20: 罰






 矢がユリアの足を掠めた。
 バランスを崩し、ユリアはその場に倒れ込む。
 慌てて起き上がろうとしたが、既にロランは彼女の直ぐ後ろに立っていた。
 ロランの手が、ユリアに伸びる。

「――――――嫌……!」

 咄嗟にユリアは土を掴んで、ロランの顔へ投げつけた。
 彼は怯んだが、だがそれはほんの束の間の時間を稼いだだけだった。
 立ち上がり再び走ろうとするユリアの髪を、ロランは掴む。
 乱暴に引っ張られ、その痛さにユリアは思わず声を上げた。
 地面に仰向けに倒される。
「放して………!!」
 抵抗しようとする両腕は、ロランの片手であっさりと押さえつけられた。
 必死にもがくが、ユリアの体に馬乗りになる男の体は重く、身動きが取れない。

「あっけないな、これで終わりですか? ユリア様」
 ロランが笑った。それはぞっとする冷笑だった。
「嫌……! 放して、お願い……!」
 ユリアは懇願する。情けなくとも、もうそれしか出来る事が彼女には残されていないのだ。
 捕えられたら最後、男の力に敵う筈も無い事を、ユリアはもう十分に理解していた。
「―――俺の弟は、許しを求めませんでしたか? 助けてくれと懇願はしませんでしたか?」
 ロランは顔を歪めた。
「言った筈だ。あんな死に方、望んでいる訳が無いのだから。――――だけどそれは聞きいれられなかった、そうだろう?」
 その通りだ。
 イアンはジェドに懇願した。だがジェドはそれを許さなかった。
 懇願した所で、ロランがユリアを解放する筈も無いのだ。
 
 ―――――――死のう。
 逃げる事は出来ない。ここでこの男に凌辱され殺されるのを待つ位なら、その前に自ら命を断った方が余程ましだ。
 舌を噛み切ろうと思った。
 ユリアがそう決意した瞬間、だがロランはユリアの口を無理やりこじ開けると、布をそこへじ込んだ。
「おっと。自決なんて無しだぜ、ユリア様」
「………! うぐ……んん……っ!」
 ―――死ぬ事さえ、許されないのか。
 口に入れられた布で、唯一この状況で自ら選択出来るものを失った。
 声ももう上げられない。来ないと分かっている助けを呼ぶ事さえ出来ない。
 涙が零れ落ちた。

 ――――何故、こんな事になってしまったのだろう。

 殺してやりたいと思う程、苦しめたいと思う程、自分はロランに憎まれているのだ。
 それだけの憎しみを向けられる事が、怖い。そして辛い。
 
 憎しみの目を向けられるのは、ロランが初めてでは無かった。
 ずっと、ユリアを憎んでいる男が居る。
 ―――自分は周囲の人間を不幸にしているのかもしれない、とユリアは思った。
 神に仕える者、邪を払い清める者。そんな聖なるフィルラーンである己が、他人を不幸にする。
 それは何より罪深い事のように思えた。

 ――――これは、私の罰なのだろうか。
 凌辱され、殺される。 それが私の十二年越しの罰なのか。
 なら。
 それならせめて、その罰を受ける前にせめて。

 少年を思い出した。
 
 ――――せめて貴方に。

 ロランの手が、ユリアの太腿をまさぐる。

 ――――せめて、一目だけでも。

 ユリアは目を瞑った。
 世界は闇に覆われる。それでいい、とユリアは思った。
 見たいものを見る事が出来ないのなら、もう何も見たくは無かった。










「――――そこまでだ、ロラン」

 聞き覚えのある声だった。
 目を開けると、ロランの喉に剣が添えられていた。
「ク……クリユス隊長………、な……何故」
 ロランは驚愕の顔を、そのまま固まらせていた。
「何故ここに、かな? 簡単な事だ。バルドゥルに頼んで、お前を見張らせていたのだ」
 ユリアはこの状況を直ぐには理解することが出来なかった。
 死を、それ以上の屈辱を、覚悟した所だった。
 なぜここに、この誰も通らぬこの森に、この優しい声が響くのだろう。
 ユリアは視線を、ロランの後方へと移す。
 にこりと微笑むクリユスが、そこに居た。

 クリユスはロランをユリアの上からどけると、ユリアの口に入れられた布を外した。
 その手はゆっくりと、ユリアの頬に付いた泥と涙をぬぐう。
 そして彼女の前に、手を差し出した。
「遅くなって申し訳ありません、ユリア様。ロランを見張っていた兵士が、森で二人を見失ってしまいまして」
 差し出された手を取った。温かい手だった。
 涙が、溢れ落ちる。
 ああ―――――助かったのだ。 やっと実感が沸いた。

「馬鹿な事をしたな、ロラン。 死罪は免れんぞ」
「―――分かっていますよ、それ位」
 悪戯を叱られ、不貞腐れる子供のようにロランは言う。
 クリユスは溜息を一つ吐くと、胸から小さな笛を取り出し、それを吹いた。
 そして空へ向けて弓を射る。
 何をしているのかと不思議に思うユリアに、クリユスは微笑みながら言った。
「この森の中で貴女を探している者が他にもいるのですよ。 彼にユリア様を見つけたと、合図を送ったのです」
「………そうか」
 土にまみれた服に、裂けたスカート。
 バルドゥルかラオ辺りだろうが、この今の自分の姿を見られるのは、少し気恥ずかしいものがあった。
 何か羽織る物は無いかクリユスに問おうとした時、後ろから木の葉が揺れる音がした。
 ロランがとたんに眼をぎらつかせ、剣を握る。
「ロ―――」
 後ろから、何かがユリアに被さった。大きな――――マントだ。
 黒に近い深紅。それは、見覚えのあるマントだった。
 ユリアの体が、震えた。

「ジェド殿、ユリア様はご無事でしたよ。少し足に怪我をされているようですが、浅い傷です。それ以上の傷は負っておりません」
「――――そうか」
 低い声が聞こえた。それはおよそ感情の籠っていない声だった。
 ユリアは恐る恐る、後ろへ振り返る。
 無表情に立つ男が、そこに居た。
「な……何故、お前がここにいるのだ……何故お前が、私を探しになど…」
「五月蠅い、お前は大人しくそれを被っていろ」
「ユリア様、ジェド殿には私がお知らせしたのですよ。ロランは私の部下です。処罰を、私では決めかねますので」
 ロランが突然笑いだした。
「これだけの事をして、生きていられるとは思っていませんよ、隊長。けど大人しく殺されもしない…!」
 ロランはユリアに飛びかかると、彼女にめがけて剣を振り下ろす。
「―――――あっ……!」
 避けきれない、とユリアは思った。
 だがその剣は、彼女の目前で空へ飛ぶ。
 弾かれた勢いでロランは後方へ転がった。 
 ユリアの目の前に、ジェドの背中があった。

「おい、お前――――楽に死ねると思うなよ」
 ジェドの背中に感じる威圧感に、ユリアは思わず後ずさった。
「望むところだ……! 腕を落とされようが足を切られようが、息がある限りお前とその女に、俺は剣を向けてやる……!」
 ロランは青褪める顔で、それでも気丈にジェドに向かう。
 眩暈がした。
 あの時と――――イアンが死んだあの時を、まるで再演するかのように、全く同じ状況だった。
 また、人が死ぬのか。あの悪夢を、再び繰り返すのか。
 嫌だ――――。嫌だ、嫌だ。
「や……めろ」
 ユリアは呟いた。
 ジェドは鞘に納められていた剣を引き抜く。
 ロランは剣を構える。 ジェドに向かって、走った。
「――――――止めないか……!」
「ユリア様……!」
 クリユスが止めようと手を伸ばした。
 だがユリアはそれを振り切る。そして思いきり、ロランに飛び付いた。
 ロランと共に、そのまま地面に倒れ込む。
 ジェドの剣が振り下ろされ――――――ユリアの手前で、止まった。

「何をしている。そこをどけ、ユリア……!」
 ジェドが怒号を上げる。
 空気まで痺れるかのようなその声に、恐怖で体が震えたが、それでも負ける訳にはいかなかった。
「嫌だ、私はもう目の前で人が死ぬ所を見たくないんだ……!」
「……何を言っている、お前を犯して殺そうとした男だぞ!」
「それでも、嫌なものは嫌なんだ……!」
 ユリアは叫ぶ。
 必死だった。守れなかったあの時のイアンと混同していたのかどうかは、分からない。
 とにかくもう、誰も死んで欲しくは無かった。
「な――――誰が、助けてくれなんて言ったんだよ……!」
 ロランはユリアを突き飛ばした。
「俺はとっくに死ぬ事なんて覚悟してるんだ。せめて一太刀でもあの男に浴びせられればそれでいい、邪魔をするな……!」
 無性に腹が立った。簡単に死ぬなどと、言うな。
「……五月蠅い、お前の気持ちなど知った事か! 私はもう後悔したくない、だからお前が死ぬ事は許さない…!」
 ユリアは再びロランに抱き付いた。
 そしてジェドを睨みつける。
「ロランを殺すというのなら、私共々切ればいい。私は、絶対にここを動かないからな……!」
 自分が言っている事が無茶苦茶だという事は、分かっていた。
 だが形振なりふりなど構っていたら、イアンの二の舞になってしまう。
「ふ……ふざけるな……、この……」
 ロランがユリアを引き剥がそうとする。
 ユリアは更に腕に力を込めた。

「――――馬鹿馬鹿しい……」
 ジェドが呟き、剣を鞘へ納める。
「……ロランをお許しになるのですか?」
 今まで黙って成り行きを見ていたクリユスが、口を開いた。
「こんな茶番に付き合っていられるか。俺は自ら死を望む奴を殺してやるほど親切ではない。それにフィルラーンを切り捨てる訳にもいかん」
「………そうですか。ではロランは上官である私が引き受けます、宜しいですか?」
「好きにしろ」
「ま――――待て……! 俺はお前を許さない、俺は何度でも、お前の命を狙ってやるぞ……!」
 収束しようとするその場の雰囲気に反発するように、ロランは尚も叫んだ。
「勝手にするがいい、どうせお前にこの俺は殺せない。……だが、二度とその女に手を出すな。次は許さん」
 そう言うと、ジェドはきびすを返した。
 そして一人さっさと馬に乗り、その場から去って行った。

 ロランはやっと剣を離した。彼の体から力が抜けていくのが、ユリアには分かった。
 顔には脂汗が浮かんでいる。ジェドの闘気に、必死に耐えていたのだろう。
「……何故俺を助けた。余計な事をしやがって……」
 ぽつりと、ロランは呟く。
「―――――なんで、あんな事をした俺を助けるんだ。なんで俺を――――。それくらいなら、なんで……イアンを助けてくれなかったんだ………」
 ロランの頬に、涙が落ちた。
 男の人が泣くのを、ユリアは初めて見た。
「―――――済まない、私が悪かったのだ。お前の言う通り、私はイアンを助けられなかった。済まなかった……」
 静かに涙を流すロランの顔を、ユリアは抱きしめた。
 ロランは成すがままになっていた。 嗚咽が、漏れた。
「…………違う、あんたの所為じゃない事くらい、本当は最初から分かってたんだ」
 掠れる声で、ロランは言った。
「………それでも、俺は誰かを憎みたかった……。イアンは嵌められたんだと、俺は自分に思い込ませたんだ。そうでもしなければ、イアンの死に耐えてなどいられなかった」
「いいや、ロラン。私が今日のように本気でジェドを止めていれば、イアンは死ななくて済んだかもしれない。―――私の罪だ、済まない」
 ロランは涙を拭った。
 そして、彼の頭を包み込むようにして抱きしめていた、ユリアのその腕をゆっくりと外すと、その場へ立ち上がった。
 赤くなった眼で、ユリアにぎこちなく笑う。
「貴女は、変ったひとだな。そんな事ではこの世を生きて行くのに、損をしますよ」
「――――そうなのだろうか? 確かに私は世間知らずかもしれないが。だが世の中の女性に比べて、そんなに私は劣っているのだろうか……」
 真面目に答えるユリアに、ロランと―――おまけにクリユスまで、笑った。

 心外な反応ではあったが、これがロランの笑い方かと、ユリアは思った。
 イアンと同じように、目尻を下げて笑う。
 ―――――だが不思議な事に、つい先程までどうしてもイアンが被って見えていたその顔が、今はもうロランにしか見えなかった。

「さあ、日も大分暮れて参りました。そろそろ戻りましょう、ダーナ嬢が心配されておりますよ」
「ああ―――そうだな、帰ろう」
 クリユスは悪戯っぽく、肩を竦めてみせた。
「こんなに遅くまでユリア様をお連れするなどと、と私はダーナ様に怒られるのでしょうね」
「違いないな」
 死を覚悟した瞬間、ダーナにももう会えないのだと思った。
 頬を膨らませ怒る、あの顔を再び見られるのだと思うと、ユリアの顔に自然と笑みが零れた。












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