23: 始まりの矢
晴れた日だった。 雲一つ無い、真っ青な空が地平線の彼方まで続いている。 こんな日に似合わない空だと、ロランは思った。 彼は切り立った崖の上に座り込み、先程からずっとこの延々と続く空と、その下に広がる大地をただぼんやりと眺めていた。 眼下には崖に沿うように、平行に伸びている道が、やはり地平線の先まで続いている。 ロランはその先からやってくる、ある人物を待っていた。 ―――ただ、それが誰なのか彼は知らなかったし、知る必要も無いと思ってはいたが。 彼がフィルラーンの少女を拉致し、そしてその少女自身に命を助けられたあの時。 その後、彼は上官であるクリユスに身柄を預けられた。 「今回の件は公にはしない、謹慎が解けたら軍に戻ってもらおう。 だが代わりに、私の役に立ってもらうぞ」 クリユスはロランにそう告げた。 クリユスは英雄と呼ばれているジェド総指揮官の失脚と、軍からの追放を目論んでいるらしかった。 しかも驚くべき事に、その件にはフィルラーンのユリア様も関わっているらしいのだ。 ロランは、イアンの死に対する憤りをユリアに向けてしまった事は後悔していたが、イアンを殺したジェドに対する恨みは、未だに消していなかった。 殺されなければならない程の罪をイアンが負ったとは、どうしても思えなかったのだ。 ロランがシエン沿いの国境警備に務めていた間も、彼が物資の補給の為などで、王都近くまで立ち寄った時には、必ず弟と酒を酌み交わしていた。 弟の話には、いつしかフィルラーンの少女が頻繁に登場するようになった。 余りに彼女を褒め称えるので、フィルラーンに惚れたのかと、イアンをからかったものだ。 そんな下世話な話をしていい方では無いのだと、イアンは顔を真っ赤にして怒っていた。 どこまでも生真面目な奴なのだ。 犬になれというのなら、なってやろうと思った。 一度捨てた命だ。ジェドに それにユリアが関わっているというのなら、彼女の役に立つ事で、少しでも罪滅ぼしがしたかった。 ロランを庇った時のように、恐らくユリアはイアンを庇ってくれたに違いない。 少女はイアンが語っていた通り、清く高潔な方だった。 英雄という名の陰で、非道な行為を働くジェドを、少女は見逃していなかったのだ。 だというのに、自分は何という愚かな事を彼女にしてしまったのだろうか。 それを思うと、大声で叫びたくなる程の恥ずかしさと、己を刺し殺してしまいたい程の怒りをロランは覚えた。 だが、自ら死ぬ事は許されないのだ。 『五月蠅い、お前の気持ちなど知った事か! お前が死ぬ事は許さない!』 顔を真っ赤にして怒鳴った少女を思い出し、ロランは思わず笑った。 儚げな見た目に似合わず、男のような口調で啖呵を切る。そんなユリアを、イアンは知らなかっただろう。 知らずに死んだのだ、そんな事さえ。 役に立って見せろというクリユスの言葉に、ロランは大人しく従った。 調べたのは他国の同盟の動きだけでは無かった。それはフィードニア国軍内の人物、家族、交友関係にも及んだ。 その仕事に小隊長としての誇りなどは無い、だがそれでも構わなかった。 クリユスが初めてクルト王に対面した時、己はユリア様に仕えるのだと公言したという。 ならばそのクリユスに使われる自分もまた、ユリア様に仕えているのだ。 フィルラーンの少女に助けられたこの命を、いつか少女へ返す時が来るだろうと、ロランは思っていた。 ティヴァナとの同盟を阻止するなどと、クリユスが一体何をしようとしているのかその真意はロランには分らなかったが、全ては自身の復讐とユリアの為、ただそれだけの為に彼は今生きていた。 ふと、地平線の彼方に一つの黒い点が見えた。 それは道に従ってこちらの方へ徐々に近づいて来る。黒い点でしか無かったものは、やがて形が分かるまでになった。 馬だった。馬上には人が跨っている。 隠密に行動している為、馬には旗も何も付けてはいなかったが、その人物には見覚えがあった。 間違い無い、ロランが先程からずっと待っていた、誰だか分からない、その ロランは矢を手にした。――――ティヴァナの矢だ。 眼下を通り過ぎる馬。 崖の上からは少し距離があったが、弓の腕はクリユスに鍛えられ、以前より飛距離も命中率もその精度を増していた。 (――――問題は、無い) ロランは眼下の馬に狙いを定めると、引き絞っていた弦を、放した。 * フィードニアの王城内にある軍議室に、国王軍総指揮官、副総指揮官、そして一級将校――大隊長及び中隊長――の面々が揃っていた。 フィードニアの実力者達が一同に会したのは、新参者のラオとクリユスにとっては、初めての事だった。 同じフィードニア国王軍の兵士とはいえ、重戦車隊や歩兵隊とは訓練も別に行っている為、初めて顔を合わせる者もいる。 ―――勿論、顔を合わせる事は初めてであっても、役職や名前――それ以外の事も、既にクリユスの頭の中には入っていたが。 「ティヴァナへの使者が、殺されただと……!」 そう吠えた男は、歩兵隊大隊長ブノワだ。 四十代後半ではあるが、実際の年齢よりも随分若く見える男だった。 「同盟の中心であるトルバ国を避ける為、船で隣国のベスカまで行き、そこからティヴァナに入る予定でした。ですがベスカでの道中、何者かの矢に倒れたとの報告を受けております」 説明したのは第五騎馬隊中隊長フリーデルである。 ティヴァナへの使者は、第五騎馬中隊に所属する男だったらしい。 フリーデルは忌々しげに続けた。 「矢はティヴァナの物でした。遺体に突き刺さっていた矢は一本のみ、一撃で急所を貫いていたようです。また、ティヴァナへ向けた密書は紛失しております。――――恐らく、殺された際に持ち去られたのだと……」 「ティヴァナだと、くそっ…! 門前払いどころか自国へ入れる事さえ許さず使者を殺すのか、同盟を受け入れるつもりなど更々無いではないか……! 我が国を舐めておるのだ!」 「……ちょっと待ってくれ、ティヴァナを庇うわけでは無いが、使者を殺して何の得がティヴァナにあるというんだ? 矢なんぞ他国の人間でも簡単に手に入る。ティヴァナに見せかけて、トルバ辺りが我々の同盟を阻止しようとして仕掛けた矢だと考えた方が、妥当じゃないかと思うんだが…」 ラオが堪らず、といった風に口を挟んだ。 明らかにティヴァナを擁護する発言に、ブノワは更に憤怒する。 「何を、このティヴァナの犬が! 隠密の筈の使者を待ち伏せするなど、内通者がいたとしか思えん。どうせ貴様達がティヴァナと内通していたのだろうが!」 言いながら、ブノワは拳を机に叩きつける。 衝撃で茶が一つ机から落ち、激しい音を立て床に転がった。 「何だと……!」 腰かけていた椅子から立ち上がり、反論しようとするラオを、ライナスが片手を上げ制した。 「待て、二人が元ティヴァナの軍人だという事は、最初から分かっている事だ。あえてそれを持ち出すという事は、入隊を許したこの俺を非難しているという事か、ブノワ」 ライナスの厳しい視線を受け、ブノワは口籠る。 「冷静になれ。今は身内同士言い争っている時では無いだろう。 我が軍に裏切り者がいるというのなら、全力で探し出し制裁を加えてやる。だが証拠も無く憶測だけで人を裁こうとするな」 「は……申し訳ない。いささか興奮したようで……」 ブノワは不満気な表情ではあるが、ライナスには逆らえないとばかりに、一応この場は引いてみせた。 「ラオ、お前が悪いよ。ティヴァナの矢がフィードニアの使者を射殺したというのに、元々ティヴァナの軍人だった我等がそれを擁護しては、疑われても仕方が無いではないか」 クリユスは困ったような表情をしてみせた。 「だけどよ……」 「それにラオ、私はお前とは意見が違うな。―――使者を射抜いた者がティヴァナの者なのか、それとも同盟連合国の者かは分からないが――――」 クリユスはゆっくりと皆を見渡した。 「私は、ティヴァナがフィードニアと同盟を組む事は、有り得ないと思っています」 皆の視線がクリユスに集中した。 ライナスがどういうことだ、と言葉の先を促す。 「ご存じのように、私は元ティヴァナの軍人。 ティヴァナがフィードニアをどう思っているのか、よく知っているのですよ。 ……ティヴァナは古くから他国の侵略など許さない、強国であり大国でした。かたやフィードニアなど、ここ最近急速に大きくなっただけの成り上がり国。所詮格が違うのだと」 「何だと、よくもそんな事を……!」 再び沸騰するブノワに、クリユスは慌てて言い繕った。 「ブノワ殿、私はそうは思っていないからこの国へ来たのですよ。 ……ですが、ティヴァナにはそう考える者も多いという事です。格下の国と同盟を組むなど、恐らくプライドが許さないでしょう」 「だとしたら我等は連合国に恐れを成し、強国へ泣き付いてきた情けない国という事だな」 ライナスが渋い顔で、顎を擦った。 「――――そもそも他国の力を借りようなどと、情けない事を考えていた事が間違いだったのです」 言ったのは、今まで黙って皆の様子を見ていたメルヴィンだった。 「他国の力を借りずとも、自国の兵力を上げればいい。今までフィードニアは総指揮官殿の力に頼り過ぎていたのですよ。この大国に見合う兵力を、今こそ作り上げるべきなのです」 声を張り上げ主張するメルヴィンに、クリユスは頷いた。 「確かに現状では、二国以上に同時に攻められては反撃出来ません。幾らジェド殿が軍神ケヴェルのごとく戦われても、体は一つなのですからね」 軍議室がにわかにざわめく中、皆が囲む中央の机から一人離れて窓際に座り、軍議が始まってから一言も発言をしようとしないジェドを、クリユスは盗み見た。 軍の力を大きくするという事は、ジェドが今持つ英雄という名の力と権力を、少なからず削ぐ事になる。 だというのに当の本人は、全く関心なさげに窓の外を眺めていた。 軍の編成には興味が無い、好きなようにこの軍を扱えばいいと以前ジェドは言ったが、それは本心なのだろうか。 だが総指揮官という立場に居りながら、そこまで無関心になれるものなのか。 ――――いや、それ以前に彼のその態度は、まるで自分の地位にさえ興味が無いようにも見えた。 何を考えているのか、ジェドの本心が一向に読めない。 今己が戦おうとしている相手は何者なのか。 ユリアは一体、彼の何を恐れ、何と戦おうとしているのか。 肝心の事を何一つ分かっていないまま、自分はこの国の歴史を動かそうとしている。 クリユスは漠然とそう感じた。 |
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