44: 黒い猫3





 フィードニア城下町西門から伸びる街道の、その脇に植えられている木へエルダは登った。
 遠くからその姿を見る者がいたならば、彼女を少年だと思ったことだろう。今日の彼女は普段着ているドレスを脱ぎ、男が身に付けるような動きやすい衣服を着用していた。
 一本の太い枝へ腰を下ろすと、枝葉の間から真っ赤な夕日が沈んでいくのを、彼女は何の感慨も無く見詰める。 べつに感傷に浸りたくてこんな所に登った訳では無いのだ。

 エルダは手にした小剣を握りしめる。
 日が沈みかけそろそろ辺りが暗くなってゆくこの道を、じきにあの男が通る筈だった。
 あの男――――フィードニア国王軍副総指揮官ライナス。 奴の心臓へこの小剣を突き立てる為、彼女は今こうして夕日を眺めているのだ。
 その男に元々個人的な恨みがあった訳では無く、ただ単に上からの命令に従い狙っている命である。 ただ今は個人的に、その男に少しばかりの怒りを覚えていたが。

 己を暗殺しようとした相手に、自分の女になれなどとふざけた事を言い放つあの男の神経が、エルダには理解出来なかった。
 あの男へ近づくために娼婦に身をやつしはしたが、それは偽りの姿であって、本来の姿ではない。手に剣を持ち生きる彼女にとって、そのような扱いを受ける事は屈辱以外の何物でもなく、我慢がならなかった。
 そしてそれ以上に我慢ならない事は、そんなふざけた男相手に己の剣の腕が通用しないという事実である。
 最初に暗殺に失敗して以来、あの男へ数回攻撃をしかけてみたが、そのどれもがのらりくらりとかわされて終わったのだった。
(だがそれも、今日で終わりにしてやる)
 今エルダが握る数本の小剣には、剣先に猛毒をたっぷりと塗ってあった。ほんの少しでもこれに掠れば、いくら屈強な男であろうとものの数分で死に至るのだ。
 己の剣の腕であの男を切り裂いてやれなかった事は口惜しかったが、いつまでも一人の男に時間を掛けている訳にもいかなかった。

 太陽が地平線の下へ沈み、しかしまだ辺りは充分明るいそんな頃、馬に乗った一人の男の姿が街路の先に現れた。 伴う人間はいない。それはいつもの事だった。
 恐らく他の兵士達はまだ訓練を続けているのだろう。しかしこの男だけはフィリージュの刻(十八時)の鐘が鳴ると、一人さっさと訓練を終えて街へ帰ってくるのだ。
 話しに聞くと、ライナスという男は相当な面倒臭がりで、横着な男であるらしかった。そんな男が国王軍で副総指揮官を務めているのかと思うと、この国の行く末もそう安穏としたものでは無いだろうと、フィードニア国王軍兵士達に同情さえ感じるのだった。
 エルダは小剣を握り直し、構える。
 男は彼女の居る木をわずかに通り過ぎた。こちらに気付いている気配は、無い。

(―――――今だ……!)
 男の背へ向け、三本の小剣を続けさまに放った。
 男にこれを避けられる筈も無い。
 殺った、と思った。

 だが寸での所で男は僅かに馬を右へ逸らし、己の体を捻って一、二本目を避け、三本目は剣で弾き飛ばした。
(な――――)
 なぜ、それを避ける事が出来るのだ。
 そもそも男がエルダの存在に気付いていた筈はなかった。それなのに、何故放たれた剣に気付く事が出来たのか。
「おお――危ない危ない、今度ばかりは肝が冷えたぜ。 ――――よお、エルダ。お前に会うのも命がけだな」
 ライナスは馬首をエルダの居る木の方へ向けると、笑顔をみせた。
「何故―――何故分かった……! お前の背中にはもう一つ目でも付いているのか……!」
「言っただろう、お前は殺気を放ち過ぎると。―――おい、折角会えたのだ、隠れていないで姿を見せろ」
「殺気だと?」
 エルダは木から飛び、くるりと一回転し地へ下りた。そしてそのまま残った二本の小剣を、ライナスの心臓へ向け投げつける。
 だがその小剣は、あっさりとライナスの剣に絡め取られ、地面へ落ちた。
「流石、猫だな。俊敏な動きをする」
「この……!」
 エルダは腰に佩いた長剣を引き抜くと、男に切りかかった。男の剣がそれを受け、高い金属音が辺りに響く。
「何が殺気だ……! そんなもの、殺したい相手が目の前にいて、どうやって消すというんだ……!」
 再び剣を振った。弾かれる。
 ―――どうして、こんなふざけた男に傷一つ負わせる事が出来ないんだ。

「だからお前は暗殺者には向かないと言っているのだ。大人しく俺の女になれ、そうすればこの俺もいつか油断する時が来るだろうよ」
「ふざけるなと、言っている……!」
 男の腹へ目掛け突き出した剣が、エルダの手から弾かれ地面へ突き刺さった。じん、と手が痺れる。
 何故、敵わない。何故―――。
 エルダの呼吸は乱れているのに、男は汗一つ掻いていない。
 まるで大人にあやされる子供だ。

「おい、もう行くのか。つれない女だ」
 背を向け立ち去ろうとするエルダに、ライナスが詰まらなそうに声をかけたが、彼女はそれを無視した。
 己の情けなさに目頭が熱くなるのを、エルダは必死で耐えていた。





 ライナスが視界から消え去り、それでも気持ちがまだ治まらず、暫く星が瞬くのを眺めた後、エルダはフィードニアの王都へ戻った。
 西門を潜り、西地区を横切り南地区へと向かう。
 最初にライナスを陥れようとした時、娼館の主に金を握らせ一室に住み着いた。そしてあの男が現れたら呼ぶように指示していたのだが、エルダはその時借りた部屋をずっと仮の住まいとして利用していた。
 余所者の女が一人増えたとしても、何の詮索も干渉もされないその場所は、都合の良い隠れ家だったのだ。
 
 南地区へ入り一つ目の通りを横切った時、誰かが投げたのだろう、エルダの足に小石が当たった。
 振り向くと建物と建物の間に、闇に溶け込むようにしてひっそりと一人の男が立っている。
「―――ベクト様がお呼びだ、来い」
 男の声は辺りをはばかるように、低く小さい。
 エルダはその場に立ち竦み、息を呑んだ。一向に副総指揮官暗殺の任を遂行出来ない彼女に、あの老爺ろうやが業を煮やしたのに違いなかった。
 付いて来いと言うのだろう、男は無言で己の背後を指し示すと、そのまま闇の奥へと消えていった。
 気は乗らなかったが、ここで行かなければ裏切り者だと判断されてもおかしくは無い。大人しく付いて行くしかないのだろう。
 エルダはしぶしぶ男の後を追ったのだった。
 
 男がやっと立ち止まった場所は、城下町東地区の朽ちかけた小さな一軒家の前だった。
 家の中からだろうか、何やら旨そうな匂いが漂って来る。それがあまりに場違いで、エルダは奇妙な感覚に囚われた。
 男に言われるままその家の中に入ると、更に匂いが強くなる。やはりこの家から漂っていた匂いなのだ。
 そんな事を考えていたら、奥から一人の老爺が顔を出し、「よく来た、さあ奥へ入るといい」とエルダに手招きをした。
 台所で老人は鍋を掻き混ぜている。湯気が立ち上り、鍋がぐつぐつと音を立てる。
 まるで独り暮らしの好々爺の家へ訪ねてきた、孫娘のようだった。
「ここで、何をしているのです――――?」
 エルダは目の前で繰り広げられる平穏な光景に、寒気を覚えた。
 この老爺がこのような光景に全くそぐわない男だという事を、エルダは嫌という程知っている。
「まるで、ここで生活でもしているかのようではないですか」
 老爺は細い目を更に細くさせた。
「まるで、ではなく。ここで生活しておるのじゃよ」
「―――――私を監視しているのですか」
「ベクト様はそのように暇な方では無い」
 答えたのは、先程エルダをここまで連れてきた男である。

 歳は二十代中頃か。灯りの下で改めて見ると、この老爺が引き連れる部下の顔ぶれの中に、今までエルダが見た事の無い男だった。
「お前は放たれた数本の矢の一つに過ぎんと言うことだ。幾らでも替えが利くのさ」
 要は役に立たなければ切り捨てると言っているのだ。何者か知らないが、この男の口調は明らかに人を小馬鹿にしており、エルダを小さく苛立たせた。
「フィードニアの副総指揮官とは数度接触しているようじゃの。―――だが未だ奴が死んだという報告は聞いておらん。さて、どういう訳かのう…」
 老爺は細い指で鍋を掻き混ぜながら、呟くように言った。
「いえ、それは……!」
 ここで用済みにされてしまっては、また領兵軍でのあの先の無い、ただの一兵卒に逆戻りである。
 何としてもこの任務を成功させ、そしてトルバ国王軍へ入軍するのだ――――。
 エルダは己の掌を握りしめた。

「――――あの男……フィードニア国王軍副総指揮官ライナスは、この私に惚れているのです」
 エルダは挑むような眼を、老爺に向ける。
「――――ほう……?」
 鍋を掻き混ぜる手はそのままに、だが老人は面白そうな顔をした。
「あの男を手懐けて、フィードニアの情報を仕入れてみせましょう。殺すのはそれからでも遅くないかと……」
 掌にはじわりと汗が滲み出た。このいい訳が通用しなければ、この場で自分の未来は閉ざされるのだ。だが通用すれば、あの男を殺すまでに幾らかの時間稼ぎが出来る。
 老爺は暫く考えるように沈黙した後、手を止めた。
「……いいじゃろう。暫くの猶予をお前にやろう」
 内面とは裏腹な、柔和な笑顔を老爺は見せた。


 幼い頃両親を失い孤児となった彼女には、生きていくためには娼婦となるか兵士となる道しか残されてはいなかった。
 彼女はその手に剣を持つ事を選んだが、だがその道も女にとって易しいものでは無かった。
 男と腕を並べようと思ったら、死に物狂いで訓練をしなければならなかった。だがそうして努力を重ね力を手に入れても、己より技量の足りない男があっさりと取り立てられ、昇進して行く。
 男達の中に混じる彼女に対し、理不尽な暴力を与えられる事もあった。娼婦の道を選ばなかった彼女に、だが男共はそれを求めるのだ。
 男を撃退する為にも、彼女は強くならなければならなかった。
 女にさえ生まれなければと何度歯がゆい思いをした事だろう。何度絶望した事だろう。
 その思いが、彼女を強くさせたのだ。
 
 鋭い爪を持つ彼女を、誰も娼婦のように扱わなくなった頃、一人の老爺に暗殺の仕事を与えられた。
 女である事を最大限に活用するその仕事は、彼女にとって忌むべき仕事だった。
 しかしその忌むべき仕事は、国王軍の裏組織ともいえる暗殺部隊での仕事だったのである。
 裏といえど国王軍の一部には違いない、そう易々と入れる組織では無いのだ。領兵軍で一生一兵卒で居る事を思えば大出世である。今まで彼女を見下げて来た男共を、今度は自分が見下ろしてやるのだ。
 そう思えば幾らか溜飲が下がったが、心が晴れる事は無かった。
 そうして何件かの仕事をこなした時、老爺は一つの話を彼女へ持ち掛けたのだった。
 フィードニア国王軍副総指揮官暗殺に成功したあかつきには、トルバ国王軍へ入軍させてやる、と―――。
 その言葉は、暗闇の中に灯された唯一の光になった。

 
「――――――ライナス………!」
 エルダは叫ぶと、街の外壁の上から飛び降りた。
 手にした剣を男目掛け振り下ろす。彼女の全体重がかけられたその剣を、ライナスは容易く受け止めた。
「よくよく上から降ってくる女だな」
 剣を合わせたままライナスはにやりと笑う。どう戦っても、この男に勝てる気がしなかった。
 この強さが欲しかった。
 どれだけ訓練しても、最後の所で得る事の出来ないこの強さが。

「―――――お前の、女になってやる……」
 エルダは合わせた剣に更に力を込め、ライナスを睨みつけた。
「そうか」
 笑う男に、エルダは再度剣を振り下ろす。
 男はひょいとそれを避けると、剣を持つエルダの手を掴んだ。
「だがくれてやるのは体だけだ。心をお前にくれてやる事は、無い」
 自らこの身を落としても、この男を殺してみせる。そうすればこの私の頭上の空にも、ようやく光が射し込むのだ。
「今はそれでいいさ。だが心もいつか俺の物になる」
「ふん、戯言を……」 
 ライナスは白い歯を出し笑みを見せると、己を睨み続けるエルダの赤い唇へ口付けた。









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