42: 山間のリュトー





 ハロルドは旧シエン国(現フィードニア)とグイザード国の国境沿いにある地で、国境警備の任に就いていた。
 その地は山間に位置し、更には王都や主要都市とも遠く離れた土地である為、国境警備とはいえ敵国が大群を成して攻めてくる可能性など、皆無に等しい場所であった。
 要は閑職に就かされているという事だ。彼はこのリュトーという何も無い土地で、これからの人生をただ緩慢と生きるしかないのかと思うと、呪わしい気持ちにもなった。 いつか出世しシエン国王軍へ入るのだと、辛い訓練に耐えてきた己の今までの努力は、一体何だったのかと思わず考えずにはいられない。

 シエン国が敗れた時、彼は旧シエン国カリア領領兵軍の副軍団長の座へ登り詰めたばかりであった。
 軍団長の座は大概において領主、若しくは領主の血縁者が就くものである。 つまりはカリア領主の家系と一滴も血の繋がりを持たないハロルドにとって、自力で登りつめる事の出来る最高位に立っていたのだ。
 だがその座でさえ、彼にしてみたら国王軍へ入隊する為の足掛かりに過ぎなかった。数多あまたある領兵軍の、その中の一つの軍で副軍団長となったからと言って、なんだというのだ。 やはり男と生まれたからには、更なる上を――国の頂上を、目指したいではないか。
 カリア領兵軍で活躍し、いずれは国王軍へ入り、更には一級将校へまで登り詰めてみせる―――そんな野望を、彼は内に秘めていた。

 しかしそれもシエン国滅亡という抗いようの無い事実により、一瞬にして消え去ったのだった。
 カリア領はフィードニアに取り上げとなり、現在その地はフィードニアの人間が治めている。領兵団の兵士達はフィードニア兵となり、こうして僻地へきちへ飛ばされるか、それが嫌なら他国へ亡命するかだった。 と言っても、他国に頼る知り合いなどいないハロルドのような人間は、嫌でも後者の道など選びようも無いのだが。
 
 ハロルドはこの山間に建てられた名ばかりの要塞の一室で、何も起きる事の無いこの地の平穏な様子を書き綴った報告書を作成する。
 毎日毎日ほぼ同じ内容のそれは、恐らく誰も読む者などいないのだろう。ただ形式上書き上げ、形式的に本軍へ提出するだけだ。
 彼は溜息と共にペンを机の上へ置くと、己がこのまま腐れ果てて行く様を想像し、思わず赤毛の頭を掻き毟った。
 ほんの数ヶ月前までは剣を手にし、最前線で戦っていたというのに、今はただこの平穏な景色を眺め、やる気無く机に向かうのみである。
 この地へ来て以来何もかもやる気が起きず、それは度々不精髭となって現れた。それを自覚している分、彼は顎を擦りながら自嘲するのだった。
 まだ三十歳の彼は、現役から引退するには余りに早過ぎるのだ。

「ハロルド殿、来客が御見えですが……」
 彼が机の前で腐っていると、戸が叩かれ部下の一人が現れた。同じく元シエン国兵士の一人である。
「来客? 誰だ」
「それが……フィードニア国王軍第二弓騎馬隊中隊長、クリユス殿だと」
「国王軍?」 
 困惑した様子の部下と同じく、ハロルドも困惑した。何故国王軍の、しかも中隊長などがこんな僻地に現れるのか。
「ここへ通せ――――いや、客間へ案内しろ。俺がそこへ行く」
「は」
 頭を下げ、男は慌ただしく部屋を後にした。

 よもや反逆の疑惑か何かでも、この俺に立っているのではあるまいか―――。
 フィードニアに叛意はんいを持つ旧シエン兵が捕まり、苦し紛れにハロルドの名前を出した。有り得ぬ事では無い。
 大国相手に叛意を持った所で、敗国の残党が敵う筈も無い。あっさり潰されるだけだというのに、それに同意せず敵国に下る者を、腰抜けだなどと抜かすのだ、ああいう輩は。
 冗談では無かった。自滅するなら自分達だけにして貰いたいものだ。
 このまま何も無く腐ってゆくのも詰まらぬが、してもいない罪を被るのはもっと詰まらぬ終わり方だ。
 何とか身の潔白を証明せねばならない。何としても。
 
 ハロルドは意を決し、客間の扉を開ける―――。
 座っていたのは、国王軍中隊長などという肩書に似合わぬ、何とも美形な容姿をした金髪の男だった。
 瞳は綺麗な菫色で、少し長めの髪を首の後ろで括っている。胸当てや具足を付けてはいるが、泥臭さは一向に感じない。足を組み優雅に茶を啜る姿は、楽師か画家だと言われた方がしっくりとくる程だった。
 そして彼の座る椅子の後方に、もう一人茶色い髪の男が立っている。
 年の頃は二十歳前後といった所だろう、少々生意気そうな顔をした若造である。金髪の男の部下であるなら、国王軍の小隊長といった所か。

「お待たせ致しました、リュトー国境警備隊長ハロルドです。これは、中隊長殿自らこのような僻地へわざわざ御足労頂くとは、一体どのような用件が御有りでしょうか」
「私はフィードニア国王軍第二弓騎馬中隊長、クリユス・エングストと申します。今日は貴殿に頼みが有りこちらへ伺ったのですよ、ハロルド殿。―――まあ、お座り下さい」
 言いながら金髪の男―――クリユスは、小卓を挟んで向かいの椅子を掌で指し示した。
 その落ち着き払った優雅な仕草に、どちらが客なのか分からぬなと内心苦笑しながら、うながされた椅子へ腰掛ける。
「―――して、頼みとは」
 挨拶もそこそこに単刀直入に用件を聞くハロルドに、だがクリユスは気を害する様子も無く微かに笑う。
 彼は茶を机へ置くと、組んでいた足を戻し、座りなおした。その動作に、思わずハロルドも姿勢を正す。

「――――貴殿にフィードニア国王軍へ入隊して頂きたいのです」
「――――――――は……?」
 この男が何を言ったのか、直ぐに理解が出来なかった。 
 この俺に、フィードニア国王軍へ―――聞き間違えで無ければ、確かにこの男はそう言ったのだ。
「何を言うかと思えば……旧シエン兵であるこの俺をフィードニアの国王軍へ? 笑えない冗談ですな」
 ハロルドは内心の動揺を隠し、平静を装いながら部下が運んできた茶を啜った。

「勿論冗談などではありませんよ。それにこれは私の独断で行っている事でもありません、軍に許可を得て正式にお誘いしているのです」
「いや、それが本当なら光栄の至りですが……」
 ハロルドは推し量るように、目の前の男を眺めた。
(――――いったい、何を企んでいる……?)
 先の戦いで死んだ金獅子の将ならばともかく、フィードニア国王軍の人間がわざわざ勧誘しにくる程の名声が、現在のハロルドに有る訳では無い。
 勿論、数年の後は金獅子を超える名声を手にする男であると、彼は自負してはいたのだが、実際問題としては現在の彼はまだ、数ある領兵軍の中の副軍団長に過ぎないのだ。 
 そんなハロルドに国王軍への入隊話などと、そんな旨い話がある筈が無かった。
 それに彼にもプライドと言うものはあるのだ。確かに現在のハロルドの立場から言えば、喉から手が出る程飛びつきたい旨い話ではあるが、だが敗戦を喫したばかりの敵国の国王軍で、すぐさまその国の為に戦おうという気分になど、そう易々となれるものでもなかった。

「……少し考える時間を頂きたい」
 ハロルドに言えたのは、現時点ではそれだけであった。
「勿論、十分考えてから返答を頂ければ結構です……と言いたい所ですが、しかし連合国との戦いが何時激化するか分からぬ今、あまり我々にも猶予は無いのです。それはお分かり頂きたい」
 それ程フィードニアの人材不足は急を要するというのだろうか。
 だとしたら、そんな国に敗れたのだ、我々シエン国は。
 そう思うと、ハロルドは急に腹立たしさを覚えた。

「分かりませんな、フィードニア程の大国が、この俺のような名も無き男をそうまで必要とする理由が。……フィードニアには英雄がいる、あの男の凄さは先の戦いでこの俺も目の当たりにしました。彼が居れば連合国相手とはいえ、そう易々と倒れはしないでしょう」
「確かに、彼の強さは並の人間ではありえぬものです。しかし……」
 クリユスはここに来て初めて言いよどむと、少し迷う目をした。
「――――やはりあのお方から直接お言葉を頂いた方がいいだろう。―――ロラン」
「は」
「ここへあの方をお連れしろ」
「いえ……しかしこのようなむさ苦しい場所になど……」
 クリユスの後方に控えていた茶色い髪の男は、言いながら顔をしかめる。
 二人が一体何の話をし始めているのか分からなかったが、むさ苦しいとは随分な言い様である。
「いいからお連れするのだ、あの方がハロルド殿に自ら会いたいと仰ったのだ」
「は……」
 しぶしぶ、といった風に男は扉から出て行った。
「あの方とは…?」
「お会いすれば分かります。……貴殿に直接会って国王軍入隊を頼みたいと申されておりましたが、失礼ながら貴方の人柄も分からぬゆえ、いきなり会って頂く訳には行かぬと、今まで馬車で待機して頂いておりました」
 国王軍中隊長であるこの男が、そこまで気を使う人物とは一体誰なのか―――。
 そしてそのような人物が、何故この俺に会おうなどと思うのか。
 ハロルドはますますこの男達の意図が分からなくなった。

 暫くして、扉の向こうからざわりと兵士達がざわめく声が聞こえた。
 客人が居るというのに、何を騒いでいるのだとハロルドが眉をひそめたのと同時に、クリユスは椅子からすっと立ち上がると、扉へ向かい片膝をついた。そしてハロルドにも、それを促す視線を寄越す。
「―――――貴殿も跪かれよ、フィルラーンのユリア様がおいでになります」
「――――な―――――」
 驚きの余り、頭が真っ白になり言葉が出てこなかった。

 扉が開かれる。
 その向こうから、先程の若造に手を引かれながら、金色の髪をした女がゆっくりと入ってくる。
 大きな金色の瞳、赤く小さな唇。透き通るように、白い肌―――。
 それは今までに彼が見た事も無い、美しい女だった。
「無礼な、頭を下げぬか…!」
 若造にどなられ、ハロルドは初めて間抜けにもぽかんと少女を見上げていた己に気がついた。
 彼は慌てて両膝と両手を床へ付け、頭を深く下げる。

 金の刺繍を施した、ラティと呼ばれる全身を覆う程の白い布を頭から被っている少女は、間違い無くフィルラーンの少女である。
 だが、何故フィルラーンがこのような所へ―――――。
「止めなさい、ロラン。私は彼に頼み事をしに来たのです。寧ろ頭を下げねばならないのは、私の方なのですよ」
 それは美しく凛と響く声だった。
「ユリア様がこの男に頭を下げるなど―――」
 若造が不満げな声を出したが、ハロルドの頭には彼らの会話の何一つ頭に入っては来なかった。
 フィルラーンを御前にする事など、初めての事だった。

 フィルラーンという存在は、何と言う神々しい雰囲気を身に纏っているのだろうか。少女が登場しただけで、まるでここが聖堂の中のように、厳かな空気に満ちてゆくように感じられた。
(それを無礼にも、この俺という男はそのご尊顔をじろじろと眺めてしまうとは――――)
 己の失態に、ハロルドは全身から汗が噴き出してくるのを感じた。
「さあ、頭をお上げなさい」
 少女がハロルドの傍に歩みより、彼の肩に手を触れた。
「な―――なんと、勿体ない事です……」
 彼は更に深く、床に擦りつけるように頭を下げる。今自分の身に何が起こっているのか分からない―――彼はそんな心境になっていた。

「先の戦いでの貴方の戦いぶりを、ここにいるクリユスが褒めていたのです。貴方はこの先フィードニアの国王軍にとって、必要な存在になると」
「そんな、勿体ない事です」
「今フィードニアは諸国と対立し、明日をも知れぬ状況です。今まで我が国はジェドの力に頼って来ましたが、一人の力がいつまでも通用するとも思えません。まして、ジェドの身に今何かが起これば、それはこの国の終りをも意味するのです。 そんな危険な状況を、このまま放っておいて良い筈がありません」
 今フィードニアは軍を強化させねばならぬのだと、少女の口は語った。
 その為には、貴方の力が必要なのだと。
「祖国を滅ぼした国の為に力を貸せだなとど、勝手を言っている事は十分承知しています。私などが幾ら頭を下げた所で、承服しかねる事も分かっています。―――ですが私に出来る事と言えば、情けなくもこうしてただ願う事のみ……」
 暫しの沈黙の後、若造の叫ぶ声が頭上で聞こえた。
「――――お止め下さい、ユリア様……!」
(何だ、何が起こっている……?)
 不遜と知りつつも、好奇心に負け、ハロルドはそろそろと頭を上げた。
「な―――――」
 彼が目にしたものは、己の前で膝を付き、頭を下げる少女だった。

「この通りです。私に力を貸しては頂けませんか」
「いや、そんな……お止め下さい。この俺に―――私に頭を下げるなど……!」
 驚嘆というより、もはや畏怖の念に近かった。
 フィルラーンがこんな名も無き男に頭を下げるなど、あってはならない事だ。
 再びハロルドは頭を下げる。知らずのうちに、体が震えていた。
「こんな私の力で宜しければ、幾らでもお貸し致します……! もはや祖国無き身、これからはユリア様の為――フィードニアの為、卑小な命ではありますが、捧げる覚悟でございます……!」
 この時の彼に、他に一体何が言えただろうか。
「本当ですね、ハロルド。……ありがとう、良く言ってくれました」
 凛とした声の中に、優しいものが混じった。笑ったのだろうかと、ふとハロルドは感じた。
 この少女の笑顔もまた、これまでに見た事も無い程美しいものなのだろうと、床に頭を押しつけながら彼は思った。



 少女がクリユスと共に部屋を出て行き、やっとハロルドは頭を上げた。
 どっと疲れが押し寄せ、溜息を一つ吐く。
 茶色い髪の若造がまだ部屋へ残っており、詳しい話は後日使者を寄越すと話を続けたが、それも上の空で聞いていた。
「―――――ユリア様が頭を下げたなどと、良い気になるなよ」
 唐突に、男は目を吊り上げハロルドを睨みつける。
「あの方はお優しいのだ。そしてフィードニアの行く末を心から案じておられる。他国のフィルラーンとは違い、信念を持っておられる尊い方なのだ。だから貴様ごときに頭を下げるなどという事をなされる」
 余程あのフィルラーンの少女に心酔しているのだろう。彼女に頭を下げさせてしまった事が、心底悔しそうだった。
 そして自分にもその気持ちが解ると、彼は思った。

「―――いいな、ユリア様にあそこまでの事をさせたのだ。万が一裏切るような事があれば、お前を決して許さんぞ」
「裏切るような事はしない。俺も軍人だ、フィードニアに命を捧げると一度口にした以上、それをたがえる事などしない。太陽神ダヴィヌスに誓おう」
「――――誓うのならば、月の女神フィリージュに誓え」
「フィリージュ…?」
 軍人が誓う神ならば、普通は太陽神ダヴィヌスか軍神ケヴェルだろうと思い、ハロルドは眉を寄せる。だが直ぐに、あのフィルラーンの少女と女神フィリージュを被らせているのだと思い至った。
 月と美の女神。癒しの神。それはハロルドの中でも、彼女にすんなりと被さった。
「―――――成程、ではフィリージュに誓おう」
 それを聞き、ようやくこの生意気な若造は、納得いったというように頷いた。

 だが神に誓わなくとも、ハロルドにはフィードニアを―――フィルラーンの少女を裏切る気持など、既に微塵も持ってはいなかった。
 フィルラーンなどという神に近しい高貴な存在が、こんな僻地へまで足を運び、力を貸してほしいと言うのだ。一生その瞳の端にさえ映る事が無い筈の、この塵芥ちりあくたのような己をあの瞳は捉え、そしてハロルドという名を口にした。
 今でもまるで夢の中の出来事のようにさえ思えるのだ。
 それを裏切る事など、どうして出来るだろうか。

「あの……先程の客人は、どのようなご用件だったのですか」
 部下の一人が、客間に一人となっても中々出てこないハロルドに溜まりかねたように、扉を叩き入ってきた。
 国王軍中隊長だけでなく、フィルラーンの少女まで現れたのだ。話を早く聞きたくてしょうがないという顔をしている。
 廊下でもどうやら何人もの兵士達が、扉にへばり付き部屋の中を窺っている様子だった。
「―――――この、暇人どもが……」
 ハロルドはにやりと笑うと、扉に向かい叫んだ。

「お前達、覚悟しておけ。これから忙しくなるぞ……!」








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