172: 救出





 ティヴァナの陣営へやって来てから数日が立ち、ユリアは焦りを感じていた。
 あれから戦況がどうなっているのか。自分がティヴァナに捕らえられたことによって、フィードニアに何か不利益なことでも生じてはいないか。それを知りたくとも、答えてくれる者はいないのだ。
 リュシアン王に再三面会を求めてはいるが、今のところそれは叶えられていなかった。今や敵同士となった立場だ、馴れ合いを避けているのかもしれない。
 ユリアが居る天幕は、ティヴァナの陣営の丁度真ん中に位置しているようだ。横にはリュシアン王の天幕があり、その二つを囲むように将校位にある兵士の天幕が、更にその外側には国王軍の一般兵士達や領兵軍らの天幕が散らばっている。
 今は兵士達の大半は戦場へ出ているが、かといって警備が手薄な訳でもない。天幕の入り口の前にはしっかりと兵士が二人立っているし、見張りもあちこちにいるようだ。戦いの為に張られた陣営とはいえ、収容人数が多く敷地も広い。リュシアン王がここに居ることを考えても、護衛の兵もそれなりに残っているだろう。どう考えても、ユリアが自力で逃げ出すことは無理だと判断せざるを得ない。
 おまけにこの天幕の中には一人の侍女が常にいて、ユリアの世話をしてくれていた。リュシアン王が出兵した時から、ユリアを攫う算段だったのだろう、世話役の女性をわざわざ戦場に同行させ、ユリアに付けてくれるのだからご丁寧なことである。お陰で不自由はしていないが、常に見張られているようでどうも落ち着かなかった。
「ユリア様、温かいお茶を入れました。どうぞお気を静められませ」
 そう言って淹れたてのハーブ茶を差し出されたが、そんなものを呑気に飲んでいる気分になど到底なれない。
「エカテリーネ、それよりもリュシアン王にお取次ぎを願えませんか。戦況を知りたいのです、出来れば逐一」
 エカテリーネとは、世話役の女性の名である。彼女は恭しく頷くと、見張りの兵に声を掛けユリアの言葉を伝えた。
 ユリアの天幕前には常に二人の兵士が立っており、王への取次ぎやその他諸々の用件を頼むと、大抵彼らが走ることになる。ならばいちいちエカテリーネを通さずとも。ユリアが直接見張りの兵士に頼めばいいような気がするのだが、それはならぬらしい。曰く『フィルラーンから直接お声を頂いて良いのは上級将校以上に限る』のだそうだ。全く面倒臭い事この上ない。ここに連れて来られてまだ十日も経っていないというのに、気安いフィードニアが既に懐かしく思えてしまう。
 以前ティヴァナに滞在していた時は、ダーナが傍に居たからよかったのだ。思えば数年前に王城に上がって以来、ダーナとこれ程の間離れていた事など無かった。ユリアがティヴァナに連れ去られ、さぞ気を揉んでいるだろうと思うといたたまれない気持ちになる。
 ユリアが溜息を一つ吐いた時、外が俄かに騒がしくなった。何事かとエカテリーネに問うと、彼女は頷き再び見張りの兵士に声を掛けた。
「どうやら、この陣営の後方にフィードニア兵が出現したようです」
「フィードニアが?」
 前方ではなくて、後方なのか。予想外なフィードニアの動きに、ユリアは首を捻った。
 このティヴァナの陣営は山峡の奥に広がる平地に敷かれている。ここの背後に回りこむということは、横にそびえる山を越えて来たということだ。夜陰であろうと、大軍で渡ればティヴァナが気付かぬ訳が無い。ならば小隊が幾つか渡ったくらいか。
「外の様子からすると、ここに残っている兵が出て迎え撃つのでしょうか」
「そのようですね。援軍を求める程の数ではないようですから」
「そうですか……」
 このティヴァナの陣営に残っている兵士達だけで撃退出来るということは、背後に回ったフィードニア兵は恐らく一個小隊程度に過ぎぬだろう。であるならば、この奇襲は本陣を叩くものではない、恐らく陽動だ。だとするのなら、目的は―――。
「……ではリュシアン王も私と面会している場合では無いでしょうね。仕方がありません、今回は諦めます」
 残念そうに溜息を一つ吐いてみせると、ユリアは先程エカテリーネが淹れてくれた茶を手に取った。そして既にぬるくなっていることを確認すると、わざとらしくならぬように手を滑らせる。
「ああ、大変。ラティを汚してしまったわ……」
 薄い染みが広がるラティを身体から外すと、エカテリーネが慌てて駆け寄ってくる。
「お怪我はありませんか、ユリア様。どこかに火傷などは……」
 本気で心配してくれるエカテリーネに少々申し訳なさを感じつつも、ユリアは顔を曇らせる。
「私は大丈夫です。けれどラティがこのようになってしまっては……」
 ラティはフィルラーンの権威の象徴だ。それを汚してしまい落ち込んでいる風を装うユリアに、彼女は気遣わしげに「大丈夫です」と言い放つ。
「すぐに洗えば、このハーブ茶はあとに染みが残ったりするようなことはありません。お待ち下さい、私が元通り綺麗にしてみせますから」
「そうなのですか。ありがとう、宜しく頼みます」
 ラティを受け取り天幕を辞するエカテリーネに、ユリアは心の中で詫びた。見張られているようで勝手に苦手意識を持っていたが、どうやら人を疑うことを知らぬ、実直で誠実な女性のようだ。もう少し別の出会い方をしていれば仲良くなれたかもしれないのに、残念でならない。
 だが何はともあれ、人払いは出来た。表に見張りの兵士が残ってはいるが、あの男ならどうとでもするだろう。ユリアは椅子に座り、その時を待った。
 後方に現れたフィードニアの小隊の目的は、ユリア救出に他ならぬだろう。この陣営を守るティヴァナ兵をここから引き離しておいて、その隙に内部に少数のフィードニア兵が潜入する手筈に違い無い。そしてその者はきっとラオだろうとユリアは予想している。
 こういう状況で一個小隊を寄越すなら、遊撃隊の役割を担っているラオの部隊か、フリーデルの諜報部隊になるだろう。だが今回のようにティヴァナの中に紛れ込むのならば、ティヴァナの内情に詳しい者を送り込む筈だ。ちなみにティヴァナに詳しいといった点ではクリユスも同じだが、今や弓騎馬隊大隊長の彼が戦時中に隊を離れるのは難しいだろう。故にここへ現れるのは、ラオに違いないのだ。
 エカテリーネにラティを持って行かせたのは、人払いもあるが、ユリアの居る天幕がここだと知らせる為でもある。あの男ならば、それに目ざとく気付くと確信を持っていた。
 その確信が正しかったと知るのは、人払いをしてからそう時間は掛からなかった。外から聞き覚えのある話し声が聞こえてきたのだ。それはラオのものでは無かったが、現在彼の隊に所属しているアレクの声だった。
「おい、そこのお前、後方に現れたフィードニア兵の討伐に加われってよ。見張りは俺達が仰せつかったから、早く行ってこいよ」
「そうなのか。だがおかしいな、俺は今日一日ここの見張りの筈なんだが……」
「さあな、現れたフィードニア兵が思いの他強かったんじゃねえのか。早く行かねえとグレッグ殿にどやされるぜ」
「ああ、そうだな。じゃあここは任せたぞ」
「了解、了解」
 そんなやりとりが聞こえた後、少し経ってからおもむろに天幕の戸布が捲られ、ティヴァナ兵の格好をしたアレクが覗きこんできた。
「やあユリア様。貴女の騎士が迎えに参りましたよ」
 そうにこやかに言うと、後ろに立っている兜を被った男に頭を殴られる。
「おい、くだらんことを言ってねえで早く中に入れ。ティヴァナ兵に見つかるだろうが」
「痛ってえな。なんだよ、折角のカッコイイ登場が台無しじゃねえかよ!」
 小声で怒鳴るという器用な事をやってのけるアレクの背を押し、兜の男も中へ入ってくる。
「待たせたなユリア、迎えに来たぜ」
 兜を脱ぎ捨てるラオに、ユリアは頷くと立ち上がった。
「ああ、待っていたぞ。ありがとうラオ、それにアレク」
「とんでもありません。貴女の為なら海の底だろうと切り立った崖の頂であろうと、このハーディロンの名にかけて……痛ってえ!」
 可哀想にアレクは再び頭を殴られ口を尖らせたが、ラオはそれには構わずユリアに荷袋を放って寄越した。中にはティヴァナ兵士の服が入っている。
「折角の再会だが、悠長に話している暇はねえ。俺達は外で見張りをしているから、急いでこれを着ろ。着たらすぐにここから逃げるぞ」
「ああ、分かった」
 返事を聞くより早く、ラオは再び兜を被り、アレクの首根っこを掴みながら外へ出て行く。ユリアは急いでティヴァナ兵の服に着替え、髪を括ると兜の中に押し込めた。












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