51: 遠き日の誓い





 白い布がたなびいていた。
 両軍がぶつかり合う戦場の、後方にある小高い丘の上でそれははためいていた。その白さは戦場に不釣合いな程の清浄さで、戦いに没頭する兵士達の目をも惹きつけた。
 厚い雲から時折洩れる光が、その白い布を掲げる少女の長い金の髪を輝かせる。
 戦場に降り立った女神だと、クリユスは思った。少女に神の役を担わせようと画策した彼の目にさえそう映るほどに、その姿は神々しく見えた。
「―――――――女神だ………!」
 ハロルドが叫んだ。
「お前達、我が軍には戦女神がついているのだ、それで我らが負ける事など、あろう筈が無い……!」
 その叫びに、ハロルドの部下達――――いや、それを耳にした全てのフィードニア兵士の顔つきが変わった。
 ハロルドのげきに呼応するように、兵士達はときの声を上げる。そしてそれは次第に全軍に広がっていった。
 今この戦場を支配している者は、紛れも無くあの小さなフィルラーンの少女だった。

 ――――――これだ、この瞬間を待っていたのだ。
 クリユスは己の体が喜びに震えるのを感じた。
 この国にやってきてから、この日が来るのをずっと待っていた。しかもそれは、予想よりも遥かに効果的な形で実現する事となったのだ。
 今、ゆっくりと劇場の幕が開いてゆく。知らずのうちに、クリユスの顔に笑みが浮かんでいた。



 クリユスが初めてフィードニアの地を訪れた時、彼はこの国の国王軍へ入軍する以上の事を、特には望んでいなかった。
 他国出身――しかも敵対するティヴァナ国の国王軍に居た人間である。フィードニア国王軍へ入軍すること自体が難しいというのに、その中で更に出世するなど、望むべくもない事だと思っていた。
 それにそもそも彼自身、折角弓騎馬隊大隊長という重責から逃れ気楽な立場になったというのに、今更その地位が欲しいとも思わなかったのだ。 まあ、あわよくば中隊長位の座に就くことが出来れば、兵舎で個室が貰えるの為、むさ苦しい男共と寝起きを共にせずにすむと思ったくらいか。

 さて、いざフィードニアへやって来たクリユスとラオは、ユリアの推薦を貰う事がフィードニア国王軍へ入軍する一番の早道であろうと考えた。だがそのユリアへどうやって連絡を取るのか―――身分の知れぬ男達が取次ぎを願い出た所で、彼女に二人の名が伝わる前に門前払いになる事は確実だった。
 本来であればいくら旧知の間柄とはいえ、一介の兵士がフィルラーンに目通りを願う事自体が不遜なのである。実際に彼女に会えるかどうかは、ある意味賭けのようなものではあったが、彼が良く知るユリアならばクリユスの名さえ伝われば、きっと会うと言ってくれる筈だった。
 二人はフィードニア国の王都ルハラの城下街に滞在し、まずはこの国の情報を集める事にした。
 おりしもその時、国は先の戦いでの勝利に沸いており、街中が祝祭の雰囲気で浮かれていた。こういう時は警備も緊張感が薄れるものだ。しかも聞くところによると、王宮で近々戦勝を祝して舞踏会が催されるらしい。ならばフィルラーンの塔の警備は更に薄くなる可能性もある―――。
 忍び込むという手もあるか、とクリユスは考えた。見つかったら命は無いだろうが、それ以外に塔に籠るフィルラーンと接触する手立てなど、あるとも思えない。
 そうラオに話を持ちかけようと思った、その時―――クリユスは、今到底この場にいる筈も無い人物を、目の端に捉えた。
 街娘に扮し、金の髪を頭に被った布で隠してはいたが、己が彼女を見間違える筈がない。
「ユリア……? ――――ユリアじゃないか…?」
 ラオが驚いたように少女に声を掛けた。
 呼び声に反応した少女がこちらへ振り向き、そして彼女も驚いたように目を丸くする。
 今二人がどのようにして会おうかと色々考えあぐねていた、ユリアその人であった。

「何故こんな所にお前たちが?」と少女は問うたが、それはこちらの台詞でもあった。何故フィルラーンである貴女が、城下街を街娘の格好などでうろついているのか。
 ティヴァナのフィルラーンを思えば、それは到底信じられぬ行為ではあるが、だがフィルラーンの修行を度々抜け出しだしていた少女を思えば、至極彼女らしいとも思えた。 
 あの頃と全く変わっていないなとクリユスは思わず顔をほころばせる。けれど外観はその限りではなかった。
 最後に会った時はまだ、子供といえるようなあどけない少女だったというのに、三年経った今彼女は何と美しくなったのだろう。美しく成長するだろうと思ってはいたが、これ程とは。
 輝かしいばかりに咲きほこる、大輪の花のような少女に、クリユスは目を細めた。

 しかし変わったのはそれだけでは無かった。
 彼女は以前のように、無邪気な笑みを見せなくなっていた。変わりに口の端を僅かに吊り上げて、笑みを作る。まるで人形のような笑みだった。
 ――――この三年の間に、何があった? 何が彼女の笑みを消し、苦しませているのだ。
 その答えは直ぐに分かった。
 思えば初めに気付くべきだったのだ。幾らユリアが大人しく塔に篭っている性格ではないとしても、フィルラーンになった今それが簡単に許される事では無いのだということに。 そしてそれが許されているのだとしたら、つまりはそれだけ彼女の存在がこの国にとって重要視されていないということなのだ。
 この国には先読みの力を持つもう一人のフィルラーンがおり、そしてこの国のもう一人の王かとも思える程の、圧倒的なカリスマ性を持った英雄がいた。
 そんな二人を前に、ユリアの存在は余りに小さいのだ。
 ユリアは英雄の前に跪く。
 この国にとって、ユリアの価値はフィルラーンの名を持って英雄の名を高める事でしか無かった。


 ――――――――――そんな事、許せるものか。


 平民出身の英雄を祭り上げ、フィルラーンを跪かせる。それは確かに民衆の心を掴むやり方だ。面白い王であり、面白い国だとは思う。
 ただ、そのフィルラーンがユリアで無ければの話である。

 幼い頃からいつくしみ見守ってきた、この俺の小さなフィルラーン。かしずくのは彼女では無く、百万の民であり兵士でなければならない。彼女はその崇高さで、彼らの頭上で光輝く存在であらねばならぬのだ。
 フィードニアに戻ったユリアは、当然のように人々に傅かれている筈だった。 だというのに、例え国王軍の総指揮官であろうと、たかが一介の兵士にしか過ぎぬ男の前に彼女を跪かせるとは。 こんな事になると分かっていれば、どんな手を使ってでもフィードニアなどに帰さなかったものを―――。
 これ以上彼女の苦しむ顔を見たくは無かった。以前のような、無垢な笑顔が見たかった。
 クリユスは自分と共にこの国を出ないかと少女を誘ったが、ユリアはそれを拒んだ。この国を変えるのだと、彼女は言う。己を冷遇する国に、何を義理立てする必要があるのだとは思ったが、言いだしたら聞かないのは昔からの事である。 
 だがそれならそれで良いだろう。彼女の価値が英雄よりも低いというのなら、高めれば良いだけのこと。彼女がこの国の民や兵士達にとって、英雄よりも崇高な存在になれば良いのだ。
 遠いあの日、ずっと君を守ると少女に誓った。ユリアはとうに覚えてはいまいが、クリユスはその誓いを忘れた事など一度として無かった。そう、少女と別れたこの三年の間でさえも。
 
 国を変えたいのなら変えてやろう。
 英雄の生き死も失脚も、正直クリユスにとってはどうでもいい事だったが、彼女が望むのなら叶えてやろうと思った。それにその望みはクリユスの望みにも近しいものだったのだ。
 ―――己の望みはただ一つ。
 例えそれが誰であろうと、どんな相手を前にしようとも、ユリアが常に顔を上げている事だ。
 その為なら何でもしてみせると、クリユスは己に誓った。
 この不遜な行動が神の怒りを買おうとも、一向に構わない。罰を下すのなら下すが良い。もとより彼女を不遇の身に晒し放っておく神など、信ずるに値するものか。
 恐らくユリアには憎まれることになるだろうが、それすらも構わなかった。誰の前にも跪く事なく、いつか彼女が笑顔を取り戻すことが出来るのなら、そこに己がいる必要など全く無いのだ。


 劇場の幕が上がる。
 クリユスの頭の中では、ユリアをヒロインとしハイルド大陸東の地全土を舞台とした演目の、完全なる筋書きが既に出来上がっている。
 後は出演者が思う通りの演技をしてくれれば良く、そうでなければこの舞台から降りて貰うだけだった。









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