169: 捜索





 フィードニアの夜襲は功を奏した。両軍の戦いはそのまま夜が明け、そして再び沈むまでの間休むことなく続き、大打撃を与えられたティヴァナ軍は陣営を捨て、トルバの国境線までの撤退を余儀なくされた。
 フィードニアは残された陣営に拠点を移し、更に国境線を攻め立てた。ここでもやはりティヴァナにとってやっかいだったのはフィルラーンの少女の存在である。神の子、いや最早彼らにとって神そのものに等しく感じられる存在が、戦場のどこに突如として現れるか分からぬのだ、どうしても攻撃の手が緩んでしまうのは仕方の無いことだといえよう。
 万が一己の放った矢が女神を射抜いてしまったら、振るった剣の先に女神が居たら。そう思うと兵士達は自然消極的になり、更には否応無しに神の敵となってしまっている現状に畏怖を覚え、戦意を喪失する者が後を絶たなくなった。
「最早これまでだ。ここは一旦退き、態勢を立て直すぞ」
 テガンがそう決断したのは、ユリアが戦場に立つようになってからおよそ一月の後のことだった。


 ティヴァナ軍は撤退し、傘下であるベスカ国へ逃げ込んだ。フィードニアは今回の戦いに勝利すると共に、旧トルバの国境線を奪回することに成功したのだった。
「これ以上の追撃は無用だ、下手に追いかけてベスカへ侵入したら、援軍ではなく本軍を相手にしなくてはならなくなる。兵士達にもそろそろ休養が必要だろうしな」
 ハロルドがそう口にすると、マルクがそれに異を唱えた。
「しかし、今我が軍は勢いづいております。ティヴァナを叩くのならば、今が好機なのではないでしょうか」
「ああ、フィードニアが勢いづいているのは確かだ。だが勘違いをするな、ティヴァナが撤退したのは我々に打ち負かされたからではない。ユリア様を脅威に感じたから、ただそれだけなのだ」
「それは、そうかもしれませぬが。しかし……」
 尚も食い下がろうとするマルクを、ハロルドは手で制する。
「ここでこれ以上の追撃を仕掛ければ、フィードニアの約定破りを肯定するようなものだ。再びティヴァナが攻めてこない限りは、我々は動かぬ方がよい」
「確かに、その通りです。次にティヴァナが攻撃を仕掛けてくるまでに、我々も力を蓄え態勢を整えておいた方がいいでしょう」
 フリーデルもハロルドに賛同してみせたが、マルクはそれでも不満気な顔をした。
「けれど……次にティヴァナが仕掛けてきた時まで、ジェド殿の死を隠し通せるとは思いません。それが他国にまで知られれば、今はフィードニアの傘下にいるカベルやスリアナもティヴァナに寝返るやもしれません。そうしたらもう、約定破りがどっちかなど大した問題ではないのではありませんか」
「ジェドが死んだと決まったわけではない」
 ユリアは思わず口を挟んだ。ジェドが生きている可能性があると思っている者は、最早殆どいないのだろう。だがそれを受け入れることは、ユリアには出来なかった。
「やっとジェドが倒れたこの地へ戻ることが出来たのだ。私はこれから一人でもジェドを探す。済まないが、もしティヴァナを追撃することになったとしても、私は同行できない。それを承知した上で、追撃をするか否か判断してくれないか」
 ユリアにそうはっきりと言われ、マルクは黙った。恐らくユリアが今後も戦いに参加することを期待していたのだろう。女神の奇跡が無くともティヴァナやその傘下にある各国と戦っていけるとは、まだ思えぬようだ。
 そして議論を重ねた上、結局ハロルドの主張通り追撃を止め、この地に留まることとなったのだった。

 ユリアはその地で、日々ジェドを探して回った。フリーデルの諜報部隊の力も借りて、近隣の村や町を尋ね、更には森や渓谷等、人が入れる所は隅々まで探していった。だがどれだけ探しても、一向にジェドの行方は掴めず、日が経つにつれ焦りや不安は増していった。
 捜索に進展があったのは、ユリアがジェドを探し始めてからひと月程経った頃のことだ。それを進展と言っていいのかは分からないが、兎も角その報告はユリア達の元に齎《もたら》された。
「ジェドの馬が見つかった…?」
 諜報部隊のうちの一人が駆け戻り告げたその言葉は、皆の心を一瞬だけ沸き立たせたが、続きを聞くにつれ落胆へと変わっていった。
「ここから南西に1リュード(1.2キロ)程下がった森林の崖下に、ジェド殿が騎乗していたと見られる馬の躯を発見致しました。どうやら獣に喰い散らかされたあとらしく、また日にちも経っており損傷も激しく、最早馬とも判断が付かぬ死骸ではありましたが、背に乗せている馬具は確かにジェド殿の物でありました」
「崖の、下……」
 皆の顔から血の気が引いていく。ユリアも恐らく同じような顔色をしているに違い無い。いや、それ以上なのかもしれない。クリユスが気遣わしげにユリアの背を支えたが、彼女はそれに気付かぬ程に動揺していた。
「丁度その死骸の上方で、崖の一部分が崩れている痕跡がありました。状況からするに、崖の上から落ち死亡したものだと思われます」
「それで……ジェドは……」
 発する自分の声が、掠れていた。最悪の事態を想像すると、知りたくないとさえ思ったが、それでも聞かぬわけにはいかない。
「散乱していた死骸の中に人体らしきものは混じっておりませんでした。脇には川が流れておりましたので、恐らくジェド殿はそちらに落ちて流されたのではないかと……」
「では、ジェドはまだ見つかっていないんだな」
 遺体が見つかった訳ではないということに、幾らか安堵するユリアを前に、兵士は顔を曇らせる。
「はい、ですがそう楽観も出来ぬ状況です。崖はかなりの高さで川も急流でした。しかもそもそも深手を負われていた訳ですし、存命の可能性は極めて低いと思われます」
 存命の可能性は低い。それは皆の心に既に深く圧し掛かっていたことだが、あえて考えぬようにしてきたことだ。その事実を突きつけられ、ハロルドが渋い顔になる。
「では……我々も覚悟を決めておいた方がいいということだな」
「けど、遺体が無いのならば、まだ希望はある」
 ユリアの言葉に、だが頷く者はいなかった。
「まあ、少なくとも捜索の方角が絞れただけ前進だ、ご苦労だったな。今後は馬の躯から川の下流へ向けて捜索を進めてくれ」
「は」
 諜報部隊の兵士は、頷くとその場を辞した。
「ユリア様も、連日ジェド殿を探しておられたのだから、お疲れでしょう。川沿いの捜索は諜報部隊の連中に任せて、暫く休んで下さい」
「ああ…ありがとう」
 確かに今は遺体は見つかっていない。だが今後は遺体を捜す作業になるだろう。そう皆が思っているのが、ありありと分かった。
「ユリア様、大丈夫ですか」
 クリユスに声を掛けられ、やっと今まで自分の背を支えてくれていた男の存在に気付いた。クリユスは心配そうな眼差しをユリアに向ける。
「ああ、済まない。私は大丈夫だ」
「心配すんな、ジェド殿は生きてるさ」
 ラオがユリアの頭をぐしゃりと撫でると、何でもないことのように笑った。
「あの男が死ぬだって? 冗談としか思えんな。心配してやるだけ損ってもんだろ」
 呑気な口調のラオに、ユリアはふふ、と笑った。
「そうだな、その通りだ」
 二人の友人の存在に、胸がじわりと温かくなっていく。そうだ、絶望するのはジェドの生死が明らかになってからでも遅くは無い。今はただ、ジェドが生きて戻ることを信じ続けよう。
 暗い顔をしていては、兵士達にも心配を掛けてしまう。ユリアはラオのせいでくしゃくしゃになった髪を整えると、笑顔を作り天幕を出た。







 ティヴァナ軍は現在ベスカ国に駐在し、再びフィードニアを攻める機会を伺っている。総指揮官であるブノワや重臣達の多くはそこに留まり、方々の国へ物資や援軍の助力を求め奔走している。マルセルは王に状況を報告する為に、数人の部下を連れて一旦母国へ戻った。
「あのフィードニアの聖女が、戦場に」
 ティヴァナ国王であるリュシアンは、マルセルの報告を受け驚いたように目を見開くと、次にくくく、と笑い始めた。
「なんと無謀なことを……いや、しかし如何にもあの方のやりそうな事ではあるな」
 呑気に笑う主に、マルセルは顔を顰めた。
「笑い事ではありません。あのお方の出現で、我々ティヴァナ軍はいいように翻弄され撤退を余儀なくされたのです」
「その上、クリユスとラオも我らを裏切りフィードニア側に付く始末という訳か」
 溜息を吐いてみせるリュシアン王に、マルセルは頭を下げた。
「は……元下官として申し訳無い限りです。あの者達は必ずこの手で処刑してみせます故」
「お前がそこまで思い詰める必要は無いよ。あのフィードニアの聖女にはただフィルラーンというだけではない、不思議な魅力がある。彼女に心酔し祖国を裏切る者が出たとしても、左程驚きはしないな。まあラオに関しては、親友に付き合ったか、それとも英雄に心酔したか。そのどちらかだろうがね」
 それはマルセルも同意見だった。ラオはそもそもが傭兵のような気質を持っていた。国に仕えるというよりは、己の心のままに動くような男だ。前国王が存命の頃は王を慕っていたようだが、今はフィードニアの英雄に惚れ込んでいるのだろう。
「私にラオを惚れさせる技量が無かったのだから、それも仕方が無いことだな。責められるべきはこの私という訳だ」
「そのようなことはありません」
 自嘲的に言うリュシアン王に、マルセルは声を上げる。
「今までティヴァナ存続の危機を乗り越えてきたのは、紛れも無く貴方のお力なのです、リュシアン王―――いえ、フェルティス王」
「その名を呼ぶのはよせ、それは既に死んだ第二王子の名だ」
「しかし……いえ、そうですね。申し訳ありません」
 王城の中とはいえ誰が聞いているのか分からないのだ、今はまだ慎むべきだろう。だが今この国で苦悩し王の責務と戦っているのは、亡くなった第一王子のリュシアンではなく、紛れも無くこのフェルティス様だというのに、彼の名が後世に残ることは決して無いのだ。それを思うと苦いものを感じる。
 フィードニアを打ち破り、ティヴァナがこのハイルド大陸東方の地の覇国となった暁には、彼は己の名を取り戻すことが出来るのだろうか。それとも、生涯兄の名を守り続け生きていくおつもりなのか。
「私を慰める必要など無い。己の不甲斐なさは、己が一番よく分かっているよ。だがマルセル、私はやっと皆の力になれそうだ」
「は?」
 王はにこりと笑うと、おもむろに玉座から立ち上がった。
「私も戦場へ行くぞ。フィルラーンの聖女が戦場で戦っているというのに、男の私がこそこそと隠れている訳にはいくまい」
「フェ……リュシアン王……!」
「ベスカ国にいるテガンに伝えよ、再びフィードニアを攻める故、私が行くまでに準備をしておけとな」
 マントを翻し歩いて行く王を、マルセルは慌てて止めた。
「お待ち下さいリュシアン王、貴方に万が一のことがあれば、この国はどうなるのですか」
「このまま手を拱《こまね》きフィードニアに攻め込まれでもしたら、王座で震えていた所で同じことではないか。戦場へ出てこそティヴァナ国の王だ、そうでなければ国民も私を認めぬだろう。その機会を、あのフィードニアの聖女が与えてくれたのだ」
 王はマルセルの肩を叩き、まあ見ていろ、と言うと今度こそ接見の間から出て行った。
 確かにティヴァナの王は傑物が多く、戦場へ自ら赴き兵士と共に戦ってきた歴史がある。本物の第一王子リュシアンが生きていたら、彼もそんな王になったことだろう。だがそんな猛者たちも、病には勝てなかったのだ。
 残された第二王子フェルティスは、幼い頃より剣よりも学を好む方だった。あの病さえなければ、覇王とそれを支える政務官として、きっと二人はティヴァナを強固なものにしていったであろうに、悔やまれてならない。
 だがそれは本人が一番分かっていることだ。リュシアン王の代わりを務めてはいても、フェルティスが彼と同じく戦場で傑物となれる訳ではない。ここで無理をさせてむざむざとティヴァナ王家の血を絶やすことなど出来ぬのだ。
 止めなくてはならない。そうは思っているのに、けれど先程の晴々とした王の顔を思い出すと、止めることが憚られるような気がした。












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