ユリアはクリユスの頬に手を当てたまま、彼の瞳を覗き込む。
「――――人に嫌われても良いなどと、思うな。お前の悪い癖だ」
「ユリア様、何を…」
 少女はその場に立ち上がると、クリユスの腕を引っ張り、今度こそ彼を立ち上がらせた。
 見下ろしていた顔を今度は見上げる。
「済まなかった、クリユス」
 ユリアは詫びた。クリユスの顔にはっきりと動揺の色が混じる。
「貴女が私に詫びる必要がどこにあるのです? 私は、貴女に……」
「私は帰路の馬車に揺られながら、ずっと考えていたのだ」
 何の為に、クリユスは私を戦女神に祀り上げようとするのか。彼は一体何をしようとしているのか。
 ジェドに頼り切る兵士達の心を変えさせるには、他に拠り所となる別の存在が必要なのだと考えたのかもしれない。それは、あるだろう。
「お前が私に神の影を被せようとした時、私はお前を疑った。全てはお前の私欲の為に、私は利用されていたのかと」
「……そう思われても致し方有りませんね」
 クリユスはまた、いつもの笑顔を顔に貼り付けようとした。
「何故だ」
「は?」
「何故、私はお前を疑う事になったのだ? お前が私を利用しようとするなら、お前は私に疑心など持たせること無く操る事も出来るだろう、お前はそういう男なのだから」
 じっと瞳を見詰めるユリアに、クリユスは微かに怯んだ顔を見せた。
「そのように、買い被られましても困りますね。そこまで頭が働かなかった、それだけの事です」
「――――いいや、違う」
 ユリアはクリユスの胸元辺りの服を、両手でしがみ付くように掴んだ。この手を離してしまったら、目の前から彼が消えてしまうとでもいうように。
「お前はいつか、自分さえ犠牲にしてみせる事を考えていたのだ。だからその時に私が苦しまないよう、今から私がお前を嫌ってしまうように、そう仕向けたのだ」
「馬鹿な」クリユスは頭を振る。「そこまでの自己犠牲の精神など、私は持ち合わせてはいませんよ」
 貴女の瞳にそのように善人に映っているのだとしたら、嬉しい限りではありますがと、クリユスは笑みを作る。
 だがユリアは知っていた。初めて出会ってから今まで、クリユスがどれだけ少女を慈しんでいたのか。本当の妹を想うように、彼はいつでもユリアを想ってくれていた。過去を振り返れば、今までの彼の様々な行動は、全てユリアの為に行われていたと言うのに。
「それを忘れて、少しでもお前を疑った私が愚かだったのだ。済まない、クリユス」
 裏切ったのは彼では無い。疑心を抱いた私の方なのだ。
「ち―――違う、貴女は勘違いをしている」
 服を掴むユリアの手を離そうと、彼の手が少女の腕に伸びたが、触れる事を躊躇するかのように宙で止まった。そして変わりに顔を逸らす。
「ユリア様―――何を、馬鹿な。私は貴女を戦場に連れて行けば、貴女が苦しむ事を知っていた。そして苦しんだ貴女が、最後には神を演ずるしか無くなるのだということも、分かっていたのです。分かっていて、私は貴女にそれを強いた」
「そうだとしても」
 例えクリユスのシナリオ通りに動いていたのだとしても、サイモンの死の瞬間、彼の手を取った事を己は後悔などしていない。
 私はあの戦場で、自らの意思で神をかたる事を選んだのだ。クリユスのせいでは無い。
「それはきっと全て私の為なのだろう? 私はもうお前を疑わない。例えこれから何があったとしてもだ」
「ユリア様……………」

 力が抜けたように、クリユスは再び出窓に腰を下ろした。
 そして「はは」と笑った。
「参ったな――――ユリア様、ロランの台詞では無いが、貴女は人を信用し過ぎる。そんな事ではこれから先どれ程の危険な目に会う事か……」
 片眉を顰め小言を言い始めたクリユスのその顔は、彼女が小さい頃からよく知る兄のもので。
「ああ、もういい。折角いつものお前に戻ったと思ったら、早速説教とはな。私はもう子供では無いぞ」
 仏頂面になるユリアを見て、クリユスは再び笑った。それは今までの仮面のような笑みでは無く、自然に零れ落ちた笑みだった。
「子供ですか―――それでは」
 クリユスは座ったまま、両手を広げる。
「子供の頃のように、抱きしめて差し上げましょうか? 拗ねた貴女をあやすにはこれが一番でした」
「ば―――馬鹿……! 私はもう子供ではないと言っているではないか…!」
 顔を赤くするユリアに、クリユスは優しく微笑む。
「――――――おいで、ユリア」
「な………」
 やっぱり、クリユスはずるい。ユリアが逆らえない言葉を知っているのだ。
 伸ばされる手に、ユリアは手を重ねた。大人しく隣に腰かけたユリアを、クリユスは包み込むように抱きしめる。胸の鼓動が聞こえた。懐かしい音だ。
「――――戦場は恐ろしかっただろう。よく頑張ったな、ユリア」
「クリユス………」
 思いがけず貰った優しい言葉に、ユリアは目を見開く。
「目の前で人が死んでゆく苦しみに、よく耐えた。……偉かったな」
 まるで子供をあやすように、クリユスは言う。
「子供では無いと、言っているのに………」
 血の匂いや剣が交わる音、砂埃、馬のいななき。
 そう、それは彼女がこれまで経験した事の無い恐怖だった。
「怖かった……」ユリアはぽつりと呟く。
 耳元で囁かれる優しい声に、思わず涙が零れた。強くなろうと決めたのに、これくらいで泣いてどうするのだ、私は。
 だがそう思ってはみても、涙は止まらなかった。
「怖かった……怖かったんだ、クリユス。なのにお前が傍にいてくれなかった」
「済まなかった、だがもう傍を離れる事はしない」
 宥めるように、彼はユリアの頭を撫でた。そして頬に残る涙の痕を指で丁寧に拭う。
 戦場からずっと緊張し張り詰めていたものが、今やっと溶けてゆくのを、ユリアは感じた。

「―――それにしても、君には参ったよ。これで俺が用意していた筋書きを修正しなくてはいけなくなった」
 本当に参ったなと、クリユスは呟く。どんな筋書きを用意していたのかは分からないが、きっとその方が良いに違いなかった。自分を犠牲にする手段など、彼に考えて欲しくは無かった。
「私の前からいなくなるな、約束だぞ」
 ユリアは顔を上げる。クリユスの菫色の瞳と、間近でぶつかった。子供の頃との距離間の違いに、当たり前ではあるが、ほんの少し驚ろかされた。
「分かりました」
 クリユスは目を細め微笑んだ。

 綺麗な瞳だなと、ユリアは思う。
 こうして間近で見ると、なんて睫毛まつげが長いのだろう。陽の光に当たって、金色の髪も睫毛も、きらきらとしていた。それは菫色の瞳になんと良く似合うのだろうか。
 じっと眺めていたら、その目が再び細められる。もっと見ていたいのにと勿体無く思った時、顔が更に近づいている事に気付いた。
「――――――え」
 そう思った次の瞬間には、クリユスの唇がユリアのそれに重ねられていた。
「ク………クリユス………? な―――何を―――――」
「これは、申し訳ありません。女性からそのように間近で見詰められてしまうと、つい……」
 悪びれ無く、クリユスは微笑んだ。
「つ―――ついでは無い……!」
 顔が火照る。クリユスの腕の中から慌てて離れると、それを誤魔化そうとするように、ユリアは叫んだ。
「この、馬鹿……! 女ったらしが……!」
 その場から立ち去ろうとするユリアの背後から、堪え切れず笑うクリユスの声が聞こえた。









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