185: 王の道





 王の部屋から露台へ出ると、遥か遠く先の山々までが見渡せる。遮るものの無い平坦な大地から風が吹き抜け、クルト王の髪や衣服をなびかせた。
「見ろ、あの山を越え、更に向こうに延々と広がる台地もまた、フィードニアのものなのだ」
 そう目を細める王に、バルドゥルは頷いて答えた。
「はい、ようやく悲願が果たせましたな」
「嘗て滅亡寸前だった小国がこうなろうとは、あの頃は誰も信じてなどいなかったであろうな」
「私と王以外は、ですな」
 バルドゥルの言葉に、クルトは強く頷く。22年前のあの夜、長兄を殺し次兄を国外追放させ、王座を簒奪した。
 長兄はどこか人を惹きつける魅力のある男だったが、王としては愚かだった。次兄は優しく慈悲の心があったが政治に向く男ではなかった。クルトは二人が好きだったし、二人とも王の息子として生まれてさえいなければ、いや、せめて平穏な情勢の中での王であったなら、こんな末路を遂げるような男では無かっただろう。それでも彼は兄を殺したし、国から追い出した。周囲の強国からこの国を守り生き抜くには、己が王にならねばならぬと確信したのだ。
 兄殺しの業を負う代わりに、あの日クルトは彼らに誓ったのだった。この国を外敵から脅かされることの無い強国とすることを。千年続く大国としてみせると。
「それでも思っていたよりずっと早く実現することが出来たな。ジェドがいなければ、俺の代で成し得たかどうかは分からん」
「そうですね。ジェド殿の功を労い領地をお与えになってはいかがでしょうか」
 バルドゥルの提言に、クルトはくくく、と笑った。
「それならばもう、ジェドが帰ってきたその日に言ってやったぞ。褒美に領地を好きなだけくれてやるとな」
「好きなだけとは、また豪気な」
「あ奴がどう答えるのか興味が沸いたのだ、己をどれだけの値打ちだと思っているのかな。一国に匹敵する領地を望んだとしても当然ではあると思ったのだが……」
 クルトは再びくくっと笑った。バルドゥルが興味深そうに顔を向ける。
「それで、ジェド殿は何と」
 先を促すバルドゥルに、クルトは勿体つけるようににやりと口の端を吊り上げる。
「領地などいらぬから、フィルラーンを一人くれと言いおったのだ」
「な―――なんと」
 ぽかんと口を開けるバルドゥルに、クルトは満足そうに頷いた。全く、あの男はいつも予想外なことをしてくれる。
「いや、それは。確かにフィルラーンは国の宝、ある意味領地以上の願いではありますが……」
「ユリアを還俗させて己のモノにしたいそうだぞ。幾ら国の宝とはいえ、フィルラーンで無くなればただの小娘に過ぎぬというのに、一国ほどの領地よりもそれを選ぶとはな、俺には解らん」
 クルトの言い様に、バルドゥルは咎めるように顔を顰めた。“フィルラーンで無くなればただの小娘”という言い草が、いかに王であろうと言葉が過ぎるとでも言いたいのだろう。幼少の頃から傍に仕えるこの男は、皆が恐れるこのフィードニアの王に、唯一遠慮なくものを言う男なのである。それにしても先程の驚きようからすれば、内心同じようなことを思ったに違い無いだろうに、己だけ常識人を装うとはずるい奴だ。
「しかし褒美にフィルラーンを所望するとは、なんとも不遜ですな。幾らジェド殿の働きが大きくとも、そのような願いを許していては国の根幹が揺らぐと騒ぐ者も多いでしょう」
 そう言い出しそうな者達の顔を思い浮かべているのだろう、辟易とした表情になるバルドゥルに、クルトはふん、と鼻を鳴らした。
「確かに本来なら口に出すことさえ不遜だな、これを聞いたら五月蝿く騒ぐ者も多いであろうよ。だがバルドゥルよ、ジェドの民衆からの人気は馬鹿に出来んぞ。あ奴の働きは国中の者が知る所だ、その者の願いを易々と撥ねつけては俺が国民の反感を買いかねん」
 それでは…と言うバルドゥルに、クルトは頷く。
「願い通りフィルラーンを還俗させることは許してやる。だが五月蝿い奴らを黙らせる為にも、このままジェドを総指揮官の座に据えておくことは出来ん。とはいえ今更奴を下官にすることも出来ぬし、国王軍から追い出し他の国に行かれても困る。まあ、褒美にならん程度の小さい領地でも与えて、そこの領主にでもさせるのが落とし所であろうよ」
「成る程」
 頷き納得して見せる一方で、バルドゥルは意地の悪い笑みを作る。
「つまりそういう口実で、すんなりとジェド殿から権力を奪うことが出来ると」
 クルトの真意など解っているとでも言いたげなこの忠臣に、彼は苦笑する。
「まあ、そういう訳だな。ティヴァナを下し、このハイルド東の地全土がフィードニアの物になった以上、最早ジェドのような特出した力は危険でしかない。力もあり人望もある。この国を己の手にと万が一奴が望めば、それを成すのはそう難しい事ではないだろう」
 無論ジェドの奴が権力に対して無欲なのは分かっている。そうでなければ、幾ら良い働きをする男だったとしても、手に負えぬと思った時点で追い出している。
 だがたとえ本人にその気が無くとも、いつ誰にどう唆されるかなど分かったものではない。故に出来るだけ早く、何か理由を付けて王都から追い出したかったというのが本音だ。好きなだけ領地をくれてやると言ったのも方便に過ぎない。
「しかしその為にフィルラーンを失うのは少々痛いですな。特にユリア様はただフィルラーンであるだけでは無く、戦女神として名を馳せておられる方ですから」
「構わん、戦女神も戦いが終わってしまえば無用のものだ、ナシス一人居れば用は成す。それに国が幾つも散らばっている中ではフィルラーンも貴重だったが、東の地全土で見れば常に幾人かのフィルラーンが生まれている。これからは不在で困るということも無くなるだろう」
 そもそもフィルラーンの権威が高すぎるのも、クルトは好まなかった。特に信仰の強い国ではその傾向が顕著に現れるようだ。信仰が篤いのが悪いとは思わぬが、地位が高すぎるが故に政治にまで口を出してくるフィルラーンもいると聞く。そこまで彼らが増長するのは、信仰に加えその存在が希少価値であるというのが大きいだろう。
 フィルラーンが不在だと、民が不安を覚え国全体に影が差す。一人もフィルラーンが居ない国の惨めさというものは、クルトも散々身に沁みているが、象徴はあくまでも象徴のみであればいい。出過ぎる存在は目障りだ。
 ユリアもまた、クルトの目には少々出過ぎた存在になってきていたが、それでもフィードニアの役に立っていたから目を瞑っていたのだ。戦いが終わった今になっては、その高すぎる名声は邪魔なものになりかねない。
 つまりはやっかいになりかけていた存在を、二人同時に排除できる名目が出来たということだ。ジェドの申し出はこちらにとって都合の良いことだらけである。まあ、“戦女神”に少々感化されているバルドゥルには、そこまでの本音は口に出来ぬが。
 クルトは二つの杯に酒を注ぐと、一つをバルドゥルに渡した。彼は恭しくそれを受け取ると、口に運ぶ。この男とこうして共に酒を呑むのは、王となってから初めてのことだ。
 クルトは杯を呷りながら、ふっと笑みを漏らした。どうかされましたか、と聞くバルドゥルに、彼は何でもないと答えた。
 二人を円満に排除することが出来て一番良いことは、これで彼らをこの手で始末せずに済んだことだと、しみじみと思ったのだ。不器用で捻くれていて、だが真っ直ぐな二人をクルトは気に入っていた。それでも国の為ならば躊躇無く切り捨てることが己には出来る。出来るが、やはりそれは楽しいことではない。血塗られた道ではあっても、塗り重ねられるものは少しでも少ない方が良いではないか。
 今日の酒は実に清々しい酒だ。こんな気持ちになるのはいつ以来だろうかと考え、やはり王になってから初めてのことだろうかと彼は思った。







「そうですか、もう二人は城を出たのですね……」
 メイベルがもたらした報告に、ナシスは祝福と共に、一抹の寂しさを感じた。
 勿論これは喜ばしいことなのだ、ということは重々解っている。ユリアを失えばジェドは再び孤独の獣になるだろう。今やっと彼は、憎しみを鞘に封じられたケヴェル神のように、心の安寧を得ることとなったのだ。二人が結ばれることをナシスはずっと望んでいた。それがついに叶ったのだ。
 そう思ってはいても、それでも二人の友が同時に傍から離れていってしまうことを寂しく思ってしまう。
 思えば幼い頃から別離ばかりを繰り返す日々だった。家族とも、友達とも、フィルラーンとなった日に別れることとなった。誰も彼もがナシスの前に跪き、親しき者を得られることもなかった。ナシスにとっては、やっと出来た友だったのだ。
 身分を捨て城を出た二人と再び会うことは、きっと難しいだろう。これが今生の別れとなるかもしれない。それを思うとついつい心に穴が開くような寂しさを覚えてしまう。尤も、ジェドの方はとっくにナシスのことを友だなどとは思っていないだろうが。
 メイベルにばれぬようにそっと溜息を吐くと、ナシスは気を取り直して彼女に向き合った。
「……貴女も、そろそろここを出る頃合ですね」
 フィルラーンの世話役は未婚の貴族女性が務めることになっている。世話役として名に箔が付くこともあり、辞した後は求婚者が引く手数多であるらしい。ナシスには言わぬが、彼女も既にそういう話が幾つも来ているだろう。
 彼女がいなくなれば更に寂しくなるが、己の我侭の為にこれ以上ここに繋ぎ止めておく訳にもいかない。そう思っての問いかけだったが、メイベルは驚いたように少しばかり目を見開いた。
「何を仰られているのです、私はここを辞する気などありません。一生ナシス様のお傍にお仕えする覚悟でおります」
 きっぱりと言うメイベルに、逆にナシスの方が驚いてしまう。
「それはいけません、貴女にはしかるべき所へ嫁ぎ幸せになって貰わなくては。私のことは心配しなくとも大丈夫ですよ、今までにも何度か世話役が変わっていますから、別れには慣れています」
「お言葉ですが、世話役は一生の仕事だと私は思っております。花嫁修業では無いのですから、数年勤めて辞するなど、近年のそのように無責任な風潮を私は好ましく思いません」
 生真面目なメイベルらしい思考ではあったが、その言葉を鵜呑みにするわけにもいかない。
「ですが、メイベル……」
「それに何が幸せかなど、人によるのではないでしょうか。私にとってはここで、ナシス様のお傍に居ることこそが幸せなのです。顔も知らぬ男性の元へ嫁ぐことではありません」
「けれど、それでは子を産み育てるという普通の女性が得る幸せを放棄することになりますよ。いずれそのことを後悔する時が来るかもしれません」
「後悔など致しません」
 珍しく声を荒げたメイベルの瞳に、僅かに熱を感じナシスは首を横に振る。
「……今はそう思うだけです。私の傍に居ても、貴女はいつか虚しさを感じる筈です」
 女性としての幸せを、ナシスには何一つ彼女に与えてあげられることが出来ないのだから。
「良いのです。私はナシス様のお傍にいること以外、何一つ望んではおりません。それで良いのです、それだけで満足なのです」
 躊躇いがちに、メイベルがナシスの手をそっと取った。
「だからずっと、貴方のお傍に居させて下さい……」
掌から伝わる温もりが心地好くて、その手を離すことが出来ない。
 ――――いいのだろうか。
 彼女を己の人生に巻き込んで、本当に良いのだろうか。
 拒絶する方がメイベルの為だと解っているのに、ナシスにはもうそれ以上彼女を突き放すことが出来なかった。この掌は、ずっとナシスが求めていたものなのだ。
「――――聡明だとばかり思っていましたが、貴女も案外愚かですね……」
 零れるようなその言葉に、メイベルは珍しくクスリと微笑んだ。
「愛する人を前に聡明で居られる者など、この世に一人も居りはしませんよ」
 そうかもしれない。私もその愚かな一人なのだと、繋いだ手を眺めながらナシスは思った。


「そういえば、ジェド様が酒を置いて行かれました」
 メイベルが迷惑そうに眉根を寄せる。
「酒を?」
 ナシスの部屋にある、神に捧げる為の聖酒を勝手に飲んでしまうことはよくあったが、ジェドが置いていくなんて珍しい。今まで飲んでしまった分のお返しということだろうか。
「預かっていてくれと仰っていました。一体何なのでしょうか」
「私にくれるという事ではなく、預かっていてくれと言ったのですか、彼が」
「はい」
 頷くメイベルに、ナシスは驚く。それはつまり、その酒を飲みにここへまたやってくると、そういうことなのではないだろうか。
 総指揮官の任を解かれ、ましてや国王軍の兵士でも無くなったジェドがフィルラーンの塔へ入ることなど、通常で考えれば難しいだろう。だが彼ならそんな事はお構い無しに、ぶらりとここまでやって来そうだ。
「私を、許してくれたということなのか……」
 知らず口がほころぶ。そんなナシスを見て、メイベルが怪訝そうに首を傾げた。


















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