180: 最愛の人





 ジェドだ。本当に、ジェドが生きていたんだ。
 信じようとしてはいたが、本当は怖くて堪らなかった。もう生きてはいないのだと、二度と会えないのではないかと、何度打ち消しても不安が心を締め付けた。けど、生きていたんだ。今ジェドが、目の前にいる。
「ジェド――――ジェド……!」
「ああ、何だ」
 名を呼べば答えてくれる。些細なことが嬉しくて、涙が溢れ出た。そんなユリアを、ジェドは不思議そうに見下ろす。何故泣いているのか分からない、そんな表情だった。
「こりゃあ驚いたなぁ。“ナナシ”が本当にあんたらが探してた総指揮官様だったってことか?」
 目を丸くするハンスにフランクが頷いた。
「そうだ、この方がフィードニア国王軍の総指揮官であるジェド殿だ。無事生きておられたとは……ユリア様、本当に良かったです」
 同じく少しだけ涙ぐんでいるフランクに、ユリアは頷き返した。
「でもどうして、数刻は前に村を出たと聞いたのに」
 聞きたいことも言いたいことも山ほどあったが、すぐには出てこない。まず口から出たのはその疑問だった。
「ああ、途中で見つけたグルの足跡が、倒し終えたグルのものと違っていたからな。そいつを探していたら、お前の声が聞こえた気がした。幻聴かとも思ったが―――本物だったな」
 ジェドは目を細めると、再びユリアの頬に触れ、涙を拭う。声が届いていたのだ。きっとそれはほんの囁かなものだったであろうが、それでも戻ってきてくれたのだ。やっと会えた。やっと伝えられる、私の想いを―――。
「それにしてもその格好は何だ、フィルラーンとは思えん酷い有り様だな。お前こそ、こんな所で何をやっているんだ。何故こんな山奥に居る?」
「何故?」
 不可解そうに言うジェドに、思わず我が耳を疑った。
「そんなの、お前を探しに来たに決まっているではないか」
 それ以外に何の理由があるというんだ。山菜取りに来たとでも思っているのか? こんな危険を冒してまで? そんな馬鹿な。
「俺を探しに……何だ、戦況が悪いのか? フィードニアが優勢だと聞いていたのだがな」
 だらしない奴らだな、と呟くジェドに、ユリアは眩暈を覚えた。何を言っているのだろう、この男は、何を考えているのだろう。
「違う、軍の勝敗なんか関係ない、お前を心配して探していたのではないか。私だけではない、フィードニアの皆が怪我を負って姿を消したお前のことを、どれだけ案じていたか―――。どうして生きていると、たったそれだけでもいいから連絡を寄越さなかったんだ、ジェド」
 責めるユリアに、ジェドは益々不可解といったふうに眉を顰める。
「フィードニア軍が優勢ならば、俺が不在でも心配することなど無いだろう。それに死にかけの戦えぬ者の生死など知らせたところで、何の役に立つというんだ」
「役に……立つとか、立たないとか、そんな問題ではない」
「では何だ、俺がティヴァナに捕らえられていないか懸念していたのか。確かに総指揮官であるこの俺が人質となれば厄介ではあるな。ならば死んでいた方がマシだと、そういう心配か」
「……本気で、そう言っているのか?」
 何故、どうしてそういう発想になるんだ? どうして皆の心配がこの男には伝わらないんだ? もどかしさに焦れていると、今まで黙っていたフランクが口を挟んだ。
「あの、失礼を承知で申し上げますが、その言い方は無いのではないしょうか、ジェド殿。ユリア様がこの一年もの間、あなたの事をどれだけ心配し、どれだけ必死に方々を探し回ったと思うのですか」
 喰って掛かるフランクに、ジェドは今その存在に気付いたといった風に片眉を上げる。
「何を言っているんだ。こいつが俺の心配なんぞする訳が無いだろう、俺を殺したいと思っている程なのだからな。ああ、お前のその手で殺したいのだったか。随分待たせた、悪かったな」
 嫌味を言っている風でもなく、さらりとそう言ってのける。未だにこの男は、私がジェドの死を望んでいると、そう思っているのか。
「馬鹿じゃないのか……」
 吐き出すように、ユリアは言った。
「どうして、お前はそうなんだ」
 今解った。この男は、本気でそう思っているのだ。己の生死など誰一人として案ずる者はいないと、フィードニア総指揮官という肩書き以外に己を必要とする存在などいないと、そう本気で信じているのだ。
 ジェドはやはり、誰のことも信用してはいなかった。動けぬ体で居所を知られれば、襲われても抵抗が出来ない。だから誰にも己の生死を知らせなかったし、ハンス達に名乗りさえしなかったのだ。
「お前を知る者がいない所で、誰にも知られぬようにたった独りで傷を癒して――――何故、お前は、皆を信用しないんだ」
 悔しくて、腹が立って堪らなかった。ユリアは拳を握り締めると、ジェドの胸に叩き付けた。苦い涙が溢れてくる。
「フィードニアの仲間達を、手を差し伸べてくれたハンス達を、そしてこの私を、どうしてお前は信用しないんだ」
「ユリア、おい、何を言っているんだ」
 幾分困ったような顔で、ジェドは叩き続けるユリアの拳を黙って受け止める。何故ユリアが怒っているのかさえ、この男は分かっていないのだ。
 ――――孤独だ。この男の瞳の奥には空虚しかない。
 今まで、ジェドは独りでいることが好きなのだと思っていた。リョカの村でも、王城にいても、いつも独りで居たジェドのことを、ただそんな風にしか見ていなかった。
 だが違うのだ。この男は、ずっと孤独だったのだ。ずっとたった独りで生きてきたのだ。誰一人信用することなく、誰からも愛を与えられることが無く。
 ああ――――どうして私は、彼の孤独に気付くことが出来なかったのだろう。理解することが出来なかったのだろう。自分の気持ちで精一杯になっていた、私は馬鹿だ。馬鹿なのは私の方だ。
「皆、お前が好きなんだよ、ジェド。役に立つとか、強いからだとか、そういうことではなく。ただお前の事が好きなんだ」
「は、何の戯言だ、それは」
 鼻で笑うと、ジェドの目は少し冷たくなった。心を閉ざし、ユリアの言葉を撥ねつけようとする。この目に怖気づいて、いつもそれ以上踏み込まぬようにしてきたが、それがいけなかったのだと、今なら解る。どれだけ拒絶されようと、信じて貰わなくてはならないのだ。これだけは。
「私だってそうだ、ジェド。私もお前が好きなんだ。いや、好きだけでは足りない。もっと深く、愛しているんだ、お前を」
 ジェドは一瞬息を止める。
「――――嘘を、つくな」
「嘘ではない」
 顔を逸らそうとするジェドの腕を、ユリアはぎゅっと掴んだ。
「私を見ろ、ジェド。こんな泥まみれで、腕は擦り傷だらけで、体中は痛いし服も髪もこんなにぼろぼろだ。こんな有り様になってまで、どうして私がお前を追ってここまで来たと思うんだ。愛しているから以外に、他にどんな理由があるというんだ。言ってみろ、ジェド……!」
「ユリア――――……」
 戸惑うように、ジェドはユリアの擦り傷だらけの腕に触れようとしたが、けれど思い直したように引っ込めた。
「――だが、お前は俺を……」
 その先の言葉を打ち消すように、ユリアは首を横に振る。
「お前を嫌ってなんかいない、憎んでもいない、ただ素直になれなかっただけなんだ。子供の頃からずっと、お前だけを愛してきた。お前が信じるまで何度だって言ってやるぞ。お前が好きだ、愛している。愛しているんだ」
「お前が……俺を……?」
 迷うように、ジェドの瞳が揺れる。彼女の真意を測ろうとするように、ユリアを見詰めている。
 ユリアはその背に手を回すと、彼の身体をぎゅっと抱きしめた。
「もう二度と、皆と離れた所で、独りで傷を癒したりするな。お前には私がいる、お前のことは、私が守ってやる。だからもう、独りになるな……」
 胸に頬を押し付けると、ジェドの心臓の音が聞こえた。ユリアのそれと同じくらい、鼓動が早い。
「……お前が、俺を守るって……?」
 くく、と笑う声がした。
 ジェドの手が、ユリアの頭をくしゃりと撫でる。
「は……それは、頼もしいな………」
 顔を上げると、穏やかな表情をしたジェドがユリアを見下ろしていた。
 こんな風に笑うジェドは初めてだ。そう思い、だが直ぐにそれを打ち消した。いいや、違う。初めてではない。
 それはずっと遠い昔、まだ幼かったあの頃に、ユリアに向けられていた笑顔と全く同じものだった。












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