43: 魑の鞘





 リュトー国境警備隊の本拠地へは、王都から二十日程馬車に揺られ辿り着き、また二十日かけて、ようやく戻ってきた。
 フィルラーンがわざわざ出向く程の価値がハロルドという男にあるのかどうか、正直その名さえ知らなかったユリアには分からなかったが、クリユスが必要だというのだからそうなのだろうと、深く考えはしなかった。
 その行動に意味があろうと無かろうと、全てクリユスに委ねるのだと、少女は決心したのだった。
 しかし不思議だった。ジェドの前に膝を折る事をあれ程に屈辱に感じていたというのに、あの名も知らぬ男の前で膝を折る事には左程の抵抗は感じなかったのだ。
 これが覚悟をするということなのだろうかと、帰路の馬車に揺られながら、ユリアはぼんやりと考えていた。

「ユリア様、メイベル様がおみえになっておりますが…」
 それは王都へ戻って数日後の事だった。
 毎日の職務である神への祈りを終え、昼食前の空いた時間に部屋で書物を読んでいたユリアに、ダーナがそう告げた。
「メイベルが…? 珍しいな…」
 メイベルはナシスの世話役の娘である。元々が上級貴族の娘であり、フィルラーン最高位であるナシスの世話役をしている彼女は、貴族達や国王軍の上級将校でさえ一目置く存在である。
 同じ塔に住み働くメイベルではあるが、ダーナがユリアのみに仕えるように、ナシス一人に仕える彼女がユリアの前に現れる事は稀であった。
「分かった、通してくれ」
 ユリアは書物を閉じる。
 メイベルが来たということは、ナシスの言付けを預かって来たに違いなかった。

 ダーナが部屋を下がり、暫くの後にメイベルがユリアの部屋へ入って来た。
「お久しゅうございますユリア様。 ご健勝のご様子、何よりでございます」
 メイベルは自身のスカートの裾を軽く持ち上げ、頭を下げ礼を取った。
 紅茶にミルクを加えたような、淡い茶色の髪をきっちりと頭に編み上げ、上品な水色のドレスを身に纏っている。
 頭を上げたその顔には、相変わらず聡明で意志の強そうな瞳があった。
「あなたも変わりないようで、良かった事…。ナシス様もお健やかにお過ごしの事でしょうね」
「ええ、勿論でございます」と、メイベルはにこりともせずに答えた。
 私がお世話をさせて頂いているのですから、障りがあろう筈がありませぬと、その瞳が物語っている。
 大役を担っている誇りと、それを全うする事の出来る己に対する自尊心が、彼女の瞳を輝かせているのだとユリアは思った。
 気が強く厳しい彼女を、ダーナや他の女中達は少々苦手としているようだったが、ユリアはこの強い瞳を好ましく感じていた。

「本日伺いましたのは他でも無く、ナシス様よりのお言伝ことづてを預かっての事にございます」
「ええ…伺いましょう」
 頷くユリアに、メイベルは淡々と話を続ける。
「ナシス様はユリア様との面会を望んでおられます。多分に職務をこなされているユリア様の事、お忙しいとは存じますが、是非一度ナシス様の書斎へお越し頂きたきたいとお願いに参った次第でございます」
「ナシス様が私に会いたいと……まあ、それは勿論です。直ぐにでもお伺い致しますと、お伝えして頂戴」
「承りましてございます。それでは、失礼させて頂きます」
 再びメイベルはドレスの裾を抓み上げ頭を下げると、用件は伝えたとばかりにさっさと部屋を後にした。

 ナシスに会うなど久しぶりの事で、ユリアの胸は高鳴った。しかし突然の申し出に戸惑う思いも同時に沸き起こる。
 もしやフィルラーンらしからぬ行動を取っているユリアに対し、彼はお怒りなのではないだろうかと一抹の不安が過ぎった。
 だが兎にも角にもナシス様にお会いするのだ、失礼な格好で行く訳にはいかないと、ユリアはダーナに手伝ってもらい、服を着替え髪を整える。そして彼の居住階である六階へと向かった。
 同じフィルラーンとはいえ、ユリアにとってナシスは神にも近い存在である。ユリアの住む階から一つ上階に昇るだけではあるが、まるで雲へまで登ってゆこうとしているかのような心持ちになった。

「こちらでございます、ユリア様」
 出迎えたメイベルに通された部屋は、書物が多く置かれた部屋だった。とても落ち着いた雰囲気のその部屋は、ナシスに似つかわしい部屋である。
 中央には小さな机と、それを挟むように長椅子が二つ置いてあった。
 王でさえナシスの部屋へ訪ねて来る事など無いというのに、他の来客などこの部屋に来られる筈も無いだろう。だがその二つの長椅子は、明らかにナシスと、もう一人の存在が座る為に置かれた物だった。
 不思議に眺めていると、後ろから彼女に声が掛けられた。
「良く来てくれましたね、ユリア」
 振り返ると、そこにはナシスが立っていた。
「あ……ナシス様。本日はお招きを頂きまして、ありがとうございます」
 ユリアは慌てて頭を下げる。
 久しぶりに目にしたナシスの、相変わらずの美しさにユリアは思わず息を飲んだ。
 クリユスも綺麗な顔をしていると常々思ってはいたが、ナシスの中性的な美しさとはまた別物である。
 神々しいという言葉は、彼の為に使ってこそ相応しい言葉であろうと思えた。
「お座りなさい、ユリア」
 ナシスは長椅子の一つを指し示すと、己はもう一つの椅子へ座る。
 このようにナシスと向かい合わせの椅子に座るなど初めての事で、緊張の余り胸の鼓動が早まった。
 微笑みかけられたナシスのその柔らかな笑みに、思わず己の頬が赤くなるのを少女は感じた。

『お前、ナシスに惚れているのか』

 突然、以前ジェドがユリアに対し放った言葉を思い出した。
 何と下世話な事を言うのだと、随分前の話だというのに再び怒りが蘇ってくる。
 ナシスへのこの尊い畏敬の想いを、そんな言葉で穢されたくなどない。そんな戯言を言って良いお方では無いのだ、この方は。
「――――の、事です…」
「―――え?」
 ユリアははっと顔を上げる。
 折角ナシスとこうして話す機会が与えられたというのに、ジェドの事などを考えているとは何という愚行であろうか。しかも、彼の話を聴き逃すとは―――。
 何と忌々しい男だろうかと、ユリアは理不尽な怒りをジェドに抱く。

「申し訳ありません、今なんと……」
 ナシスはふと、面白そうに笑った。
「ふふ……彼以外がその椅子へ座るのは、初めての事だと言ったのですよ」
「え……彼……?」
 とっさに誰の事を言っているのか分からなかったが、直ぐに一人の男が頭を過ぎった。
 王以外でナシスの部屋へずかずかと入り込める男など、あの男以外に誰がいるというのだ。
「――――もしや、ジェドの事でしょうか……」
 ナシスは再びふふ、と笑う。
「彼は前触れも無く突然やってきてはその椅子に座り、勝手に貴重な清酒を飲みほしてしまう。困ったものです」
 言うその顔は、だが言葉とは裏腹に困ったという表情をしてはいない。
「なんと―――ナシス様に対し、無礼な……」
 ユリアは掌を握りしめる。
 自分だけならまだしも、ナシスに対してそこまで無礼な振る舞いを行っているとは、到底許せる事では無かった。

「ところで、話は変わりますが……聞くところによると、旧シエン軍の兵士の説得に、貴女がリュトーまで出向いていたそうですね、ユリア」
「あ………」
 来た、とユリアは思った。 やはり用件はその事だったのだ。
 カナルの街へ出向き清めの儀式を行ったり、リュトーへまるで軍人の使いのように足を運ぶなど、それらは明らかにフィルラーンとしての品位を貶めるような行為であった。
 ナシスがこれに怒りを持っても致し方無い―――いや、もしユリアが逆の立場であったなら、当然怒りを感じたに違いなかった。
 だが、例えナシスが相手であったとしても、ここで引く訳にはいかないのである。

「申し訳ございません……軍事に関わるなどと、フィルラーンに相応しい行動では無い事は重々承知だったのですが、しかし……」
 先手を打って己の行為の必然性を捲し立てようと思った。
 だがそれはナシスにやんわりと制される。
「―――貴女を咎めようと思っている訳ではありませんよ、ユリア。―――私は貴女を心配しているのです」
「―――心配」
 ナシスはいつの間にか、その顔から柔らかな笑みを消していた。

「もしや―――貴女が、フィルラーンという立場を誰かに利用されているのでは無いかと……いつか貴女が傷つく事になるのではと、私は危惧しているのです」
「私が―――誰かに利用されている。……それは、ナシス様の先読みによるご忠告なのでしょうか」
「いいえ、そうではありません。私はこの世の全ての出来事を先読み出来る訳ではありません。これは只の私個人の意見です」
「では、その御心配には及びません、ナシス様。クリユスは――あの者は私が最も信頼出来る男ですから」
 ユリアはしっかりとナシスを見つめ返した。

 利用など、喜んでされているのだ。
 手を貸してくれるクリユスの真の目的が、例えば己の出世の為だっとしても、それはただ単に彼に解りやすい動機がくっついたというだけの事である。彼がもしジェドに成り替わり総指揮官となりたいのだったら、寧ろ頼もしい限りと言えよう。
 そんな事で、今更この自分が何に傷つくというのか。

「それだけではありません…戦場へ、貴女が同行するとも聞きましたよ。もし貴女の身に何か危険が及びでもしたらと、それも危惧しているのです」
「それは……けれど戦場とは言え、戦いからは離れた場所で、しかも兵士達護衛が付いてくれるとの事ですから……。それに、私はもう決めたのです。国存続のこの危機の中、例え私自身に危険が伴ったとしても、私は私が成せる事を成すのだと」
「それは…貴女がやらなければならない事なのでしょうか」
「そうです。フィルラーンである私だからこそ、出来る事もあるのです」
 引こうとしないユリアに、ナシスは溜息を吐いた。

「――――私が何を言っても、貴女の気持ちを変える事は出来ないという訳ですね……困ったこと」
 ナシスの美しい顔が、僅かに陰った。
 髪と同じく青みがかった銀色のその瞳が、憂いを帯びて伏せられるのを、ユリアは胸が痛む想いで眺める。
 この尊い人に、己ごときの事で心労をかけるなど本意では無かったが、だからといって戦場行きを止める訳にもいかなかった。
「……御心配をお掛けし申し訳ありません、ナシス様」
 彼の言葉に背く日が来ようとは、夢にも思わなかった。
 ユリアは心から、ナシスに詫びの言葉を述べる。今彼女に出来る事は、ただそれだけだった。









 ユリアが部屋から去ると、ナシスは再び溜息を付いた。
「あの子の説得に、私では役不足だったようですね。ジェドにどう言い訳をしたら良いものか……」
「……ユリア様を説得してみせると、ジェド様にお約束でもなさいましたか」
 メイベルは茶器を片づけながら、ナシスに相槌を打つ。
「さて、あれを約束と言いましょうか……」
 数日前、突然ジェドはこの部屋へやってきて『女を戦場へ連れて行くなど足手まといだ、あの女もお前の言う事なら聞くだろう、説得しろ』と言い放つと、ナシスの返答も待たず出て行ってしまったのだった。
「それでも一応説得を試みましたが、この行為を認めてはくれないのでしょうね。……メイベル、壊れやすいものは暫くしまっておくことにしましょう」
「…承知致しました」

 普段あまり表情を変えないメイベルではあるが、その声に不満の色が混じるのをナシスは感じ取った。傍若無人な振る舞いをするジェドの事を、生真面目な彼女は快く思っていないようなのだ。
「とはいえ、ジェドに頼まれなくともユリアが戦場へ赴くなど、私も何とか止めたかったのだけれど……。彼女の身に何か間違いが起こりでもしたら大変です。……困った事……」
「けれどユリア様も仰っていらしたように、フィルラーンである彼女を戦場へ連れて行くのですから、滅多な事は起こらないよう護衛はしっかり付くのでございましょう」
 メイベルは片付ける手を止める事無く、淡々と言う。職務に忠実な彼女は、あくまでもナシスの世話役であり、その献身さはもう一人のフィルラーンへは向かないようであった。

「それはそうなのでしょうけれど……もし私という存在がこの国にいなかったら、果たして彼女を戦場へ連れて行くなどという話になるでしょうか」
 この国にはユリア以外に、己というフィルラーンがもう一人いる。もし万が一の事が彼女に起こったとして、それでもこの国に痛む所がある訳では無いと、暗黙の中で考えられている所があるのではないだろうか。
「私には軍人の考える事などわかりません」と素っ気なく答え、茶器を部屋から運び出そうとするメイベルに、ナシスはもう一つだけ問いかける。

「メイベル。私とユリア、この国にとって必要な存在はどちらだと思いますか」
「それは勿論ナシス様です」
 きっぱりと答える彼女は、その答えになんの疑いも持っていないようだった。
 それは彼女がナシスの世話係というだけでなく、同じ問いをこのフィードニアの国民全てにしたならば、やはり全ての人間がそう返答するのだろうとナシスは思った。
「……確かにフィルラーンとしては、そうなのでしょう。―――けれどこの国にとって真に必要な存在は、私では無くユリアなのですよ」
 何を言っているのかと、メイベルが初めて怪訝な表情を浮かべた。

「――――あの子は……ユリアは、鞘なのです」
「――――鞘」
 言葉を反芻するメイベルに、ナシスはゆっくりと頷いた。


 その昔、まだ神々が地上におわした頃。一匹の獣がこの世に生まれ落ちた。
 その獣は生まれながらに、この世の憎しみや怒りを全てその腹の中に抱えていた。
 獣は腹に抱えた負の感情のまま、この世のすべてを憎み、すべてを破壊しようと暴れ続けた。
 その爪は木々や岩を砕き、その牙は多くの神々を切り裂いた。
 これを見かねた太陽神ダヴィヌスは、己の聖剣を収める鞘の中へ、獣の憎しみと怒りを封じ込める。
 憎しみと怒りから解放された獣は、ケヴェルという名を与えられ闘神となり、他の神々を守護する神となった。
 その功績から、ケヴェル神は後に十二神の一人に加えられ、軍神となったのだ。


「ユリアは‘魑’を収めた鞘なのです。――――彼女の身に何かが起こったら、この国に再び破壊の神が降臨し、そしてフィードニアは滅びる事でしょう」
「――――ナシス様……?」
 独り言のように呟くナシスに、メイベルは微かに目を見開いた。彼女にしてみたら、これは驚愕の表情であるのだろう。
「大丈夫…これはこの国を先読みしての事ではありません。ただ、万が一の時にはそうなるであろう事を、私は知っているだけなのです」
 そう、これは先を読んだ訳では無く、彼がただ一度己に課した禁忌を破り‘視て’しまった、過去の‘少年’から感じた予感なのだ。
「けれど本人達にその自覚が無い……。困った事です」
 ナシスは窓の外を眺める。
 一陣の風が巻き起こり、はらりと葉が舞った。何かを告げる風のように、ナシスには感じられた。









TOP  次へ




inserted by FC2 system