48: 人形





 フィードニアを出て幾日経ったのか、既に数える事を止めた夜。 兵士達が天幕を張り夜営の準備をしている様を馬車の中から眺めていたユリアに、兵士の一人が「明日にはボルテンの国境に着く」事を告げた。
「先に到着している領兵軍や国境警備隊が、既に連合軍と睨み合いになっているとの事、我らが到着したら、直ぐにでも合戦が始まることと思います」
 諜報部隊であるらしい第五中隊の兵士であるこの男は、度々現状をユリアに伝えてくれていた。
 だが報告を述べる間はいつも頭を深々と下げている為、そばかすを蓄えたその顔を見ることは少なく、癖毛のある栗色の頭部の方が印象に残っている。
「そうですか……明日」
 とうとう戦いが始まるのだと思った。戦場へ行く覚悟は決めたものの、それでもやはり恐ろしくて堪らない。自然と声のトーンが沈むのを聞き取ったのか、男はおずおずと顔を上げた。
「ですが心配はありません、ユリア様は我らが身命を賭してお守り致しますから」
 そう言い、だがユリアと目がぶつかると、慌てて頭を下げる。頭部から僅かに覗く耳が、真っ赤になっていた。
「貴女が同行しているというのに、負けるわけには行かぬと皆奮い立っております。―――いえ、戦女神が我らに付いているのです、負ける筈がありません」
 男は地面に付きそうな程に頭を下げながら、嬉々として語った。

 ―――――戦女神。

 止めてくれと、叫びだしたかった。
 私は神ではない。神の影を被らせる程の高尚な存在などでもない。何も出来ない。祈ることしか出来ない、フィルラーンとしてでさえ未熟で愚かな人間なのだ。 本当は今すぐここから逃げ出したいと思っている、弱い人間なのだ。
 だがそれを叫ぶ訳にはいかなかった。今更止める事は出来ないとクリユスは言ったが、それはユリアにとっても同じことなのだ。

「おい、報告にどれだけ時間が掛かっているのだ」
 男を叱責する声が飛んだ。ロランの声だ。
「あ、はい。申し訳ありません…! …ではユリア様、私はこれで」
 一旦ロランの方へ向けた顔を、再び深く下げ、男はそそくさと立ち去った。そして変わりにロランが馬車へやってくる。
「ユリア様、天幕の用意が出来ました。連日の移動でお疲れでしょう、本日はこれでおくつろぎ下さい」
「ああ……ありがとう」
 馬車から下りようとするユリアに、ロランが手を差し出す。クリユスがユリアを戦女神などと担ぎ上げる前も後も、ロランの態度は変わらなかった。
 それなりに馴染みある間柄である。彼ならば今更ユリアを神と被らせて見ることは無いだろう。そう思うと幾分の安堵感をロランに感じた。



「ユリア様、少し宜しいですか」
 翌朝、朝食を食べ終え出立の準備をしていたユリアに、天幕の外からクリユスが声を掛けてきた。
「……何だ?」
 一瞬ぎくりとし、次に重苦しい気持ちが沸き起こる。返事をすると、クリユスが顔を覗かせた。
「おはようございます、ユリア様。ご気分はいかがですか」
 相変わらずの笑顔を向けて来るクリユスに、ユリアは「悪くはない」という風に頷く。
「そうですか、それは良かった。―――既に報告をお聞きのこととは思いますが、早ければ今日にも連合軍との合戦が始まるでしょう。それは覚悟しておいて頂きたいのです」
「………分かっている」
 言いながらうつむくと、クリユスの手がユリアの顎にかけられ、くいと上を向けさせられた。
「以前にも言いましたが、貴女はいつでも上を向いていなさい。今貴女が不安な顔を見せれば、兵士達も不安になります」
 覚えている。その時はクリユスに叱られ、何故だか嬉しくなったものだった。だが、今は。
「神代りが不安な顔を見せるなと言う事か」
 嫌味を言ってみせるユリアに、だがクリユスは意に介す様子も見せず、ただ黙ってユリアの顎から手を離した。
 そして笑顔のまま、言った。
「今日ここを出発する前に、兵士達に声を掛けて頂けませんか。『フィードニアの勝利を祈っている、神は我らを勝利に導いてくれるだろう』というような事を」
「馬鹿を言うな、そのような事を、この私が言えるか……!」
 声を荒げるユリアに、クリユスは首をかしげた。
「おや…フィルラーンが兵士に掛ける言葉として、何もおかしな所など無い台詞だと思いますが」
 ぬけぬけと言う。確かに少し前のユリアなら、何も抵抗の無い言葉だっただろう。だが今ユリアがその言葉を述べれば、兵士達は彼女を通してそれに神の言葉を聞くのだという事が、分かっている。
 分かっていて語るのは、神に対する冒涜ぼうとくに他ならないではないか。
「―――――嫌だと言ったら、どうする?」
「さて、困りましたね……これ以上貴女に嫌われる事を言いたくは無いのですが……」
 クリユスは己の顎に手をやり、考える仕草をした。
 そして奥で荷物を纏めているダーナにちらりと目をやると、ユリアに小声で耳打ちする。
「兵士達の覇気が弱く戦いに手間取ってしまうと、場合によってはユリア様以外の方をお守りする事は難しくなるかもしれませんね」
「な―――――――」
 ユリアは目を見開いた。

 この男は、誰だ。
 今目の前に居る男は、ユリアの知っているクリユスでは無い。
 幼い日にユリアを抱き上げてくれた、あの優しい兄の影はこの男の中のどこにもない。

 こんな男は知らない。


「私は、フィードニアの勝利を…祈っています。神は私達を勝利へと…お導き下さるでしょう……」
 膝まづきユリアを見上げる兵士達に向い、彼女は言った。
 兵士達が己の放った言葉に色めくのが分かった。その眼に宿るものは、熱だ。
 静寂の中、兵士達に背を向けその場を離れると、背後からどっと歓声が沸き起こるのが聞こえた。
「お疲れ様です、ユリア様」
 ユリアが乗り込む馬車の前に、クリユスが立っていた。
 相変わらずの、笑顔だ。
「―――――私は、まるでお前の人形だな」
 すれ違いざまに呟くと、クリユスの差し出す手を振り払い、ユリアは馬車へ乗った。







「ユリアが戦場へ行くなら自分は行かぬなどと、まるで子供のような駄々をこねて…」
 ナシスは此れ見よがしに溜息を吐いてみせたが、ジェドは素知らぬ顔でどかりと長椅子に腰かけると、出された茶に手を伸ばす。そしてそれを口にしたとき初めて顔を顰めた。
「なんだ、この苦い茶は」
「苦い?」
 言われ、ナシスも目の前に置かれた茶を口にした。
 メイベルの入れる茶はいつも美味しく、彼が口にする時に丁度飲み頃になるよう計算して入れてくれているのだろう、熱過ぎずかといって温くも無い、そんな完璧とも言える茶であるのだ。彼女の入れる茶が不味いなど、ナシスにとって考えられぬ事だった。
 現に今ナシスが口にした茶は、彼女が入れるいつもの美味しい紅茶だった。
 ふふ、と思わずナシスは笑う。
「ならばそれは、この前あなたがここで叩き割ったテーブルのお礼なのでしょう」
 いつも完璧な仕事をするメイベルが、己の信条を押してでもこのささやかな嫌がらせをジェドにしたのかと思うと、ついつい笑みが零れた。
 だがジェドは当然の事ながら、ナシスのようにそんなメイベルを微笑ましく思ったりはしないのだろう。舌打ちを一つすると、眉間に皺を寄せる。
「礼だと? ほう……いい度胸だ」
 ジェドはティーカップを持つ手を己の真横に伸ばすと、そのまま手を離した。
 繊細な作りのカップは床で砕け散り、茶色の染みが絨毯に広がった。
「ああ……またそのような事を……」
 メイベルがこれを見て、更に怒りを膨らませるのかと思うと、今度は本当に溜息を付きたい気持ちにナシスはなった。

「―――――本当はユリアに己の戦う姿を見られたくなかったのでしょう?」
 これはせめてもの意趣返しである。ナシスはわざと、ジェドが怒るような事を言ってみせた。
「何だと……?」
 ジェドはナシスを睨みつける。だがそのように牙を向けられても、彼を恐ろしいと思った事は一度も無かった。故にナシスは構わず続ける。
「罪の無い私のテーブルを叩き割る程戦場へ行くユリアが心配ならば、あなたも同行し彼女を守れば良かったのです。……それをしないのは、戦場で戦う己の姿を見たユリアが、あなたを――――」
「黙れ、死にたいのか……!」
 ジェドは長椅子から腰を上げると、ナシスの胸ぐらを掴んだ。
 目に怒りが宿っているのが、ありありと分かる。彼を怒らせた事でナシスはほんの少し溜飲を下げたが、これ以上の嫌がらせは、殺されないまでも多少痛い目には会いそうだったので、止める事にした。

 代わりに、ナシスは別の言葉を口にする。
「あなたの言う通り、一陣の風が南で吹こうとしています」
 ジェドの眉がぴくりと動いた。
「――――そうか」
 ジェドは掴んでいたナシスの服を離すと、先程までの怒りなど忘れたように、にやりと笑った。
「場所は」
「さあ…ずっと南、そうスリアナ辺りであろうという事しか、私には分かりません。 けれどここから先は、あなたの方が良く分かるでしょう」
「ふん、そうだな。それだけ分かれば十分だ。…たまにはお前の下らぬ力も役に立つものだ」
 憎まれ口を叩くと、用は済んだとばかりにジェドは扉に向かい歩きだした。

「下らぬ力とは、随分な事を言ってくれること……」
 だが確かに違いないと、ナシスは思った。
 そしてジェド自身、己が持つ軍神のごとき強ささえも、下らぬ力だと考えているのかもしれないと、ナシスは思った。









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