176: ナナシ





 三十代後半くらいの年齢と思われる、目が小さく鼻の大きな男が、ぼさぼさの頭をユリアの前に下げた。ラオ程ではないが筋肉質で大きな体をした男だ。元は白かったであろうシャツは既に茶色くなっておりよれよれだが、皮をなめしたベストは上等である。それもその筈、革製品は彼の村の特産品であるらしかった。
「彼らは普段は山奥で自給自足の生活をしているのですが、作り貯めた革細工を持って年に数回だけ麓に下りてくるのです」
 村長にそう紹介され、男は「どうも、ハンスと言います」と再び頭を下げる。
「あの、俺ら山奥に引っ込んでるせいで世の中の出来事には疎いもんで、フィードニア国王軍の総指揮官様が行方不明になっているなんて、ここの村長に初めて聞きまして」
 ハンスは大きな図体でもじもじと話す。どうやらフィルラーンを初めて前にして、緊張しているようだった。
「行商に来ているところを、時間を割いてもらって済まない。それで、早速だがその一年前に助けたという男の話を聞きたいのだが」
「あ、はい。けど村長には言いましたが、俺が助けた男が本当にその総指揮官様なのかどうかは分かんねえです。っていうか、そんな大層な人物には見えなかったなあ。最初の頃なんか酷く村の皆を警戒して、傷の手当するのでさえ嫌がるくらいで。まあ、酷い怪我で殆ど動けねえから、皆で力づくで押さえつけて手当てしたんだけども」
 まるで怪我を負った獣を手当てするみたいだったと、ハンスは笑いながら言う。
「だからひょっとしたら盗賊かなんかなんじゃねえかって皆で話してたんだけども、まあ、うちの村のモンは人が良い奴らばっかだもんで、怪我人を放っておく訳にもいかないって、世話することに決めたんです」
 初めは村人が出す食事にも手をつけようとしなかったらしい。ただでさえ死にかけている身体である、このままでは助かる命も助からないと、警戒を解く為に随分苦心したようだった。
「まず、その男の前で先に飯を食ってみせるんです。この皿に毒は入ってねえぞってことを知らせる為です。そしたら納得したのか、少しずつ食べるようになりまして。まあ、今までに何度も怪我した獣を助けたことがありましたから、同じ要領ですわ」
 はは、と人が良さそうに笑ったハンスは、ふと心配げに眉を落とした。
「こんな獣扱いして、本当にあの男が総指揮官様だったらまずいですかね」
 その言葉にユリアは首を横に振る。
「気にしなくて良い。もしその男が本当にジェドだったとしても、恩人にそんな態度を取る方が悪いのだ」
 ユリアの許しを得て、ハンスはほっとしたように胸を撫で下ろした。
「それで、その男の怪我は治ったんだったな?」
「はい、本当に酷い怪我でしたんで、起き上がれるようになるまでに随分かかりましたが。更に歩けるようになるまでにもまた随分掛かって、けどそっから先は早かったですね。いつの間にか兎やら小動物が狩れるようになって、終いにはあのグルを倒すまでになって、皆驚いたのなんの」
 目を丸くして見せるハンスに、傍らに居るダーナが「まあ、良かったですわ」と相槌を打つ。
 吟遊詩人の話す物語を聞いているかのように、ダーナは村人とその男のやりとりを心配したり、安心したりしている。この話の人物がジェドかもしれないということを、果たして覚えているだろうか。
「盗賊かもしれない男が、そんなに強い男だと分かって皆恐ろしくはならなかったのか?」
「ああ、はい。それが、自分の体が動くようになるにつれ警戒を解いてきたのか、“ナナシ”の奴も少しずつ態度が柔らかくなってきまして。あ、その男を皆そう呼んでるんです。名前も出実も一切喋らねえもんだから、適当にそう呼んでたら定着しちまって」
 ぼりぼりと頭をかきながら、幾分申し訳なさそうに言う。名無し、とはまた随分安直な名前を付けたものだ。
「グルは凶暴で危険だけども、毛皮と肉は高く売れるんです。世話になった礼に、村の裏山に巣を作ってるグルを退治してくれるって言ってます。まあ盗賊の割には律儀な奴ですわなあ」
 いつの間にか盗賊というのが確定になっている。確かに名前も名乗らず警戒心も露わにしている男など、後ろ暗いことがある以外に考えられないだろう。
「ダーナ、どう思う? その“ナナシ”とやらはジェドだと思うか?」
「そうですわねえ……」
 ダーナは考えるように首を傾げた。
「その方がジェド様だとしたら、何故名前を名乗られないのかが不思議ですわね。ご自分が生きていることを、何故皆に知らせようとしないのでしょうか」
 ユリアは同意するように頷く。そうなのだ、それが腑に落ちないのだ。いくら村の者が年に数回しか麓へ下りないのだとしても、名乗りさえすれば知らせに下りてくれたかもしれないし、それが難しくともついでの時に知らせてくれただろう。そうすれば少なくとももっと早くにジェドの生存を知ることが出来たのだ。
「―――やっぱり、その男はジェドではないのだろうか」
 ジェドが名を隠す必要性が分からない。別人で、ハンスの言うように盗賊か何かなのかもしれない。だが、話に聞くその男は、確かにジェドらしい気もする。
「ところで、その“ナナシ”様の容姿はどのような感じなのでしょうか? 金の髪だったりすれば、もうその時点で違う方ですわ」
「ああ、そうか」
 肝心なことを聞き忘れていた。まずそこを聞くべきだったのだ。ハンスの方を見ると、彼は彼で「肝心なことを言い忘れていた」というように目を瞬かせた。
「あ、ええと。髪は黒でえ……目付きはちょっと悪いけども結構な男前でえ。あ、目の色も黒でした。んで、あとは……背は俺より少しばかり小さいくらいで、体は俺より細っこいのに、何故か俺より力持ちでえ……」
 上げ連ねていく“ナナシ”男の特徴に、ダーナが手を叩いて喜びを表す。
「まあ、ジェド様の特徴によく似ておりますわ。ユリア様、やっぱりジェド様かもしれません」
 ユリアも頷いた。希望が更に膨らんでいく。黒髪で腕の立つ男など、別に珍しくもない特徴だ。期待しすぎてはいけないと自分に言い聞かせてみても、やはり喜びを止める事は出来なかった。黒髪で腕の立つ男は珍しくなくとも、グルを倒せる程の男はそう多くは無い筈だ。
 思えばジェドは人を寄せ付けないところがあった。いつも一人でいることを好んでいたように思う。他人を信用していないようなところもあった。そういう男が怪我をして動けないとき、知らない者達を警戒するのは必然な気もする。
「知らない者達―――――。いや、それだけではないのかもしれない」
 つぶやくユリアに、ダーナが首を傾げた。
「もしかしたら、フィードニアの者達でさえ信用していないのではないか。共に戦う仲間や、この」
 私さえも――――。
 続く言葉を飲み込むと、ユリアはハンスに向き直る。
「ハンス、お願いだ。私をその村へ連れて行っては貰えないだろうか」
「え、あ、あんたを……?」
 ユリアの言葉にハンスは目を丸くした。
「い、いや。けども村までは山を幾つか越えなくちゃなんねえし、馬も途中までしか行かれねえ。気軽にひょいっと行ける場所じゃ無えんです。あんたみたいな細っこい女の人じゃあ、ちょっと無理なんじゃねえかな……」
「大丈夫だ。こう見えて結構体力はあるんだ。厳しい道中だとしても構わない。弱音は一切言わず付いていくと誓う」
「いや……でも、頑張って山越えて行っても、“ナナシ”が本当にその総指揮官様なのか分かんねえし……」
「違っていても構わない。違うなら違うで、それを早く確かめたいんだ。ここでその“ナナシ”の正体をあれこれ想像しながら、その男が下山する気になるまで待っている方が苦痛なんだ」
「けど……」
 救いを求めるように辺りを見回すハンスに、今まで黙って後ろに控えていたユリアの護衛兵が前に出て頭を下げた。
「私からもお願いします。道中のユリア様のサポートは私がしますので、その村に案内して頂けませんか」
「私からも頼むよ、ハンス」
 村長も追従し頭を下げた。
 ユリアがずっとジェドを探し続けていたことを、フィードニアの兵士達も、村々の住人たちも知っている。少しでも希望があるなら、それに賭けたいと思うユリアの気持ちを、皆酌んでくれているのだ。
「いや、そんな俺なんかに皆頭を下げねえで下さいよ。わ、分かりました。案内しますんで」
 諦めたようにハンスが言い、ユリアは山奥の村へ向かう事になった。
















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