177: 山道






 山奥の集落へ向かうのは、ハンスとユリア、それに護衛のフランクの三人だけで行くことになった。初めはダーナも付いて行くと主張したが、ユリアだけでも足手纏いだろうに、山に不慣れな者が二人も付いて行っては流石にハンスに迷惑だろうということで留守番をすることになったのだ。
 それにユリアがハンスの村へ向かったことを、城に報告する者も必要だった。城には既にユリアが戻ることを知らせているのだ、ここで皆が消息を絶ってしまっては、彼女達まで行方不明扱いになりかねない。そう説得すると、ダーナはしぶしぶ納得した。
「くれぐれもお気をつけ下さいませ。馬も通れないような山中を行くのですから、きっととても険しい道なのですわ。それにグルも出るようですし……」
「グルといってもそう多くいる訳では無いし、遭遇しないよう気をつけるとハンスが言ってくれている。それにフランクも付いてきてくれるし、大丈夫だよダーナ」
 フランクは戦場でも度々護衛としてユリアの傍に付いてくれていた男で、気心も知れており心強い相手だ。だがユリアも、言葉通りに気楽に考えている訳ではなかった。厳しい道中になることはハンスの口ぶりからも分かることだ。だからこそユリアの我侭にダーナを巻き込むことは出来ない。
 出発は三日後、ハンスの行商の用事が終わるのを待ってからとなった。ユリアはその間に動き易い衣服を調達し、馬を借り受けた。途中までしか馬は乗れぬらしいが、それでも無いよりは随分楽になるだろうとのハンスの助言に従ったのだ。
 出発の日、ユリアは用意しておいた服に着替える。ズボンに麻で出来たチュニックを着て、ブーツを履いた。髪は邪魔にならぬように首の後ろでひとつに縛ってある。これらもまたハンスの助言によるものだが、ダーナは「まあ、まるで男装の麗人ですわね」と何やら喜んでいた。
 ハンスは革細工を売った金で購入した、大量の布地や糸を籠に詰めて馬の背に括りつける。馬を下りたら背負うことになるのに大丈夫なのか聞くと、問題無いとけろりと答えた。
「こんくらい、いつも背負ってますんで。農具を買った時なんかは、もっと重くなりますし、寧ろ軽いくらいです」
 大きな体躯は伊達では無いようである。

 ダーナと村人達に見送られ、ユリア達は出発した。最初の山は比較的なだらかで、道もそれなりに整っていたので馬で越えることが出来たが、二つ目の山に差し掛かった時には下りることになった。
「本当ならもう少し先まで馬で行けるんですけども、ここら辺で馬を放しておけば、草が豊富なのはこの辺りだけだから逃げる心配もねえし、大きな獣もよっぽど出ねえから都合がいいんです」
 万が一獣が出たとしても、木に繋がず放しておけば自力で逃れられるという訳だ。成る程と納得し、ユリアは馬から下りる。フランクが鞍を取り外してやると、馬は逃げるでもなくその場で草を食み始めた。
 その日はユリア達もそこで休むことになった。フランクがユリアの為に小さなテントを用意してくれていて、彼女はその中で眠ることが出来た。二人の男は焚火の番をしながら、交代でその場で寝ているようだ。
 翌日からは徒歩での移動である。暫くは容易な道だったが、途中からユリアの背丈の半分ほどの岩をよじ登ったり、行く手を遮る木を潜り抜けたりすることが多くなった。成る程、これでは確かに馬での移動は無理だろう。だがそれでもこれくらいの悪路ならばなんとかなる。
 そう自信を持ち始めた自分が甘かったと思い知るのは、二つ目の山を越えた四日目の事だった。
 吊り橋の向こう側に広がる切り立った崖に、頼りなさげにゆれる縄梯子を見たとき、ユリアは思わず息を飲んだ。吊り橋の終着点には大きな天幕が張れるくらいの平地はあるが、そこから先に続く道らしきものは見当たらない。
「もしかして……これを登るのか…?」
 下に石を付け一応固定はしてあるが、所詮縄を編んだだけの梯子だ。谷底から吹き上げる風に、ゆらゆらと揺れている。ここから頂上まで8ヘルド(およそ10メートル)はありそうだ。崖下まで合わせると、もうどれ程の高さなのか考えたくも無い。否定してくれたらどんなに良いかと思ったが、願いも空しくハンスはあっさりと頷いた。
「ちょっとぼろっちい梯子ですが大丈夫です。俺みたいなモンが重い荷物を背負って登っても、今まで一回も切れたことは無えですから」
 今まで切れたことが無くとも、今日がその日だったらどうするのだ。内心そう思いはしたものの、泣き言は口にしないと誓った以上ぐっと我慢する。
「それでも皆同時に登るのは危険だろうな。ハンス、お前は先に一人で登ってくれ。俺とユリア様は後で登る」
 フランクがそう言い、ハンスは「そうだな」と頷いた。
「ユリア様は私と一緒に登りましょう。私の荷物はハンスの物より軽いですし、二人で登ってもハンス一人と左程変わらないと思います」
「あ…ああ、そうだな」
 一緒に登ってくれるからといって恐怖が和らぐ訳ではないが、それでも一人で登らされるよりは随分マシだ。フランクが一緒に来てくれて本当に良かった。一人感謝の気持ちを噛み締めているユリアを尻目に、ハンスは巨体に似合わず身軽にするすると縄梯子を登って行く。感心しているうちに、あっという間に崖の上に辿り着いてしまった。
「では我々も行きましょうか。ユリア様、先に登ってください。もし足が滑ったとしても私が必ず受け止めますから、安心して登ってください」
「ああ…ありがとう」
 意を決してユリアは縄梯子を掴んだ。一段目を踏み込むと、梯子がゆらりと揺れる。ぞっとしたが、それでも登らぬ訳にはいかぬのだ。下を見ないようにして、一歩一歩震える足を上げて行く。
 8ヘルドの高さは想像以上に恐怖だった。いや、梯子の長さは8ヘルドでも、出発地点の僅かなスペースの平地など、上に登って行くにつれ視界に入らなくなってくる。それよりも谷底までの深さの方を意識してしまうのだ。途中何度も足が止まり、その度にフランクとハンスに激励され、必死の思いで登っていった。
 頂上に辿り着き、ハンスに引き上げられた時、震えで暫く立つ事が出来なかった。服がぐっしょりと濡れるほど冷や汗が出て、顔は真っ青になっている。
「ちょっと早いけども、今日はこの辺で休みましょうか。もうちょこっと行った所に、雨風が避けられる洞があるんで」
 ハンスの提案で、その日は早めの野営準備に入ることになった。立つ事が出来ないユリアをフランクが背負ってくれる。我ながら情けない限りだが、素直に甘えることにした。

 洞は思っていたよりも大きかった。ハンスだと少し屈むが、ユリアなら普通に立てる高さがあり、奥行きも三人が休むには十分な位にある。
「やっぱし女の人にはちょびっと険しい道ですわなあ。こんだけ苦労して村へ行って、“ナナシ”が総指揮官様で無かったらなんだか申し訳ねえです……」
 ハンスが小さな箱から火種を取り出し、薪に火を移しながらそう眉を下げた。
「いや、気にしなくていい。最初からジェドじゃないかもしれないというのは承知の上だし、無理を言って迷惑を掛けているのはこっちなのだからな」
「迷惑なんかじゃねえですよ。フィルラーンが村に来てくれれば、皆も喜ぶだろうし」
「そう言って貰えるとありがたいが」
 確かに容易な道ではない。苦心して行ったものの“ナナシ”がジェドでは無かったということも十分ありえる。いや、寧ろその方が可能性としては高い位だ。だが不思議と、それでもその男はジェドに違いないとユリアは思っていた。確信していると言ってもいい。先読みの力がある訳でもないのに、可笑しな話ではあるが。
 けれどその確信がユリアの足を動かしている。あの崖も、ジェドがこの先に待っているのだと思わなければ、きっと登りきることは出来なかっただろう。そしてこの先更に厳しい道が続いていたとしても、引き返すつもりはないのだ。
「ところでハンス、その男はフィードニアの戦況について、何か聞いてくることは無かったのか?」
 干し肉を火で炙りながら、フランクが問う。ハンスはうーんと首を傾げた。
「どうだったかなあ。そもそも俺らがそういうのにあんまし興味ねえから、情報を進んで仕入れることもねえからな。俺たちにとってはトルバ国がフィードニアになろうと、他の国になろうと関係ねえからな。関心があるのはどんな奴が領主になって、税がどうなるかくらいだ」
 ぼりぼりと頭を掻きながらそう言い、そして思いついたように「あ」と声を上げた。
「いや、そういえば前に麓に下りて戻った時、聞かれたかもしれねえ。この近くでやってる戦いはどうなってる、とかそんな風だったかな。ええと、確かフィードニアが優勢みたいだと答えた気がする」
「それを聞いてその男は喜んでいたか? それとも悔しがっていたのか?」
 フランクが幾分身を乗り出して聞いた。ジェドならその情報に安堵する筈、という意図なのだろう。だがハンスは再び首を傾げる。
「そうだなあ。別に喜んでも悔しがってもいなかったなあ。ただ知識として頭に入れただけって感じだったな。だから俺らもやっぱり“ナナシ”はあの戦いで負傷した兵士じゃ無いだろうって言ってたんだ」
「そうなのか……」
 フランクは少し気遣わしげな視線をユリアに寄越した。彼女もまた不安で胸中がざわついたが、それはフランクの気遣いとは別の理由である。
 もしその男がジェドだった場合、その報告をどう受け止めたのだろう。ジェドがいなくともフィードニアはティヴァナ相手に立派に戦えているのだ、もう自分はこの軍に必要ないと考えはしないだろうか。
 嫌な予感が頭を過ぎり、ユリアは慌ててそれを打ち消す。いいや、ジェドは戦いが終わったら、戻ると言っていたではないか。私の元に、戻ってくると。
 だがそう考えても不安は消えない。ジェドがいなくとも戦って行ける者達の元に、それでもなお彼は戻ってきてくれるだろうか。戻るつもりが無いから、一年もの間連絡を寄越さなかったのではないか。
 国王軍総指揮官の座に執着するような男ではない。ジェドの性格からすると、必要性が無ければフィードニアの者達全てをあっさりと切り捨ててしまっても、おかしくは無いような気がするのだ。

 ―――早く村へ行ってジェドを捕まえなくては。
 一晩ここで休むことさえ焦燥感を覚え、気が逸った。ここで彼を見失ったら、二度と会えないような気がした。


















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