50: 戦場に降りた女神





 戦いの音が聞こえる。

 ユリアが待機する天幕は、戦場から少し離れた場所に張られていたが、それでも兵士達の叫び声や剣を合わせる音が、ここまで鮮明に聞こえてきた。すぐそこで人々が傷つき、そして多くの血が流されているのだと思うと、怖ろしさのあまり体の震えが止まらなかった。
 逃げ出したいと、強く思う。
 戦場へ行くと決心したものの、その場に立ってみると想像以上に恐怖が強く、簡単にその決意は砕けそうだった。
「ユリア様、大丈夫です。心配いりませんよ」
 ユリアの震える手を、ダーナが包み込むように握りしめた。
「フィードニアの方達はお強いのですから、負ける筈がありません。もし万が一敵がここまで攻めてきても、この私がユリア様をお守りしますから……!」
 ダーナは気丈に笑った。
 だが恐らくダーナだとて、この場にいることが怖ろしいに違いないのだ。なのにユリアを気遣って、何でもない振りをしてみせる。
 その証拠に握りしめるダーナのその手も、微かに震えていた。
「………そうだな、これくらいの戦いでフィードニアが負ける筈がないな」
 ユリアも努めて笑みを作り、ダーナに答えた。
 本当は戦いの勝ち負けよりも、ただ戦いそのものが怖ろしかった。人が傷つくのが怖い。今まで話に聞くだけだった戦いというものを、直視しなくてはいけないこの状況が怖かった。
 けれどこれ以上ダーナを心配させてしまう事もまた、本意では無いのだ。
「兵士達の為に、微力ながら私はここから祈ろう」
 ユリアは両手を胸の前で合わせ、祈った。
 せめて一人でも犠牲者が少なくて済むように。
 祈ることしかできない。そんな無力な己が歯痒いが、今ユリアに出来る事はそんな事しか無かった。

「ご報告致します…!」
 天幕の外から、兵士の声がした。
 中へ通された男は、この出兵での道のりで度々ユリアに現状を伝えてくれていた、そばかす顔の男だ。
 引き続き戦況もまた、この男が伝えてくれるという事なのだろう。
 尋ねると、彼は今現在フィードニア軍にとって思わしくない戦況にある事を告げた。
「初手の弓騎馬隊の攻撃は功を奏したのですが、良かったのはそれだけで、あとは終始連合軍に押される形となっております……」
 男は悔しそうに言う。
「勿論当軍より数の多い敵に対し、ライナス殿は流石と言える的確な指揮されておりますが、いかんせん総指揮官殿が不在であるという事で、兵士達の覇気がどうにも上がらず…」
「……………なんてこと……」
 ユリアは思わず呟いた。
 ジェド一人が不在というだけでその在りようでは困るのだ。
 フィードニアはあの男がいなくとも戦える国でなくてはならない。そうでなければ、ジェドの追放など永遠に叶わぬではないか――――。
 想像はしていたが、やはりこの国はそれ程までにジェドに依存していたという事なのだ。

 だからクリユスはジェドに成り替わる存在を作り上げようとしているのかもしれない、とふとユリアは思った。 偽りの神を作り、英雄への依存から兵士達の目を離させる為に。
 だがそう思ってはみても、己が神を演じるという不遜極まりない事を納得するなど、やはり無理だった。
 ユリアを思う通りに動かす為に、彼女の耳元でクリユスが囁いた言葉を思い出し、少女は自嘲する。『場合によってはユリア様以外の方をお守りする事は難しくなるかもしれませんね』――――つまりは言う事を聞かねばダーナの命は保証しないと、あの男は言ったのだ。
 それでもなお以前の優しかったクリユスが忘れられず、何かの間違いでは無いかと、何か他に真意があるのでは無いかと、彼の行動に対して相応しい答えを探そうとする。 そんな己の愚かしさが可笑しかった。

 ―――しかし、クリユスは一体私に何をさせようというのだろうか。
 戦地に伴い、兵士達に偽りの神の声を聞かせようとしたところで、そのユリア自身はこんな戦いの後方でただ祈る事しか出来ないでいる。
 幾らクリユスが担いだ所で結局信仰心など一人一人の心の中のものなのだ。フィルラーンとはいえ、戦地に於いてこのように無力な存在を、彼らは果たして崇めようなどと思うだろうか。
 それが分からぬクリユスでは無いだろうに、一体彼は何を考えているのか。
 結局の所自分はクリユスの事を何一つ分かってはいないのだ。そう思うと、ユリアには彼が酷く遠い存在に思え、心の中に穴が空いたような寂しさを感じた。そしてそんな己に再び自嘲するのだった。


 

 戦況は思った以上に深刻なようだった。
 戦いは数日続いても尚決着がつかず、開戦から既に六日が経過していた。
 そばかす顔の兵士が逐一報告してくれる内容によると、戦いは一進一退を繰り返しているという事だった。
 ジェドの不在により覇気が低下しているうえ、フィードニア全軍とハロルドが率いる旧シエン兵達との間にある、僅かにちぐはくとした部分がここにきて現れ出しているのだという。
 連日の戦いに兵士達は疲労し始めてもいる。 これ以上長引けば、フィードニアの敗戦色が強くなる事は確実だった。
 天幕の外で戦いが繰り広げられている間、ユリアは何度も自問した。
 自分に、今出来る事は何なのか。何か彼らの役に立てる事は無いのだろうかと。
 だが考えた末、最終的に辿り着く結論はいつも同じ‘何もありはしない’という事だった。
 ただ祈る、それしか無いのだ。余りに無力な己を確認し、苦悶するという作業をただ繰り返すばかりだった。


 そして開戦から八日目。
 その日は朝から曇っており、昼をとうに過ぎたというのに辺りは薄暗かった。まるでこの戦況を物語っているかのような天候に、重苦しい気分にユリアはなった。
 鬱々としながらいつものように神に祈りを捧げていた、その時。ユリアのいる天幕のすぐ近くで、騒ぎが起こった。
 敵が襲ってきたのかと一瞬肝を冷やしたが、どうやらそうでは無い様子である。恐る恐る天幕から外の様子を伺ってみると、5ヘルド(約6メートル)先に数人のフィードニア兵士が集まっているのが見えた。 ここからではよく見えなかったが、その人だかりの中心にいる人物が、どうやら騒いでいるようだった。
「どうしたのです?」
 ユリアは彼らに近づき人だかりの中を覗き込んだ。
「あ…………!」
 思わずユリアは声を上げる。体中に傷を受け、元の衣服の色が分からぬ程に血だらけになった男がそこにはいた。しかもユリアはその男を知っていた。そばかすが散らばった顔―――今朝も会話したばかりの、第五騎馬中隊に所属する兵士だ。
「あ……ユリア様……」
 男は他の兵士に支えられ、やっと上半身だけ身体を起こしている状態で、それでもユリアの姿を認めると、気力を振り絞るように再び叫んだ。
「後方へ……更に後方へ、お引き下さい……! 左方に位置していた領兵軍が、連合軍の奇襲を受け壊滅的被害を受けました。ここも既に安全とは言えません、お早く、後方へ……!」
 叫んだ後、男は血を吐いた。
「ああ、喋ってはいけません……! 誰か、早く手当てを……!」
 言いながらユリアは周りを取り囲む兵士達を見回したが、彼らは揃って首を横に振った。
「この傷では、もう……」
 特に腹の傷は深く、致命傷となっている。ここへ戻ってくるまで持ち堪えた事が不思議な位だと、兵士の一人が言った。
「そんな…………」
 そう聞かされても、彼はまだ生きているのだ。そう易々と命を諦める事など出来なかった。ユリアは衛生兵を呼び、手当てをして欲しいと懇願する。だが衛生兵の答えも同じ、いやそれ以上に残酷なものだった。
「……可哀想ですが、怪我人が多く物資が足りません。死ぬと分かっている兵士に無駄な薬と包帯を使うわけには参りません」
「そんな…死ぬなどと、何故そのようにむごい事を…! あなた達は彼を見捨てるというのですか……!」
 叫ぶユリアに、兵士達は苦渋に満ちた表情をした。その顔に少女ははっとする。
 ――――彼らだとて、助けられるものなら助けたいのだ。助かる見込みが無いと分かっていても、治療してやりたいのだ。彼らの顔に浮かぶ苦悩の色が、その無念さを物語っていた。 日頃共に訓練をする仲間である、その気持ちはユリア以上に強いに違いなかった。だが戦況が既にそれを許す所では無いのだ。
「いいのです、ユリア様……もう助からないことは、自分でも分かります……。それより、お早く…」
 逃げろと、彼の指が遠くを指差す。
「けれど、けれど………」
 涙が零れた。
 青年の顔色は、こうしている間にもどんどん悪くなっていく。
 これだけの傷を負いながら、彼はユリアに現状を伝え後方へ引かせる為に、それだけの為にここまで引き返して来たのだ。
 だというのに、そんな彼に傷の手当さえしてやる事が出来ない。
 私はあまりに無力だ。

 ユリアは青年の傍らにしゃがみ込み、その顔に触れた。そして‘清め’の言葉を紡ぐ。
「―――――これで、お前の魂は清められた。神の国の門は…お前の為に開くだろう……」
「ユ……リア、様……」
 そばかすの顔に、弱々しく笑みが浮かぶ。
 涙が止まらなかった。
「す…ごい…フィルラーンが、俺の…ために……。あ…ありがとう、ございます……」
「喋るな、傷が開く……」
 こんな事しか出来ないのだ、礼を言って貰えるような事は何もしていない。それが悔しくて堪らなかった。
「ユリア、様――――」
 血が片目に入り視界が定まっていないのだろう、そばかす顔の青年は少女を探すように、ユリアの方へゆっくりと手を伸ばす。
「ユリア様……この、国を……お守り下さい……。フィードニアに…勝利を………!」
「――――――――――!」
 その手はまるで、希望を掴み取ろうとしているかのように、ユリアの目の前で彷徨っていた。
 この時のユリアに他にどんな行動を取ることが出来ただろう。少女はその手をしっかりと掴むと、青年に向かって告げた。
「大丈夫だ、神は必ずフィードニアに勝利を与えて下さる。だからまだ逝くな。もう少ししたら、お前もフィードニアの勝利をその目にすることが出来る。必ずだ……!」
「………………」
 青年は再び笑った。安堵に満ちたその表情は、心からの笑みなのだろうと思った。
 そして次の瞬間、握りしめていた手が重みを増した。
「ま―――待て、まだ逝くな……!」
 青年の体をユリアは揺すったが、何の反応も彼は示さない。更に揺さぶろうとして、他の兵士に止められた。
 
 こんなにも簡単に、人は死ぬのか。
 イアンの時もそうだった。つい先程まで笑っていた者が、一瞬の後に何も語らぬむくろになる。
 これが戦いというものなのだ。彼だけでなく、多くの兵士達の命がこの瞬間にも簡単に失われているのだ。
 ユリアは立ち上がり、戦場いくさばとなっている先を見詰めた。
 砂埃が立ち、血と鉄の匂いが入り混じる。人々の叫び声、剣の交り合う音、馬の嘶き。それらはまるで渦のようにユリアを襲った。
 戦場へ来ていながら、今まで一歩も天幕から外へ出ようとしなかった。己は今、初めて戦場というものを目の当たりにしているのだ。頭では解っているつもりでいた、だがずっと目を逸らしてきた戦いというものを、今初めてユリアは実感した。

 ――――なんて愚かだったのだろう。クリユスに手を借り、この戦いを引き起こしたのは紛れも無い自分だというのに、その私が目を逸らして良い筈が無いというのに。

「――――――彼の、名は」
 そばかす顔の青年を見下ろし、ユリアは尋ねた。問われた兵士が、少し驚いた顔を見せたあとサイモンだと答える。
「サイモン………」
 彼の名さえ知らなかった。尋ねようとも思わなかった。
 私は、愚かだ。

 頬に伝わる涙の痕を拭き取ると、ユリアは踵を返す。
「ユリア様、どちらに……」
 天幕ともまた違う方向へ歩みだすユリアに、先程から後ろに控えていたダーナが声をかけた。
「心配ない、ダーナは負傷した兵士達の手当を手伝ってやってくれないか」
「はい、それは勿論ですが……けれどお一人で行動されては危険ですわ、ユリア様。私もお供を…」
 付いてこようとするダーナを手で制する。
 これから己が行う事は大罪なのだ。ダーナを付き合わせる訳にはいかなかった。
「付いてこなくとも良い。 私は、あそこに」
 ユリアは小高くなった丘を指し示した。

 私は何も出来ないと、祈る事しか出来ないとそう思っていた。けれどそれは間違いだ。出来ないのでは無く、今まで何もしようとしなかったのだ。
 丘の上に立つユリアの眼下で、両軍が今なお戦っている。その様子がありありと見渡せた。
 恐怖は消える事が無かったが、それでももう目を逸らす事はしまい。
『ユリア様……この、国を……お守り下さい……。フィードニアに…勝利を………!』
 サイモンの最後の言葉を思い出す。あの言葉は、ユリアを通して神に向けた言葉だ。
 兵士達が神の影をユリアに見出そうとするのなら、それを演じてみせようではないか。それで兵士達の心が少しでも救われるのなら、偽りの神も少しは役に立つというものだ。
 ユリアは頭から被っていたラティを脱ぐと、それを片手で掴み高々と頭上に掲げた。
 それはまるで己の存在を指し示すかのように、強風になびき大きくはためく。

 ――――神よ、私は今あなたをかたろう。
 この大罪にどれだけの罰が下されようと、甘んじて受けてみせよう。
 そう、それが私に出来る唯一の事なのだから。









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